(二)-1
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文政十年(1827)、高知城下で容堂は生まれた。藩主の息子としてではない。分家の子だ。山内の姓を名乗り千五百石取りといえば恵まれているようでもあるが、家柄は五連枝の中では最も格が低く藩主一家には頭が上がらない。それが急転したのが嘉永元年(1848年)のことだ。
十三代藩主豊熈が急逝し、跡を継いだ実弟もわずか十日ほどで身まかってしまった。
そこで、分家当主豊信こと容堂が急遽跡を継ぎ、十五代藩主に据えられることになったのである。
一生土佐の中で暮らしたかもしれない千五百石取りが二十四万石の太守に成り上がり、江戸に出ることになった。しかし容堂は委縮もしなければ舞い上がりもしなかった。そんな眉目秀麗にして剛毅で聡明な青年藩主に、皆が好感を抱き、親身になってくれた。
阿部正弘、藤田東湖、伊達宗城。そして、島津斉彬。
宗城以外はいまや皆故人となってしまったが、彼らから受けた薫陶は今でも容堂の財産だ。
しかし江戸で幕府や他国の人間と交わるという外交をしているうちはいいが、内政となると困難が山積した有様だった。
もとが分家の出で、穴埋めとして藩主に据えられたにすぎない身の上だ。十二代藩主の豊資は大御所や上皇のごとくいまだに隠然とした権力を保ち、容堂の藩主就任間もなく、豊資十一男の豊範が次の藩主と決められてしまった。
山内本家にとり、容堂はただの中継ぎでしかないのだ。
さらに家臣にも問題がある。先々代、事実上の先代藩主豊熈が引きたてた吉田元吉という男がいる。号して東洋。
上士としては家格が低いが異例の抜擢を受け、船奉行や郡奉行を歴任した。役儀を的確にこなすだけでなく高い見識を持ち、海防や農政に関して何度も意見書を提出している。
その書面は容堂も、藩主に就任してから目を通した。
内容自体も優れているが、さらに読んでいるだけで伝わる執筆者の勁烈な気性が深く心に食い入る。才能だけなら土佐一国にはもったいないほどの男だ。しかし反発の感情もまた同時に生まれる。
その気性のあまりの鋭さと激しさは、職務にとどまってはいなかった。
代替わりに際して、惜しげもなく奉行を辞職して田舎に引き込んでしまったのだ。地位に眷恋しない、豊熈への忠義を貫くと言えば聞こえはいいが、本家に比べれば馬の骨に等しい分家の若造などに仕えたくないという誇示にも見える。
そのような狷介な男は無理に任用してもいずれ必ず問題を起こすだろう。いや、すでに過去に起こしている。
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