幸せの切符

結田 龍

第1話

 私はこうでなければならないとか、自分の中にルールがあって。

 いつの間にか、がんじがらめになっていたのかもしれない。

 そのルールから外れそうになった時、無性に不安になって、焦って、焦って、恐れを肥大させてしまっていた。


 私はただ幸せになりたかった。







 私がこの島に降り立ったのは、なんと十年ぶりのことだった。


 南国のおおらかな気が満ちた、海に囲まれた島。日本の南西に位置し、熱帯の美しい花々と、吸い込まれそうな空と、宝物のような深遠の海が広がる。

 訪れる者をけっして拒むことのない優しい島。


 私は島の空港から、バスに揺られて二時間、海沿いに走っている国道の、少し奥に入った場所にある祖母の家を訪ねに来た。

 国道沿いのバス停に降り立った私は、ここから見える祖母の家を眺めた。

 潮の匂いと、庭に咲き誇る美しい花々が懐かしく、昔と変わらない佇まいが私をほっとさせた。


 すぐにそこに行くのがなんとなく躊躇われ、バス停に設置してあるベンチに座った。

 持っていたボストンバックから、一本タバコを取り出し火をつけた。私は健康に気を使い、一ミリのタール(少し女性を意識したそれ)を好む。

 私はゆっくりと吸い、肺に送り込んだ。

 メンソールの冷ややかな感触と、脳内を犯す煙を味わいながら、細く吐き出す。

 白い煙はゆっくりと空へのぼり、傾きかけている太陽の下に消えていった。


 暦の上では既に十月であったが、この島は空気がからっとしていて気温は高かった。

 しばらくベンチに腰を預け、ちりちりと燃えるタバコを吸いながら、潮の音に耳を傾けていた。







「ねえちゃん、なんやひさしぶりやなぁ」



 この島では聞きなれない土地の言葉が耳に入った。


 祖母の家に着くやいないや、祖母からの手厚い、そして照れくさい歓待を受けた。

 電話で祖母と話してはいたが、久々に会った祖母は少し痩せたように思う。


 しばらく祖母と談笑していると、縁側の方から大きな声が聞えてきた。

 丸坊主の背の低い、肌が日に焼けて黒く、やんちゃな顔の少年がそこにいた。

 今年で小学三年生になるいとこの太助だった。歳の離れたいとこ。

 伯父さんの仕事の都合で、太助は二年前にこの島へ引っ越してきた。家は、祖母の家からバスで二駅先に行った所にある。


 それまではよく遊んであげていた。

 子供だからすぐに土地の言葉はなくなるだろうと思っていたが、一向に消える気配はなかった。

 彼曰く、この方がモテるからだそうだ。



「太助、学校は?」


「今日からねえちゃん来るって聞いたから、早く切り上げてきたんや。今日はおれが手厚くもてなしてやるからな。後でかあちゃんも来るって言うとったで。今日はご馳走やで、ねえちゃん」


「そっか。ありがとう」



 この島の人は、何もかもが優しい。

 






 デニムのパンツに長袖のニットというラフな格好は、本当に久しぶりだと思う。


 社会人になってからの殆どをスーツで過ごしていた感覚がある。

 普段は、一応大きな会社で企画の仕事に就いている。

 毎日がまさに戦争という言葉がぴったりなほど忙しく、気が張り詰める。一人でいくつもの業務を抱え、仕事に塗れていた。



 疲れた。



 そう認識できたのは、二週間前に会社で倒れたことがきっかけだった。

 それからしばらく病院にも通ったが、何も改善は見られなかった。

 休職を願い出て、一月だけ了承してもらい、この地へやってきた。


 人の手があまり入っていない、自然だらけのこの土地。テレビのチャンネルは限られていて、買物をする場所さえ遠ざけられているこの土地が、私は急に恋しくなった。







 ここでの暮らしは、毎日が単調だった。

 陽が昇ると起き出して、陽が沈むと仕事をやめて夕飯になる。午後八時も回ると、みんな寝静まってしまう。

 規則正しい生活。

 私は毎日、庭の花に水を遣って、お風呂掃除をする。たまに祖母の畑仕事を手伝う。

 ただ時折やってくる太助が祖母の家にやってくると、とたんに辺りが騒々しくなる。まさに台風だった。


 祖母がこの島で暮らし始めた私に、唯一守らせていることは、太助が来たときは太助と一緒に遊ぶことだった。

 それ以外はとやかく言わなかった。







 夕方、遊びに来た太助と一緒に、家の近くの海に来ていた。

 太助は地面に蹲り、必死にヤドカリや虫を探していて、私はテトラポットに腰かけて、タバコを燻らせていた。



「ねえちゃん、好きな人おるんか?」


「は?」



 私は突拍子もない太助の言葉に驚かされた。

 びっくりしてタバコを落としかけた。ここでのタバコは貴重だ。

 なぜなら買いに行く店自体が、ここから遠いからだ。



「おれはおんねん。二組のクミコと、同じクラスのさえ。でもこの間、二組のしおりに告られてん。おれ、断ったんやけどな」



 ふふんと、少し誇らしげで、ちょっと困ったような顔で太助は言った。


 ませている。それが私の正直な感想だ。

 手足を泥だらけにして、顔にまで土をつけて、精一杯遊んでいる子が、この歳になるとませてくるのか。

 しかし同時に、こんな小さい子でも「切なさ」というものを感じているんだと、妙に感心させられた。


 太助は、照れくさかったのか、恥ずかしかったのか、その話はそれで終わりにしてしまい、学校での話をしてくれた。

 今度ある注射がどうしても嫌だという話や、難しい算数のドリルをいかにして解いたかなど。

 大人の私からすれば、ほんの些細な出来事に過ぎないのだが、太助にとっては全てが大事なことらしい。

 そんな太助がうらやましく、自分の幼かった日々を懐かしく思った。



 小さなことでも感動できる私は、どこへ行ってしまったんだろう。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る