逢瀬数秒間の恋

愛世

逢瀬数秒間の恋

 朝八時半を五分くらい過ぎた時間帯。街一番の大きさを誇るこの交差点を私はいつも通る。それは専門学校に向かう途中に現れる交差点。待ち時間は長し、人通りは多し、車の往来も激しい。


 それでも私がこの交差点に立つことを楽しみにしている理由。それは――彼。


 いついかなる時もキチンとスーツを着こなす若い男性。みんなが赤信号に痺れを切らしてだらける中、彼だけは姿勢を崩さない。信号待ち集団の前列は私の特等席。大通りの反対側にいる彼もまた、いつも一番前にいるから。その姿を大通り越しに見つめる、視力両目ともに二.〇の私。


 まだ人生ひよっこの私には、そんな大人な彼の姿がいやに眩しく見えた。


 晴れの日も、曇りの日も、雨の日も。私は彼を見つめるために交差点に立った。専門学校なんて二の次。


 だって、私はここでしか、彼に会えないから。


 ぼーっと立っていたらいつの間にか信号機が青、「カッコー」と機械音が鳴り始めていた。いよいよ彼とすれ違う時。彼とこの交差点で出逢ってから半年は経つというのに、いつもこの瞬間になると変に緊張しちゃう。チラチラと彼を窺う私の視線が忙しない。


 あと十メートル……、あと五メートル……、あと……。


 あっと思った瞬間、彼とのすれ違いざま、柑橘系の爽やかな香りが鼻をかすめた。そう、それは、瞬きを数回するかしないかの、ほんの僅かな間の出来事。


 彼はもちろん振り返らないし、私ももちろん振り返らない。


 横断歩道を渡り続ける私に残ったのは「カッコー」の音だけ。次第に湧き上がる嬉しさから、私は青空を見上げて、つい口元を緩めた。


 こうして今日も無事に成し遂げることができた。それは、週五日間の、誰にも内緒の私だけの逢瀬。







 次の日も、そのまた次の日も。私は彼に会うために、同じ時間帯、同じ交差点に立ち続けた。運悪く青信号にひっかかる日もあるけれど、大抵は信号待ちで彼との逢瀬を楽しむことができた。







 ある日、私は凝りもせずに交差点で信号待ちをしていた。


 今日の彼の来訪はいつもより遅い。時刻は同じくらい。何かあったのだろうか。……なんだか不安になってしまう。


 曇天も相まって、私が心配顔で信号待ち集団の中で立っていると、やっとで彼が現れた。今日も彼の顔を見ることができた。ホッとしたのも束の間、私の零れた笑顔はすぐに固まってしまった。


 ――彼の隣には見知らぬ女性が立っていた。彼に負けないくらいの格好いいスーツ姿で、さらさらの長い黒髪を風になびかせて。まさにお似合い。どう見ても二人はいい雰囲気だった。


 呆然と立ち尽くす私の耳にあの機械音が鳴り響いた。「カッコー、カッコー」とうるさく私の耳を刺激する青信号。渡らなくては。後ろからは私を邪魔に思う苛立ち。……渡ろう。私は無理やり両足を動かして、一歩一歩横断歩道を渡っていった。


 近づいてくる二人との距離。いつもうるさいくらい高鳴る胸は嘘のように静まり返っている。代わりに蝕んでいく鈍い痛み。呼吸が上手くできない、顔も上げられない。俯いたらイヤイヤ歩く自分の両足が見えてしまい、さらに心が痛んだ。


 ……もう十メートル、……もう五メートル、……もう――。


 そして、私の横を颯爽と彼と女性が通り過ぎていった。私の耳に残る、二人の楽しそうな笑い声。私の鼻に残る、柑橘とフローラルが入り混じった香り。


 もうすぐ渡り終わる。それなのに私の心は横断歩道の真ん中に取り残されたまま。下唇を噛んだ顔は前を向くことを忘れ、私の視界はじわりと滲んでいった。







 それ以降、私があの時間帯にあの交差点を横断することはなくなった。もう彼との逢瀬にワクワクすることなんてできない。幸いにも、彼は私のことを知らない。


 だから、もうこの数秒間の関係は終わり……。







 あれから数ヵ月。


 私はついにやってしまった。何をやったのかと言うと――大遅刻。


 朝あそこを通りたくなかった私は、早めに学校へ行くか、別ルートを選ぶことで彼を避けていた。けれど今日はどちらもムリ。あの時間帯、あの交差点を通るしかない。


 恐る恐る信号待ちの集団に紛れ込むと、行き交う車の隙間に彼の小さな姿が見えた。当たり前だけど今日もいる。内心穏やかでないが、向こうにとっては私なんていち通行人の一人。私の存在に気づくわけがない。


 途切れることのない車の喧騒。リズム良く「ピヨピヨ」と鳴く可愛らしい機械音。早朝から疲れ気味のサラリーマンやOL。


 雑踏の中に潜む私が見守る中、不意に向こう側で彼が顔を上げた。意図せず合ってしまった目と目。――その瞬間、世界はスローモーションに変化した。音は消え、呼吸は一定になり、私の焦点は彼ただ一人。


 初めはただ、大きく見開かれただけの目。次第に彼の顔が、私がひとつ瞬きをするごとに不思議と綻んでいく。


 ハッと我に返った頃には機械音は「カッコー」に切り替わっていた。横断歩道を渡り始めた周囲に押され、何がなんだか分からないまま私も歩き始めた。さっきの奇妙な感覚はもうない。私も周囲もいつもの日常だ。私は視線を微妙に彷徨わせながら、顔の角度は斜め下を意識してやり過ごそうとした。


 ……大丈夫。……痛くない。……大丈夫。


 横断歩道の真ん中に差し掛かった時、ふと私の視界に男性の革靴が。相手が立ち止まり、それにつられて私も立ち止まる。


 休みなく耳に飛び込んでくる雑踏。私達を上手く避けていく通行人たち。未だ鳴り止まない「カッコー」。


 ――そして、雑踏に紛れて頭上から聴こえてきた低音の呟き。


 私はようやく顔を上げた。そこにいたのは――彼。初めて間近で見た彼の顔は、予想以上に柔和なものだった。



「……おはようございます」



 さも当たり前のように紡がれた朝の挨拶。朝陽を受けた微笑は、光そのものよりも眩しかった。



「……またお会いできましたね」



 突然の対面に私の顔はきっと呆けたものだったに違いない。それでも彼は満足そうな表情を浮かべ、まるで何事もなかったかのように去っていった。


 私は慌てて後ろを振り返った。彼はまだ視界の範囲内。堂々とした後ろ姿が徐々に人混みに紛れ小さくなっていく。そこでやっと私はこれが初めて目にした彼の後ろ姿だということに気づいた。


 「カッコー」が鳴り止んだ。青信号が点滅している。急いで横断歩道を渡り、振り返った時にはもう彼の姿はどこにも見当たらなかった。


 胸のドキドキは最高潮。けれどそれは、絶対に急いで横断歩道を渡ったからではない。


 ――だって、彼の声を聴いたから。あれは決して聞き間違いなんかじゃないはず。


 そして私は前を向いた。さっきまでの憂鬱な足取りとは違う、浮ついた心を隠せない羽のような足取りで。


 今日の天気は良好、恋日和。私の恋はまだまだ終わらない、そんな明るい予感で満ち溢れていた。




『……良かった。もう逢えないかと思った……』





                  〜fin〜










 最後までお読みいただき、ありがとうございます!もし叶うなら、アンサーソングならぬアンサーストーリーを描きたいです。


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