第16話 国境の森の戦い

「リュストレー殿下! どうかご退却を! 本軍は囲まれてしまいました!」

「前の第一軍、二軍はどうなった?」

「わかりません! 最初の戦況は有利でしたから、かなり奥深くまで攻め入ったと推察されます! しかし、地の利を利用され、我が軍は完全に分断されてしまいました! 正午以降、後続との連絡も途絶えております!」

「くっ……そ!」

 リュストレーは唇を引き結んだ。

 薄暮にはまだ間があるが、深い森のこととて昼間でも薄暗い。陽が落ち始めたらあっという間に、闇が迫ってくるだろう。

 そうなれば、夜目もけるという緋熊ひぐまの軍が圧倒的に優勢になる。

「どうか殿下、殿下だけでもお逃げください! 我々が道を切り開きます! 後のものは足止めを!」

「できるものか! 最後まで戦う!」

「殿下!」

「どうせ短命の運命ならこの命、有意義に使わせてもらう。それに、ここが突破されれば、国境近くの民はどうなる? 緋熊の兵は容赦なく全て奪っていくぞ!」

「しかし!」

「……ここは深い森だ。囲まれたとて、遮蔽物しゃへいぶつが多いから一気に殲滅はされまい。それに……一つだけだが、道はある」

「道ですと? 道など、どこにもありませぬぞ!」

「いやある。あれだ」

 リュストレーが示したのは、森を流れる川だ。

「かつて、同じような状況での戦いがあった。その司令官は水を背に決死の陣を組み、敵を打ち負かしたということだ。だが、ここでは陣は組めない。このまま川に飛び込む」

「そんな! 無理です」

「無理ではない。幸いあの川は大きくはないし、今の季節は水は少ない。冷たいがな。だが馬は泳げる。できるだけ二人ずつ馬に乗り、乗り切れぬ者はロープでくくりつけよ。そして、森を抜けたところで、先攻している一軍と合流して敵を挟み込む」

 そう叫ぶと、リュストレーは自ら馬首をとって返し、わずかに光が差す方向、つまり川岸へと駆け出した。

「続け! 勝機はここにしかないと心得よ!」

 指揮官たる、王太子に逆らえる者はいない。彼が死ねば、この戦は負けたも同然なのだ。

 彼を守る護衛士、将官、そして騎兵、そして歩兵たちは一斉にリュストレーの馬を追って駆け出した。

「どうっ! どうっ!」

 一軍は川べりに出る。そして案の定、水量は少なかった。しかし、水嵩が少ないということは、水面みなもまで距離があるということだ。

 川岸は崖ではないものの、かなりの急勾配である。馬は基本的に急な下り斜面を苦手とする生き物だ。たとえよく訓練された軍馬であっても、行き着く先が川であればなおさらだ。

 平らなのはわずかな面積だけである。そこに続々とリュストレー率いる本軍、五百が集結した。

「行くぞ!」

 リュストレーは、一番近い位置に立っていた歩兵を自分の馬に引き上げると、そのまま斜面を駆け降り、さぶんと川に躍り込んだ。次々に騎兵や歩兵も飛び込んでいく。

 水量は少なく、流れも急ではない。しかし、北の森の水は長らく浸かっていられる水温ではない。人も馬も、腰や足が水に浸かっているのだ。長く濡れると体力の消耗は必至だった。

「踏ん張れ! 流れに逆らわず三百メートルほどいけば森が切れる! 耐えるのだ! 銀獅子の勇者たちよ!」

 リュストレーは、そう叫び、兵士たちを励ましながら必死で馬を御した。

 そうしてやっとの思いで上陸した時、本軍は疲労困憊し、一部は脱落していた。しかも体を温める術もない。

 敵の姿はまだ見えないが、そう多くの時間があるとも思えなかった。

「できるだけ水気を振い落としたら、すぐに進軍を開始する!」

 兜を脱いだリュストレーは王家の象徴である、長い銀髪を荒々しく絞って叫んだ。風が髪をなぶり、彼の背後で輝く。その姿は、まさに軍神のように兵士たちに映った。


 戦況は一転した。

 国境地帯北端で始まっていた第一軍の戦闘の横腹に、横っ腹からリュストレー率いる銀獅子国本軍が突っ込んだのだ。

 森を迂回し、下流から駆け登ったため、敵に発見されることなく戦場となった丘陵地隊に忍び寄ることができた。そして、苦戦する一軍二群を、自国領土に誘い込もうと躍起になっていた緋熊軍に、大きな損害を与えることに成功する。

 もともと数をたのみに、正規兵の数が少なかった緋熊軍は、なし崩しとなった。

 特に少数民族から駆り出された民兵たちの戦意は低く、あっという間に逃亡してしまったのだ。

 夕刻を待たずに戦闘は終結の兆しを見せる。

「深追いするな! 逃げる敵は逃せ! 緋熊の領土内には絶対に入ってはならん! 殿下のご命令だ!」

 伝令達が声を枯らして駆け回る。

 混乱する戦場は、むせかえるような鉄の匂いに満ちていた。

 リュストレーはやや高いところから戦場を俯瞰している。彼は作戦を立てはしたが、実際の戦闘には加わってはいない。いくら机上の知識があっても、実践経験のない王太子では、最前線の指揮はつとまらぬと見た将官たちが、周囲をがっちり固めてしまったからだ。

 だから、リュストレー自身の剣は血に染まってはいない。ただ弓は得意だったので、矢筒が空になるまで引き続けた。

「殿下、戦の趨勢すうせいはもう見えております。日が暮れる前に安全な後方までお下がりを」

「わかった。雑兵は追うな。正規兵の将官たちはできるだけ捕虜にしろ。停戦条件が有利になる」

「は! 私が先に立ちましょう」

 副官が彼の側に寄り添う。

 これ以上、自分がいても役立つことはないと悟ったリュストレーが、馬首を巡らせた時、いきなり背後から切りつける影があった。

「大将首!」

 緋熊の兵だ。黒い兵服をつけている。

 気配はなかった。完全に虚をつかれた。

 リュストレーが見たのは、傾きかけた陽を受ける曲がった刀。唸りを上げる剣風。

 自分の頭部目がけて振り下ろされる刹那。

 どうせ短い命なら、せめて国に役立ってから死のうと、ここまでやってきたのに、その瞬間、リュストレーの脳を支配したのは、たった一つの感情だった。

 

 死にたくない!


 そう思った時、リュストレーの視界は突然暗くなった。

 恐ろしくて目をつぶってしまったのか、それとも死んで地獄にやってきたのかと、目を開けてもあたりは薄暗い。戦場の喧騒も聞こえない。

「ここは、どこだ?」

 護衛の将官を呼んでも答える者はいない。乗っていた馬はもちろん、敵の姿もなかった。


 森? 国境の森か? 

 まさか私は、自分を転送してしまったのか?

 殺されることに怯えて、あんなに苦労して抜けた森の中に戻ってしまった?


「いったい私の力はなんなのだ! 今すぐ戦場へ戻れ! 戻してくれ!」

 いくら叫べども、そのような現象は起きない。

 国境地帯の森は深くて広い。数時間前にはあんなに逃げ惑った場所だが、今ここにはもちろん敵はいない。

 いったいここは、森林のどの辺りなのか?

 静かだ。

 陽が差さない森は寒く、鎧の中の乾かぬ衣服は体温を奪っていく。このままここで夜を迎えてしまっては、凍死してしまうかも知れなかった。

「おおーい! 誰か! 誰かいないか!」

 体を温めるため、リュストレーは走りながら探し回った。夜目は効く方だが、こう暗くては方向がわからない。

 一時間以上森を彷徨さまよったあげく、遠くに炎の灯りが見えた。それも小さな光ではない、横に広がる大きな火だ。


 緋熊の残党か? まだいたのか? あの火の大きさからすると、少なくとも一個小隊入るのだろうか?


 探りをいれようと、用心しながらもリュストレーは、明るい方向へとにじり寄った。

 次第に空気が温んでいくのがわかる。そして、その風に含まれるものがある。

 血の匂いだった。

 それも尋常ではない、数の人間の血が流されている。


 何が起きている?


 大きな樹木の影から顔を出した彼が見たもの。

 それは──

 燃えさかる集落だった。



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