03 おっちゃんと俺(4)

「お前は僕を苦手にしているものな?」

 榊に図星をつかれ、

「に、苦手じゃなくて榊さんにはかなわないなって。俺は魔術も使えないただの人間で、榊さんはこの町の住民を管理する呉井家の人で」

 愛作の右手が左の上腕部に伸び、蚯蚓みみず腫れのような魔術刻印のある位置をシャツの生地ごと握った。

『海辺の町』を覆う結界を自由に出入りできるパスポート代わりのそれを、町の人間全てに刻印しているのは呉井家であった。

 愛作や葉月を始めとする町の人間、そして、おっちゃんのような町に必要と認められた外部の者の肌には、例外なく呉井家の現当主自ら刻み込んだ魔術刻印がある。

 父が珍しく泥酔したときに、

「おれたちは焼き印をおされた家畜じゃないんだっ」

 と、こぼしたのを聞いたことがある。

 この刻印にはそのほかにも、『支配層』に対する精神的隷属を強める効果があるそうだ。

 町の人間が、半魚人たちに屈従することに甘んじているのは、生後すぐに付与することを義務づけられている魔術刻印の力が大きい。

 魔術刻印による強制ギアスで『支配層』にとって居心地のいい階級コミュニティを構築できること。

『神さま』を召喚して町の繁栄の約束をとりつけることと並び、呉井家が『支配層』でいられる理由がこれであった。

 魔術刻印に縛られている愛作の複雑な感情も知らず、榊は続ける。

「今の僕の魔術は父に比べたら未熟もいいところだが、『銀の黄昏錬金術会』にいる世界最高峰の魔術師マスターたちに師事すれば、数年で父に肩を並べられるだろう。この町の次世代の住民は僕から魔術刻印を与えられることになる。そして、僕はこれまでの呉井家当主と違い、『神さま』との交渉に生贄を提供せずに済むように、高度な魔術を会得するだろう。そのときこそ、『海辺の町』が退廃の歴史に訣別けつべつして、新しく生まれ変わる時だ」

(生贄って、そんなことしていたのか。そして、榊さんはそれをやめさせようとしている。父さんから『神さま』は人間の理屈が通じないおっかないものだって聞いたけれど、榊さんが言うとうまくいきそうな気分になるな)

 榊の、自身の可能性と未来を信じて疑わないところは愛作に欠けている部分である。その強い意志は愛作にはまぶしく見えた。

 榊はソファの傍らに置いていた、おっちゃんから届けられた封筒を開けた。

 中から取り出されたのは年季の入った革張り装丁の洋書である。

 何の気なしにそれをパラパラと流し読みした榊の整った眉がひそめられる。

「なんだ、この魔導書は…ルルイエ異本のイタリア版からの写本と聞いていたが違うぞ」

 どうやら想定したものと記載内容が異なるらしい。愛作にはわからない外国語で書かれたそれに榊は注意深く目を通していく。

(ルルイエ、さっき聞いたな。クトゥルフってのがいる南太平洋の……寝床?)

 榊は愛作の存在を忘れたかのように、書物に食い入るような目でかじりつき、ページを次々とめくっていく。

「召喚魔法でも結界術でもない。僕は……僕は聞いてないぞ。魂魄こんぱくを……父さんは何をしようとしているんだ」

(コンパク? わからないけど親子間で行き違いがあるのかな)

 居心地の悪さが増していく。

 愛作は辞去する頃合いだと判断した。残ったお茶を一気に飲み干す。

「榊さん、そろそろ帰りますね。お茶ご馳走様ちそうさまでした」

 と、言って葉月を促す。

 榊はパンと本を閉じた。愛作は彼の顔色があおざめているのに気づいた。

 彼は黒い瞳を愛作の方に向ける。

 大変珍しいことに、その視線は厳しさも、冷たさも、嘲りすらもないものだった。

 そう、まるで友人に向けるかのような視線である。

「信じないかもしれないが……。僕はこの町での身分とは関係なくお前には親しみを感じている。半魚人か、呉井家に取り入ろうとする人間ばかりの中で、お前は恐々としながらでも僕から逃げない強さを持っているからだ。だから僕も逃げずに立ち向かう」

 初めて聞かされる榊の評価に、愛作は戸惑う。そして、

(逃げずに立ち向かう? なんのことだろう)

 という疑問は押し殺し、

「強いなんて初めて言われました。俺はただ、榊さんのお誘いに図々ずうずうしく乗っちゃっているだけですよ」

 と、答えた。

「余計な謙遜は不要だ。お前は僕を利用しようとか、やり過ごそうとか考えていないだろう。フン、僕はお前が相手だとつい口数が多くなってしまうな」

(え、これで口数多いのっ?)

 しゃべりのほとんどが自分語りで、親しい後輩との会話としては成立していないのだが。

 榊が愛作を気に入っているらしいこと、自分では会話をしているつもりでいることに驚かされた。

 そのとき、今までの愛作なら思いつかなかったことが浮かんだ。

(榊さん、もしかして友達付き合いほとんどない?)

 上の階級で、頭脳明晰で、ルックスもよく、裕福で、魔術も使えるステータス盛り盛りで満ち足りていると思っていた榊の別の一面を垣間見かいまみた気がした。

 なまじ頭がいいゆえに、自分に近づいてくる者の真意を見透かしてしまい、遠ざけてきたのだろう。

(意外と寂しがりなのかな)

 ようやくクッキーを平らげた葉月が「ごちそうさまでした」と一礼して、ソファからぴょんと立ち上がる。

「じゃあ、行こうか。はづ…」

 と、促して廊下に出ようとした愛作は同じタイミングでリビングに入ってきた何かにぶつかって、再びリビングの方へ突き飛ばされてしまった。

「痛っ」

 後ろに続く葉月をかばうように足を踏ん張り、転倒することは免れる。

 廊下からリビングに入ってきた長身痩軀そうくの男は自身の進路上にいる愛作と葉月の存在など気にもせず進むので、愛作は慌てて葉月とともに横に退いた。

「わわっ」

 愛作の横を通り過ぎてから、男がようやく無礼な邪魔者に気づいたといったていで顔を向けた。

 仕立ての良い黒のスーツに身を包んだ壮年の男性だった。いな、衣服に覆われていない顔や手は肌が骨にぴったりと貼りついたミイラのようで老人と言っても通る。それでいて豊かな黒い蓬髪ほうはつ、乾いた唇からのぞく妙に白く光る歯列が年齢不詳めいた不気味さを醸し出している。

「ひっ」

 愛作はなんとかこらえたが、葉月は小さな悲鳴を漏らしてしまう。慌ててその口を塞いだ愛作は自分より頭ひとつ以上高い男性の上から降ってくるぎらついた視線を、下から受け止めることになった。

 榊に対して対等にまっすぐ突きつけた視線は、男性の凶気をはらんだそれにあっさりと打ち負けてしまった。

「お、お、お邪魔してます」

(死体みたいな顔や手より怖いのはこの目だよ。いっちゃってるっ)

 正気をほぼ全て喪失した目は半魚人より恐ろしい。

 この男こそ呉井家の現当主、呉井きずき

『海辺の町』の全住民に君臨する魔術師である。

 築は息子の唯一と言っていい友人の来訪に父として喜んだか。結果は否。『支配層』でない者は彼にとって等しく侮蔑する対象であった。

「私の進路を邪魔したな。無礼者には罰をくれてやるぞ」

 驚くべきことに築の声は外見とは全く乖離かいりした、若々しい青年のものであった。

 しわだらけの顔でギラギラと光る目の瞳孔が開く。

「うぐっ」

「きゃあっ」

 兄妹きょうだいは同時に叫び声をあげて膝を折った。左腕の魔術刻印が強烈な熱さと痛みを発したのだ。

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