03 おっちゃんと俺(5)

「葉月っ」

 フローリングの上で左腕をおさえて転がりまわる葉月に駆け寄ろうにも、愛作の腕も直接痛覚を火であぶられているかのような感覚に襲われて身動きがとれない。

 魔術刻印の精神干渉により、『支配層』への叛逆はんぎゃくを半ば封じられている人間でも、中には血気盛んな者もおり、呉井築を襲撃しようとした青年らもいたという。しかし、築が暴徒を一瞥いちべつするや、武器を取り落とした彼らは激痛でショック死したらしい。

 その日以来、人々は魔術刻印の隠された機能をしっかりと肝に銘じ、呉井家には逆らってはならないという不文律を厳守している。

「痛い痛い痛い」

「は、はづ、き」

 いっそ自分の腕をもぎとってしまいたくなる痛みに愛作もすべがない。

「父さん、お帰りなさい」

 榊が築に声をかけた。手には届いたばかりの魔導書が抱えられている。

 先ほどまでのセリフと裏腹に、榊は床で苦しむ兄妹に目もくれず、父親に魔導書を差し出した。

「アーカムの古書店からようやく届きました」

 築が視線を本に移してそれを受け止るや、兄妹は責め苦から解放された。

「届くのはルルイエ異本と聞いておりましたが」

「榊よ、中をあらためたのか」

「すみません。魔術の研鑽けんさんを積みたくて少しだけ覗きました」

 さすがの榊も父親の前ではしおらしい。

 愛作は呼吸を整えつつ、うように葉月のもとに行くと、妹の華奢きゃしゃな体を起こした。葉月はポロポロと涙をこぼしているが、築への恐怖からか泣き声は堪えている。

 最愛の妹をひどい目に遭わせた築に対する怒りが胸のうちたけるが、文句の一つでも聞かれたら、拷問が再開されるのがわかっていた。葉月をここから連れ出すことだけを考える。

「榊、この魔導書に何が書かれているか理解したのか」

「いえ。そこまではわかりませんでした」

 なぜか榊は噓をついた。そして、愛作と葉月に向かって、

「グズども、さっさと消えろ。玄関はあっちだ」

 と、冷たく命じた。その黒い瞳は元の冷たさを取り戻していたが、後ろめたい光にかすかに揺れていた。

 しかし、愛作はそこに思いをせる余裕がなく、ぐったりとなった妹に肩を貸してリビングを後にすることだけに集中した。

 できるだけ早く出ていきたいが、二人とも虚脱したように足取りが重く、必要以上に時間を要した。

 築の不気味な声が愛作の背中に届いた。


は若くてきが良いな。使


 明らかに自分たちのことを指していた。

 愛作は重い体にむちを打って玄関へ急ぐ。

 樫材の玄関ドアを出る際に、

「長年の研究で正気を多く喪失し、肉体が呪詛じゅそで朽ちかけた魔術師が次に目指すは」

 と、までは聞こえた。愛作は意味を考えないようにして敷地の外へ向かう。

 最後に、榊のものと思われる叫びがうっすら耳に届いたが、戻る勇気も体力もなかった。

 震えが止まらない。


「そんなことがあったのか」

 おっちゃんは愛作の話を聞き終わると、手にしていたおにぎりの最後のかけらを口に放り込んだ。

「後ろからグサーッとやられるんじゃないかって門を出るまでヒヤヒヤしたよ。遠くから見かけたことはあっても、あんな至近距離であのゾンビみたいな顔を見たのは初めてだったからさ。魚になった人より怖かった。何よりあの激痛地獄は二度とごめんだね」

 愛作はそう言って、背中と胸をおさえてみせた。

 呉井家の一件から一カ月近くっている。

 榊は誰にも挨拶せずに、留学先に旅立ったらしい。

 呉井家当主の築は病にかかったとのことで自宅に籠るようになったと町のうわさで聞いた。

 再び荷物の配達に『海辺の町』を訪れたおっちゃんを見つけた愛作は、おっちゃんの休憩時間の話し相手として、助手席を陣取った。

 ラジオから流行はやりの曲が流れている。そういえば、結界の中にも電波は届くんだなと改めて気づいた。携帯の電波、ネットの回線も同じだ。『神さま』は住民の利便性を重視した結界を張ってくれているのだ。これは交渉担当の呉井家の功績と言っていいのだろうか。

「呉井の旦那はおっちゃんのクライアントってやつだから、あまり悪く言うなや、少年」

「おっちゃんはどうしてあのゾンビ、いや、呉井と知り合ったの?」

「うーん、あれだ。安定収入が欲しい労働者と、ワケアリ過ぎる発注元の利害の一致ってやつだな。ハハハ」

 おっちゃんはラジオのチューニングをしながら笑う。どの局もつまらんな、と文句が出た。

「度胸あるね」

「おっちゃんは差別も区別もしないのさ。お金は誰からもらっても価値は変わらない」

「今言ったことは前半いいことなのに、後半ちょっと萎えるな」

「この町だって必要な物資がなければ結界の中に引きこもっていられんだろう。少年のようにあっちとこっちを行き来できる刻印持ちはいいとしても。町の外に出た途端に化け物扱いされて狩り立てられちまうのも多いんだ。そいつらにだって生きるための物資は必要だ。それなら誰かが届けてやるしかないさ。もちろん対価はいただく。それが労働ってもんだよ少年」

「そうかあ。誰かの足りないところを埋めるために動くことが労働なんだな」

「ただな、悪いやつらが相手だとしたらそれは論外だけどな」

(悪いやつ……俺らを差別するのは悪いことじゃないのかな。だとしたらあいつらのために働くことはないんじゃない。それに、化け物扱いっていうか、あいつらは化け物と言っても過言ではないよな)

 不意に、二年前の夏の出来事が脳裏に浮かぶ。


 ──化け物!

 今はいなくなってしまった少し薄情だった友人の声を振り払うように、愛作は頭を振り、

「おっちゃん、今日は配達につきあっていい? おっちゃんと話してると俺の将来に向けた視野ってやつが広がるんだ」

 と、ねだった。

 町を歩いているとつきまとう侮蔑のプレッシャーが、おっちゃんといると晴れる。それは愛作にとって数少ないリラックスできる時間だが、少しだけ高尚に言い換えてみた。

 おっちゃんの仕事が忙しいときは配達を手伝う。重いものを腕の力だけに頼らず全身を使うことで軽々と運べるようになった。同年代の少年よりきびきびと動くことを覚えた。

 暇な時は馬鹿話をして背中を叩き合ったり、時には両親にも言えない悔しかった出来事を打ち明けて、感情の整理をすることもあった。

 また、おっちゃんが『支配層』に嘲笑されることがあった時などは、本人より愛作が怒りを爆発させて立ち向かおうとしたこともあった。それを押しとどめるおっちゃんの大人の対応に反発心が芽生えて暴言を吐くことすらあったが、おっちゃんは怒ることなく、淡々と仕事をこなしていた。愛作は、負の感情をくだらねえやと受け流すその広い背中を見て、大きな度量の育て方を知った。

 愛作はまた階段を一歩上がった。

 そのような日々が二年ほど続き、高校二年生になった彼から卑屈さはすっかり抜け落ち、おっちゃんの存在が彼の心をたくましくしたことは明らかであった。

 そして、今『海辺の町』に運命の時が迫っていた。

 日々強まる海鳴りが、その日を予告する。


 呉井榊が帰ってきたのだ。

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