03 おっちゃんと俺(3)

 馥郁ふくいくたる紅茶の香りに愛作の鼻の穴が膨らむ。

 呉井家のリビングはこの町でいちばん洗練された空間である。

 高い天井で大きなファンが旋回し、四メートル近い高さの窓にかかった肌理きめの細かいレースのカーテンは薄曇りの陽光を柔らかく遮っている。

 呉井家の当主は成金趣味とは一線を画しているらしく、モダンで趣味のいいダークブラウンの革張りのソファと、深みのあるダークグリーンのガラス天板のテーブルを中心とした室内は嫌味にならない程度の高級調度で飾られている。床はダークウッドのフローリングで、テーブルとソファの辺りだけ、毛足の長いペールホワイトの絨毯じゅうたんが敷かれていた。

(何度来てもおしゃれすぎてくつろげないんだよなあ。榊さんがおっかないって理由もあるけど)

 紅茶を飲むとき、ズッと音をたててしまった。向かいの席から飛んでくる侮蔑の視線は意識しないように努めた。

 お茶の給仕をしてくれたメイドは榊の手の一振りで下がってしまったため、リビングには愛作と葉月、彼らを招いた榊の三人だけ。

 榊は沈黙が気にならないのか無言でいる。その一方で、この沈黙に耐えられない愛作にとっては苦痛な時間が流れる。

 なんとか会話しようと思い、この紅茶はどこの国の茶葉なんですか、のセリフを紅茶と一緒に飲み込む。

 お前に茶葉リーフの違いなんかわからんのだから黙って飲め、と言われるだろう、間違いなく。空気が凍る。

「わあ、このクッキー、すっごくおいしいよっ」

 ご相伴しょうばんにあずかった葉月が目を見張って報告してくる。妹は兄より肝がわっているようだ。

 そうだろう、と満足げに榊の口角が小さく上がる。

 榊は人差し指、中指、親指の三本でティーカップのハンドルをつまんで持ち、もう片方の手はカップの底を軽く支えて、上品に紅茶を喫する。

(育ちがいいから様になるなあ)

 愛作は素直に感嘆する。榊の所作は実に堂に入っており、そのスマートさは認めるしかない。

 これでさらに、頭脳明晰めいせきでイケメン、家は裕福とくれば最強である。冷淡で傲岸ごうがんなところも魅力のひとつだと評価する女性も多い。

「愛作。お前に言っておくことがある」

 ティーカップをソーサーに置いた榊が黒い瞳でじっと愛作を見つめる。鋭くてらしたいのに、逸らすなと無言で命じてくる視線は、愛作を蛇に睨まれたかえるの気持ちにさせる。

 呉井家は『支配層』の中で唯一、異形の血が入っていない家系だという。

 つまり、人間である。思春期を過ぎてえら水搔みずかきが生えてくることはない。体から拭えない潮の匂いもしない。

 では、人間が人間だというだけで差別される『海辺の町』で、呉井家がなぜ『支配層』の中でも有力なポジションでいられるのか。

 町の住民なら誰でも知っている。

「僕の留学が決まった。アメリカの東部にある大学だ」

 榊は続けて大学名を言ったのだが、愛作は聞き洩らした。

 とっつきにくくて、おっかないが同じ人間であり、こうしてお茶にも招いてくれる彼に対して、少なからず親しみを感じていた愛作にとって大きな衝撃だったためである。

 ミスカ…なんとか大学と言っていたようだが、もう一度教えてくれと言えるような気やすい関係性ではない。

「はあ、すごいですね。アメリカって遠いですね」

 月並み以下の返ししかできず、愛作は少し気恥ずかしくなった。榊の前だと軽口をたたくのも難しい。

「結界に隠れたこの町でこれ以上学ぶことは難しい。僕の父も祖父もその大学に留学して……」

 榊はそこでひと呼吸おく。

 静かなリビングに葉月がクッキーをかじる音だけが聞こえる。


「我が家系は『神さま』を召喚する魔術を学んできたのだ。この町に繁栄をもたらす『神さま』に感謝をささげる祭祀さいしには召喚魔術が不可欠だからな。僕も呉井の跡取りとしてそれを会得する義務がある。魔術師でない呉井の人間に価値はない」


 呉井家が人間でありながら『海辺の町』で『支配層』に堂々と入っていられる最大の理由は魔術を使って『神さま』を召喚できるからである。

 町に豊漁を確約する、あきらかに異種族の血をひく『支配層』を外界から隠す結界を張る、そして数十年に一度生贄いけにえを求める

 灰色の海からくる『神さま』と呼ばれると意思疎通し、町を保護する契約を交わすことは呉井家に代々課せられた役割であった。

 アメリカ東部にもあるという『海辺の町インスマス』に伝わる高度な召喚魔術を学ぶことは、呉井家の権力を承継することにつながる。

「ここだけの話だが僕は潮臭い半魚人、いや『深き者デイープワン』どもが好きではない。あれは美しくないからな。しかし、この町に生まれた者として、呉井の家に育った者としてあれらを保護する契約を『神さま』にとりつける義務は果たさねばならない」

 先ほどまでの沈黙がうそのように、榊の饒舌じょうぜつは続く。

「僕は大学に籍を置きつつ、魔術結社『銀の黄昏たそがれ錬金術会』に入門し、そこで自分の正気と引き換えにしてでも、一級の召喚魔術師になってみせる。そう、クトゥルフの眷属けんぞくと取引できるくらいに!」

 興奮したせいか榊の白い肌がうっすら紅潮していた。

 愛作はただ榊の宣言を聞くのみ。圧倒されていた。

(召喚魔術、魔術結社、クトゥルー、いやクトゥルフだって?)

「クトゥルフってなんですか?……」

 銀の黄昏というちょっと中二病ちゅうにびょうの入ったサークルはさておき、クトゥルフという聞き慣れないが妙に気にかかる言葉について問いかけていた。

 榊は、なんだそんなことも知らないのか、とこれまで愛作に数十回放った軽侮の視線で返した。

(普通知らないよ、そんなの)

 とは言い返さない。

星辰揃せいしんそろときに永き眠りから目覚めるグレート・オールド・ワン。南太平洋に沈むルルイエから世界に号令するもの、大いなるクトゥルフ。超古代の地球の支配者の一柱よ」

 宙を見つめ、珍しく熱のこもった口調で吟じる榊の姿に、

(海底で寝てるクトゥルフって神を起こすってこと? それが起きたら何だっていうんだ)

 と、自分の頭が受け止められる程度にスケールダウンさせて思考する。

「大いなるクトゥルフが統治する真の世界を再現することが我ら魔術師の本懐。人間も半魚人どももクトゥルフの前に等しく隷属するのだ」

(その真の世界とやらになっても『支配層』とそうじゃない者の間でいじめや差別はあるんだろうな。今と何も変わらない世界なんて俺は求めない)

 悦に入ってる榊をまっすぐに見る。いつもの愛作なら榊の言うことにむかつきながらも従うしかないと思考停止になるところだが、今日は違った。

(下は向かない。自分の視線はまっすぐ)

 おっちゃんとの約束。

 榊が言おうが、町中の『支配層』が主張しようが、今後は嫌なものに対して下を向いてやり過ごすことはしないんだ。

 愛作は自分が階段を一歩上がったことを自覚していた。

 彼を永遠に成長しないただの人間だと決めつけている榊は愛作が現在進行形で成長していることに気づかない。自分の話に聞き入ってると思ったのか、

「クトゥルフについて理解できなくてもいい。お前には関係のないことだ」

 と、告げたが、クッキーを楽しそうにつまむ葉月に視線を移すや、目を細めた。

「クッキーが好きなんだな」

 葉月は「こんなおいしいクッキー初めて」と無邪気に答える。

「また愛作と食べに来い。用意しておいてやろう」

 その、らしくないセリフに驚いた愛作の目に気づくや、

「初めてだな。僕を物怖ものおじせずに見たのは」

 と、薄く笑った。

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