02 海辺の町(3)
太陽の光がほぼ届かない深みで三人はじゃれるように
急流に翻弄されているわけでもなく、息が苦しい様子もなく水底に居続けている。
愛作とその友人はもう一度息を吸うと潜った。
手足を使って普段はあまり近づかない深みへ降りていく。
愛作たちに気づくと、三人は「ほらここは楽しいぜ」と言わんばかりに、水底を遊泳してくるくると回るのだった。
水中で言葉が発せられず、上を指さして「戻ろうよ」とジェスチャーするも、三人は従うことなく、蛙のように手足を
ほんの一分程度で愛作の肺の酸素が枯渇してきた。
もう一人の友人も同じようで、同時に手足を動かしてその場を離れて浮上を開始した。
その際にチラと目に映った三人は互いの肩をつつきあって笑っていた。大きく開けた口から気泡は出ていなかった。
急に水の冷たさと違う寒気に襲われた愛作は、懸命に安全圏を目指した。もう一度振り返ったら三人はまだ大笑いしているのだろうか。
(なんだよ……あれじゃあ、あれじゃあ、まるであいつらの親みたいじゃないか)
そう思った時である、水面まであと少しのところ。
グイッと足首がつかまれた。ヌメヌメした感触のものが力強く下へ引っ張る。
水底から猛スピードで上ってきた笑顔があった。
溺れる恐怖から逃れるべく、愛作の全筋肉が生存本能の命ずるままに上を目指す。
水中の笑顔の不気味に
水底組の最後の一人は面白そうにその周りを回遊する。
(く、苦しい。息が)
もがく口から大きな気泡がガホッと漏れて浮上していく。あと数十センチなのに。
足首の不快な枷が外れた。
愛作は両手の力で水を押しのけて空気を求めて上に向かう。
(助かっ…)
再び足首がつかまれた。水底組は小動物を無邪気に
赤黒くなり始めた視界の片隅で、浮上組の友人が足で足首をつかんでいた水底組の鼻を踏み抜いて逃げ延びたのが見えた。
愛作にそれを
何も知らない陽光が降り注ぐ水面で愛作は涙を流して
手足を弱々しく動かしてなんとか岸辺に
「ま…」
待って、の声が出ない。頭の中を流れる血の音がガンガン響き、水音すら消えた。
違う。
その視線は愛作の背後、川岸に音もなく上がった水底組の三人に鋭く突き刺さっていた。その一方で、水底組の三人は「一体どうしたんだよ」という表情で
愛作だけは、その視線に込められた意味をわかっていた。屈辱と怒り、そして恐怖である。
自分がもう少し自尊心の高い性格だったなら、きっと浮上組の友人と同じ視線を水底組に向けていただろうから。あっさりと溺死しかけた事実が愛作の自尊心を激しく萎縮させ、その顔を下に向けさせた。
川のどこかで魚の跳ねる音がした。次の瞬間、
「化け物!」
と、様々な感情が入り混じった大きな罵倒の声が辺りの空気を震わせる。
化け物、その叫びを真っ向から叩きつけられた水底組の三人はそれをどう受け止めたのだろうか。恐ろしさに愛作は水底組を見ることはできなかった。
その場を駆け去る足音が遠のき、川の流れだけが残った。
数分前までとは変わってしまった世界。川の音も
ここにいる自分以外の水底組の三人の存在もまた。
「化け物、ね」
「あいつ泣いてた。ウケる」
「鼻を蹴られて鼻血出た。マジ許さねえ」
(なんでそんなに棒読みなんだ。怒るなら怒るでもっと感情こめてくれよ)
愛作は先ほどまで友人だったものに言いたかった。
冷たい恐怖が心を縮こまらせる。降り注ぐ夏の陽光は何の役にも立たない。
「愛作さ、あいつひどいやつだと思わね?」
自分に向けられた声もまた、抑揚が乏しい。
「げほげほ。う、うん。ケガさせるのは……げはっ。よくないね」
溺れさせようとしたのはそっちだろという思いには蓋をする。
「あいつと違って、お前はいいやつだ」
「そう、愛作はいいやつ。友達さ」
「友達、友達」
親近感のない声が降ってくる。
「そうだね。ありがとう」
(何が『ありがとう』なのだろう。敵と見なさないでくれることへのお礼か?)
自分の中で卑屈な気持ちが膨らむ。違う、これは防衛本能。ショセイジュツってやつだ。
遊び半分で命を奪われそうになる体験をしたら、正論なんて言えるわけがない。
愛作はなんとか立ち上がると、石にかけておいたタオルで大げさに頭を拭いた。こわばった顔を見られたくなかったので後ろを向いた。
三人の視線を遮るように背中を拭く。
自然をよそおってゆっくり振り返る。
正面から受ける視線はいやなものだった。そう、彼らの親と同じ視線。
彼らが誰の血を継いだ子どもなのかということを意識せざるを得なかった。首筋にうっすらと浮かんでいたのは、できたての
三人はそれを誇らしく思っているのか隠そうとはしなかった。
まだ眼球はせり出していない。だが、じきに……。
愛作は自分の身を守るために愛想笑いを向けた。
それは彼の心の中で柱が折れたことを意味していた。
遊び友達だから意識しないでいた。大人の上下関係と違って子ども同士には身分も区分もないものだと勝手に信じ込んでいた。
それは愛作のそうであってほしいという勝手な願望だったようだ。
鰓のない自分は彼らから見て、将来の使用人だとはっきりと認識された。
ついに俺も大人の仲間入りか、と思った。それは『海辺の町』では絶対の規律に
三人の友達はそんな愛作の悲しい通過儀礼になど思いを寄せず、
──そうだ、お前は我々とちがう。
と、新たな感情を
翌日、河口付近に少年の水死体が浮かんだ。
片方の足は何か強い力でもぎ取られていたが、事件性はないとあっさり処理された。
もぎ取られた足は、町の『支配層』の跡取りから尊い血を流させた不敬な足であることを、愛作は知っていた。
誰にも言えなかった。
『海辺の町』ではそれは自分も水に浮かぶことを意味していたから。
その後、愛作は川遊びをしなくなった。
愛作の同級生の一部──『支配層』の子どもたちが次第に野球やサッカーといった遊びから離れていったのもこの時期である。
目立つようになってきたよろよろした歩き方は、瞬発力を使ったスポーツには向いておらず、彼らもそれを楽しいと思えなくなったのだろう。
『海辺の町』の中学校はほかの学校より水泳の授業が多かった。授業のたびに、潜水して浮上してこないクラスメイトの数が少しずつ増えていった。彼ら・彼女らの祖先の血が体を変えつつあった。
──第二次性徴。
それが保健体育の授業で教えられたのもこの時期であったが、両生類人のそれを教えるのは『海辺の町』だけだったろう。
次第に、教室と放課後の雰囲気が二分化されていく。それは『支配層』とそれ以外という、大人の序列が思春期の少年少女にも浸透することを意味していた。
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