02 海辺の町(1)

 いつも下を向いてばかりいる子どもだった。

 愛作あいさくが『海辺の町』で思い出すことは、アスファルトの道路、木の根が隆起して足をとられやすい雑木林の黒土、砂浜、ところどころひびの入った漁港の桟橋をとぼとぼと歩く自分の足。

 背が伸びて、自分の目線が地面から少しずつ高くなっていったとしても、愛作は自分がこの先もずっと下を向いて生きていくのだと思っていた。

 自分が生まれ育った『海辺の町』では二つの身分がある。『支配層』と『支配される者』。これが明確に分かれており、血統によって生まれた時から運命が決まっている。

 愛作は『支配される者』の家の子である。『支配層』に従い、彼らの機嫌を損ねないことが生きるためのおきてだと知っている。

 個人の努力や才能でそれを逆転することは不可能であった。ごくまれに、この身分制度を覆そうとした者たちの末路は子守歌代わりに聞かされる。『海辺の町』の掟に逆らおうとすることは『支配層』が許さない。そして『支配層』があがめる、より邪悪で強大な存在、『神さま』が容赦なく罰を与えるそうだ。死ぬよりもつらい罰を。

 潮風が、波音が、いつも愛作の家族を取り巻いていたが、それは故郷の慕情を思い出させるものではなく、彼らを町に縛りつける見えないかせだった。

「おう、小僧。水揚げした魚を卸すから明日の朝六時にトラックまわせって、お前のおやじに伝えておけ」

 道の反対側から中年の男が声をかけてきた。あまりまばたきをしない潤んだ眼がピンポン玉のようにせり出て、極端に唇の薄い、裂け目と表現するのがぴったりな口。何度見ても『支配層』の姿はびくっとさせられる。しかし、その人間離れした風体こそがこの町の階級章なのだ。できるかぎり平静を装って受け止めつつ、

「わかりました。父に伝えます」

 と、こわばった愛想笑いで返す。

「いつもしけた面ぁしてる小僧だぜ。おやじによく似てるぜ。ケケッ」

 中年男はさげすんだ表情で一瞥いちべつすると、無理に二足歩行を強制されたカエルのようにバランスの悪いよろよろした歩き方で去っていった。愛作が目線を上げるのは、『支配層』の無礼かつ居丈高いたけだかな態度を下から受け止める時がほとんどであった。うつむいたままボソボソと返事をしたら、降ってくる罵声がさらに増える。ひどいときは物を投げつけられることもあるのだ。

「頭にくるな。父さんの悪口を言いやがって」

 と、つぶやいた。

 愛作は中年男の不快な態度より、自分の父をおとしめる発言に対して怒る少年だった。愛作の父親も、今は亡くなった祖父も『海辺の町』の生まれ育ちだから、先ほどの中年男の態度にも慣れっこだろう。その空気の中で何十年も生きてきたのだから。だが、愛作は小学生だ。どうしてなの、なんでさ、納得できないよ、と思うことはある。その押し込められない気持ちに負けて、隠れて泣くこともあった。町の住人の目はもちろん、家族、特に妹の葉月はづきには絶対に知られたくなかった。四歳年下の葉月の前でだけは頼れるお兄ちゃんでありたかった。いつかはこの理不尽を軽く受け流せるくらい強くなるんだ、と愛作は思っている。


 再び下を見ながら歩き出すと、見慣れた自分の靴にバシャッと水がかかった。

「あら、ごめんなさ…なんだ、あんたか。道を歩く時はしっかり周り見て歩きな!」

 夕方から開店する飲み屋の女が床掃除したモップとバケツを持って見下ろしていた。

「は、はい。ごめんなさい。気をつけます」

 正当な抗議はするだけ無駄だ。『海辺の町』において、最も低い立場の自分にできることは間髪を容れずに非を認めることだけ。その非が正当であろうがなかろうがだ。

 れた靴と靴下はいずれ乾かせばいい。町の住人の機嫌を損ねて、何日も悪口を言われるよりマシだとわかっている。

「さっさと行きな。すっとろいんだから!」

 愛作は再び地面を見ながら小走りでそこを後にした。靴の中がぐじゅりとなって不快だが、それよりも女の前から立ち去りたかった。

 自分に対する理不尽──そんな言葉は愛作の辞書からとうに消えていたが──な態度より、女の顔を下から見上げているのが怖かった。

 雑に染めた金髪に包まれた容貌──ギョロッとせり出し気味の目、顔の中にめり込みつつある鼻、横一文字の裂け目と表現してもいい薄い唇。その全てが自分とは根本から違う。

 人間から人間ではないものに変わりつつあるそれを近い距離で見続けるほどの度胸はない。

 先に、愛作に父への伝言を命令した中年男の容貌も似たり寄ったりだ。しかもあの男は歩き方までよろよろして変だ。

『海辺の町』で大きな態度をとる大人は多少の差はあるがほとんどが、そうだ。

 魚のような、蛙のような。気持ちが悪い顔。

 愛作はひそかに『ウオガエル』と命名して、やつらのいないところで「ウオガエルなんかいなくなれ」と言って、画用紙に描いた似顔絵に向けて石を投げていたことがある。

 その行いが母に見つかった。

 愛作の母はウオガエルどもと違って細面の美人だったが、町の住人たちからは雑用に酷使され、拭いきれない疲れが顔にこびりついていた。

 愛作は幼いながら、大人になってもこの町の住人からどう扱われ続けるのかを母を見て悟っていた。

 その母があおざめた怖い顔をして愛作の頰をたたいた。

 愛作は町の住人から軽視されたり、嘲笑されることはあっても直接の暴力を振るわれたことはなかった。父も母も自分と葉月には優しかった。

 それゆえに、母の平手は衝撃だった。

 住人の前でそれを見せたら余計にあざけられると理解していたため、かたくなに見せなかった涙が止めどなく流れた。

「僕はいけないことをしたの?」

 愛作は小さな両手を握りしめた。

「母さんや父さんがウオガエルにこき使われて悔しかったんだ」

 そう泣き叫ぶと、母が力強く、細い体にこんな強い力があったのかと思うほどに愛作を抱きしめた。

 ごめんね、ごめんねと繰り返し聞こえた。

 愛作は短い腕を母の華奢きゃしゃな背中にまわした。海風が冷たい日でも母さんの背中は変わらずあたたかい。

 葉月が生まれて、母を独占するようになってから久しくこういう機会がなかったことを思い返す。

「この町ではそういうことをしたらいけないの。あの人たちに逆らってはいけないの」

 自分だけではなく母も泣いていた。

「母さんは愛作と葉月が大切だから、長く生きてほしいから。絶対にこんなことをしないと約束して」

「母さん、うちはずっとこのままなの?」

 聞きたかったこと。

 口にすることをためらっていたたった一つの問いかけ。

 母は自分が叩いた愛作の頰に自分の頰をぴたっとつけた。母と子の涙が混ざる。

「こんなことは母さんと父さんの代で終わらせたい……」

 今の母の精一杯の答えだと理解した愛作は黙ってあたたかさに身を委ねる。

 それ以来、愛作は『ウオガエル』という言葉を心の奥深くに沈めた。

 そして、町の居丈高な住人に対しては愛想笑いと従順さを使い分けて無難に接するよう努めた。

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