井戸から見える星

ねじまき

井戸から見える星

 僕は、自分が孤独だと感じる。孤独と感じると言っても、全く人と関わりがないというわけではない。

 僕は島にいる。その島は僕だけの島で、他に人は誰もいない。僕には僕の島があるように、他の人にもその人自身の島がある。そして僕の島は他の誰かの島と、橋やらなんやらで繋がっている。でも、誰も僕の島に訪れない。

 僕は僕の島にかかっている他の人の島との橋を、何度も叩き壊そうかと考えた。中途半端に誰かと繋がっていることが、僕の心を煽ってくる。例えば、絶対に来ない救急車があるとする。僕は大怪我を負って、救急車を呼ぶが、もちろん絶対に来ない救急車なので僕を助けてくれることはない。でも、心のどこかで僕を助けてくれるんじゃないかと期待する。希望があるからこそつらい。

 僕はそんな島にいる。


 いつからこんなに孤独になったのだろう、と僕は公園のベンチで池を眺めながら思う。僕は愛想の悪い人間じゃない。どちらかというといい方だと思う。近所の人には目があったらにこやかに挨拶するし、会社ではそれなり頼りにされている人間だ。不平も言わないし、言い訳もしない。

 会社では話しかけてくれる人が何人かいる。僕も自分から話しかけにいく。僕は彼らと軽い世間話をし、罪のないユーモアを言い合い、仕事のことについて話し合う。でも、彼らはそれ以上深くまで関わろうとしてくれない。僕の島にはやって来ない。僕の方から彼らの島へ行くと、その時の対応は会社での対応と全く別のものになっている。まるで場違いなことをしているような気持ちになる。

 公園のベンチで明らかに姿勢の悪い体制で座っている。スーツにしわができるが、かまうものかと僕は思った。池が夕日に照らされてキラキラと反射している。何匹かの鳥が池をスイスイ泳いでいる。君たちはいいよな、と僕は鳥に嫉妬した。カラスが明らかに批判的な声でカァーカァー鳴いていて、僕は体温が静かに熱くなっていることを感じた。一匹の猫が池を囲うフェンスの上を、まるで平均台を渡っているかのように、華麗に歩いている。猫は僕の目の前を通ると、右足を浮かせたまま僕を見つめた。しばらく僕を見つめて、多分飽きたのだろう、そっぽ向いてまた歩いていった。

 季節は秋で、少し肌寒いが、それが本当に寒いのか、それとも心が孤独で震えているのか、そのどちらなのかが僕には判別できなかった。僕はため息をつきながらゆっくり立ち上がって家に帰った。

 

 もちろん家には誰もいない。僕は家に帰ってきて一番最初に、お風呂のお湯を沸かし、スーツを脱いで楽な格好に着替えた。留守番電話を誰かが残していないか、念の為確認した。もちろん誰も留守番電話は残していなかった。僕も誰にも用はない。お風呂のお湯がたまるまで、僕は鍋に水をいれて、火をつけた。フライパンにオリーブオイルとにんにくチューブ、唐辛子をいれ、フライパンを傾けそれらを端に寄せて焼いた。ペペロンチーノを僕は、孤独の料理と呼んでいる。僕がそういやって鍋に入れたスパゲッティーを片手でつつき、片手で読みかけの文庫本を読んでいる様子が、なんだかすごく孤独な人のように感じるからだ。そして実際その通りだ。精神的に病んでしまった人には、明るく希望に満ちた曲よりも、暗い曲を聴かせたほうが早く元気になれるという話をどこかで聞いたことがある。それと同じように――と例えるのは失礼かもしれないが――、張り切った料理を作って1人で食べるよりは、孤独な料理を作って無言で食べている方がずっといい。僕はそう感じる。

 8分にセットしておいたタイマーが鳴って、スパゲッティーをザルに移す。ザルに移す時、湯気が立ち上り顔をモワンと包む。ちょっとだけ茹で汁を残して、茹で汁と茹でたスパゲッティーをフライパンに注ぎ、また片手で文庫本を読みながらつついた。もし僕が孤独な男の日常を描きたい画家だったら、スパゲッティーをつつきながら片手で文庫本を読んでいる様子を描くだろう。でも残念ながら、僕は画家じゃない。僕のそんな姿を後ろで誰かが描いている気がしたが、もちろんそんなはずはなく、無機質なテーブルが置いてあるだけだった。部屋がちょっと暗い気がしたが、電気はついている。

 お風呂に入っても、体の芯みたいな部分が温まっている感じがしなかった。確かにお風呂は温かいが、あくまで温めるのは体であって、心は温められない。僕は自分の手を見た。手が透けて向こうが見えそうだった。

 ベッドに潜って、しっかり目を閉じた。目を閉じると、暗闇の中で様々な記号みたいなものがウネウネと渦巻いていたり、チカチカと点滅していたりした。明日は土曜日。何をしてもいいし、何もしなくてもいい1日。でも僕にはやることがある。明日はどうなっているのだろう? そんな分かりもしないことを考えながら眠りに落ちた。


 朝起きて、ご飯を食べ、いつもの散歩コースを30分ほど歩いて家に帰った。そしてリュックサックに2リットルの水3本と、非常食をできるだけたくさん詰めた。懐中電灯、ロープ、腕時計、あと念の為、好きな文庫本を一冊リュックサックに入れた。読むわけじゃないので全く意味はないが、お守り的なものとして。

 それだけ詰めると、リュックサックはかなり重たくなった。勢いよく立ったら後ろからひっくり返ってしまいそうなくらい。

 リュックサックを背負って、向かう先はとある空き家の井戸。僕がいつもの散歩コースで見かける空き家だ。当然誰も住んでおらず、井戸だけがなにかの記念碑みたいにぽつんと残されていた。その井戸はかなり深い。一度僕は、好奇心からその空き家に入り、井戸の中を覗いてみた。底が見えないほど暗い。石を投げてみると、しばらくポッカリとした空白の時間ができて、しばらく後に石が底についたカコンという音がした。その投げてから底につくまでの時間はそれなりにあり、またポチャンという水があるような音でもないため、井戸はとても深く、水は涸れていることが分かる。

 僕はその空き家の井戸にロープをくくりつけ、底まで垂らした。僕はロールがなにかの加減で緩んでほどけたりしないように、井戸の近くにある太い木の枝に強くしっかりと結んで、何度も引っ張り、ほどけたり木の枝が折れたりしないことを確認した。そして僕は井戸の中に入り、ロープを伝って底を目指した。

 井戸の中に入ると、場面が切り替わったかのように世界が変わった。車の走るブゥーンという音は、水の中で聞こえる音みたいにボヤッと小さくなり、太陽の光は底にいくにつれフェードアウトしていった。重たいリュックサックを背負いながらロープを伝って降りるのは、とても大変なことで、僕はうっかり落ちてしまわないように、手が痛くなるくらいロープをしっかりと握った。そしてゆっくり、ゆっくり、より底へ、より底へと降りていった。

 太陽の光がほとんど消え、完全な暗闇と無音があたりを包んだとき、僕はようやく井戸の底へ着いた。手がヒリヒリして痛く、肩はとても重たかった。まず僕はリュックサックを下ろし、あたりがどんな感じなのかを手で探った。地面は硬く乾いた土で、壁は――入ったことないが――刑務所のような無機質な壁だった。大きく鼻から息を吸うと、土のにおいとちょっとカビっぽいにおいがした。僕はリュックサックからペットボトルに入れた水をひとくち飲み、ロープがあることを確認した。ロープは間違いなくある。

 さて、と僕は思った。これからどうするのだろう。いや、どうするのだろうと思っても、僕にはどうすることもできない。正確に表現すると、どうなるのだろう、といった感じだろうか。とにかく僕はいま、井戸の底にいて、人との関わりを完全にシャットアウトした。橋を叩き壊し、完全に孤立した島となった。僕がわざわざ井戸の底へ行ってやりたかったことはそれだけだ。人との関わりを完全にシャットアウトする。

 僕は何を考えようかということを考えた。でもそんなこと考えるには、いささか疲れすぎていた。僕は硬い土の上に腰を下ろし、明らかに腰を悪くしそうな姿勢で眠ろうとした。目を閉じていようが、開けていようが、どちらにしても同じくらい真っ暗だが、僕は目を閉じた。


 夢を見た、と言ってもどんな夢だったかは全く覚えていない。ただ夢を見たということが何となく分かるだけだ。どのくらい眠っていたのかは分からないが、僕はだいたい2時間くらいだろうと仮定した。そんなこと仮定したところで、井戸の底では全く意味がないのだが。

 僕はいま、ものすごく孤独だ。状況的にも、心情的にも孤独。物理的にも孤独。でもその孤独は、なんだか心地よかった。つらいときはとことんつらくなって、楽しいときにはとことん楽しめばいい。それと同じように、孤独なときにはとことん孤独になってしまえばいい。

 どのくらい井戸の間にいるのか、予定はない。ここでは時間というものが存在しないから、井戸の外を出たときにはもう来週の火曜日になっているかもしれない。そうなると、会社ではちょっとまずいことになる。でもまあいいじゃないか、と僕は思った。


 ある時突然、井戸の中に光が差し込んだ。まるで理不尽な竜巻のような、すべての形あるものをなぎはらう強烈な光だった。僕は魂が燃やされてしまうような感覚に陥った。僕は立ち上がり、手を空に向けて、大粒の涙を流した。一粒の涙が頬をつたうと、それからは涙が止まらなかった。なんでこんなに涙が出るのだろう? 僕はいままでこんなに泣いたことはなかった。涙で何も見えなかった。

 しかしそんな光は長く留まってくれなかった。きっと、太陽の位置と角度が奇跡的に噛み合ったのだろう。

 

 井戸から空を見上げると、そこにはたくさんの星が輝いていた。井戸からなら昼間でも星が見えるんだ、と僕は思った。でもこの星は、現在世界で僕以外に誰も見ていない星だ。そう思うと今まで襲ったことのないくらい強い孤独感が僕を襲った。でも心地よい孤独だった。孤独なときにはとことん孤独になってしまえばいい。

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