蒸気都市の公女

@Teturo

第1章 切り裂きジャックの互助会

第1話 大ロンドンの夜霧



 大ロンドンにおける冬の夜霧は、深く濃密だ。


 大英帝国では産業革命以降、様々な蒸気機関が発明され、蒸気と煤煙が絶えることが無い土地柄である。更に折からの偏西風によって運ばれた水蒸気が、急激に冷やされる事で発生した白い霧は、この大都市を静かに包み込んだ。

 両手を前に伸ばすと、自分の指先が見えなくなる程の濃霧。ボゥというボイラーの減圧放出音ドレンが時折聞こえる。その霧中の石畳で、二つの足音が響き渡った。


 人通りの途切れた深夜。ゴーグルの付いた作業帽を被った小柄な少年は、必死の形相で無人のストリートを走っていた。青い瞳で時折不安げに後ろを振り返り、更に足の回転を早める。彼を追うコートの男は、こみ上げる笑いを押し殺し、余裕のある足運びで後に続く。

 慌てて走っていた事に加え、深い霧のせいだろう。少年は石畳の凹凸に足を取られ、激しく転倒した。シルクハットの下の男の顔が愉悦に歪む。彼はコートの内ポケットに手を入れた。


 ギラリ


 彼の手にはギラギラと光る、外科手術用メスが握られていた。それを逆手に持ち頭上に大きく振り被る。少女のようにあどけない美少年の、どこをメスで切り刻もうか一瞬迷うように動きを止めた。思ったよりも理知的な、少し甲高い声が夜霧を渡る。

「……邪魔立てすると、お前も切り刻むぞ」


 濃い茶色の髪の美少年を庇う様に、いつの間にか影の塊のような青年が佇んでいた。肩口まで覆うように大きな、黒いアーク・キャスターハットを被り、革製の漆黒のコートを着込んでいる。長い髪も瞳も黒いが、夜霧に晒されている肌は闇夜に浮かび上がるように純白だった。

「返答は無しか。随分と無口な青年だな。 ……しかも極めて美しい」

 あまりの美青年振りに、彼は獲物が増えた事を喜ぶような声を上げた。そして無造作に腕を振るう。


 キン!


 男が投げ放ったメスを、青年は刀の柄で弾き飛ばした。

「ほう、随分と珍しい刀だな。サーベルでも将校用の籠柄でもないか。そんな直刀、初めてお目にかかるが、もしや東洋の刀かな?」

 男はコートの中に両手を差し込み、ゾロリと引き抜いた。その指の間には左右合わせて、八本のメスが挟まれている。

「口が利けないのか、私の声が聞こえないのか…… どちらにしても興味深い」

 対象物に対して医師のような興味を持つ男。指に挟んだ四本のメスを、投擲しようと右手を振り上げる。

「!」

 いつの間にか美青年は、男の目の前に立っていた。まるで瞬間移動のような、恐るべき体捌きである。そのまま右手を左腰に差している、刀の柄に添えた。


 スパン!


 濃霧のせいだろうか? 二人の動きが一拍程、止まったように感じる。遅れて聞こえたズバッという音と共に、男の右手首が吹き飛んだ。動脈も切れていたが斬れ味が良過ぎたのだろう。大出血は時間差で起きる。

「チィ! 何の魔法だ」

 残った左手で握ったメスを狙いも定めずに投げ付けた。そして男は青年から距離を取るべく後ろに飛ぶ。

「……」

 しかし男と青年の距離は一ミリも離れていなかった。青年は陰の様に無言で男を追うと、鞘ごと刀を引き抜く。ガツンと言う音と共に、首筋に一撃を喰らった男は声も無く崩れ落ちた。


「助けてくれてありがとう。ボクの名前はチャールズ」

 青年は少年の言葉に応えずに、黙々と男の右腕に布切れを縛り付け始めた。どうやら止血の為らしい。少年は彼らの周りをウロウロと歩き回る。ほんの数分前まで殺されかけていたのに、愛らしい見た目よりは肝が据わっているようだ。

「ねぇねぇ、お兄さんの名前は?」

「……」

「この変態ペド野郎は、一体何者なんだろうね?」

「……」


 徹底的な無口。青年の横顔に太めのペンで、そう書いてあるかもしれない。そんな感じで美少年は彼をマジマジと見つめる。その筋の好事家にとって、ご褒美と言える視線を青年は完全に無視した。ポケットから出した筒状の花火を取り出し、夜空へ打ち上げる。

 冬の濃霧を切り裂くような、光と破裂音。暫くすると大ロンドン警視庁ザ・ヤードの警察官たちが、ワラワラと霧の中から現れた。

 リーダーらしき中年男が美青年に声を掛ける。疲れたような表情を浮かべ、スーツの襟首が垢で汚れていた。恐らく張り込みなどで、長期間自宅に帰れなかったのだろう。

「よう、マーティン。やっと捕まえられたようだな。ご苦労さん」

「……恐らくコイツも偽物だ。スコット警部」

 初めて聞く青年の声に、少年は目を丸くした。

「喋った! 耳も口も利くんだね!」

 少年の叫び声に、ポカンとする二人。


 ぶふぁ!


「アハハ! そうだよなぁ。こいつの無口は筋金入りだもんな。そういう障害が有ると思うよな」

 警部は大きく息を吐き、石畳に沈み込んだ。腹を抱えてゲラゲラと笑い転げる。息が整うまでに、しばらく時間が掛かったが青年に語りかけた。

やっこさんもじゃ無いのか?」

「……所持していた凶器は、本物に近い。ただし体術がカラキシの上、こいつは右利きだ。左利きである本物切り裂きジャックとは思えん」

「有名人が出ると、何で模倣犯って奴が現れるんだろうな。警戒を続けてはいるが連日じゃあ、こっちが参っちまう。あぁ、君々。こんな夜更けに一人歩きは感心しないな。どこに住んでいるのかね。家まで送ろう」

 警部はヤレヤレと肩を竦める。彼の部下と模倣犯は共に、霧の中へ姿を消した。


 続けて姿を消そうとする青年に、少年は慌てて声を掛ける。

「マーティンさん、助けてくれてありがとう! あの変態ペド野郎の右手が、自然に吹き飛んだように見えたけど、あれはどんな魔法なの?」


「……魔法ではない。居合だ」


 そう呟くと今度こそ、無口な青年は霧の中に姿を消した。



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