第3話
クラリとめまいも感じて空腹が極限状態にあるとわかると、途端に口の中に唾が広がってくる。
甘くていい香りのミルクが目の前にある。
男性に抱っこされて哺乳瓶で飲まされるというのは少しアレだけれど、でも背に腹は変えられない!
尚美は思い切って哺乳瓶に口を近づけた。
そして一口飲むと、後は夢中になった。
前足を起用に使って哺乳瓶を支え、ゴクゴクと喉を鳴らしながらミルクを飲んでいく。
空っぽだった胃がほどよく温められたミルクによってどんどん満たされていく。
「そんなに焦って飲まなくても誰も盗んだりはしないよ」
男性がクスクス笑って言うけれど、必死になりすぎて尚美の耳には入ってこない。
ゴクゴクとミルクを飲むたびに小さな耳が連動するようにピクピク震えている。
その姿が愛らしくて男性の表情も緩みっぱなしなのだけれど、尚美はもちろん気が付かない。
そして用意されたミルクをすべて飲み干したとき、ようやく生き返った心地になっていた。
フカフカのタオルの上に乗せられると眠気が襲ってくる。
食べてすぐ眠くなるなんてまるで子供みたいだと自分でも思うけれど、実際尚美は今子猫になっているのだから仕方ないことだった。
おまけに男性が大きな手で尚美の背中を優しくなで始めた。
「もう少し眠るといいよ」
その声にはどこか聞き覚えがあったのだけれど、眠気にあらがうことができず尚美はまだまぶたを閉じたのだった。
26歳の尚美は大学卒業と同時に今のお菓子会社に事務員として入社した。
元々お菓子が大好きだったことが功を奏しての入社で、事務の仕事もやりがいがあって楽しかった。
一番の魅力は会社全体で行っている3時のおやつの時間だった。
この時間になるとどこの部署でも関係なく、自社商品を一種類無料で食べることができる。
尚美はこの3時のおやつの時間が大好きで、いつも新商品を選んで食べていた。
『工場にいる人たちはこの時間だけじゃなくても味見で食べてるらしいよ』
同僚からそんな話を聞いたときには悔しくて本気で歯噛みしたくらい、お菓子が大好きだった。
会社には尚美みたいな人が多くいたためか、社員が使える事務やサウナが会社の近くにあった。
みんなそこで汗を流しておかしのカロリーをなかったことにしているのだ。
運動をしてでもお菓子を食べたい。
それは尚美もよく理解できる感情だった。
食べなきゃいいじゃん。
というのは論外だ。
頑張って仕事をして、そのご褒美に食べるおやつ。
休日、頑張って自分へ向けてちょっと高いおやつを買ってかえる。
それに日常的に食べるおやつもありだ。
健康に気を使うなら野菜がふんだんに使われているおやつだって発売されている。
とにかく、我慢することがなによりも体に悪いことだと尚美は考えていた。
『田崎さんのお弁当は毎日おいしそうですね』
ふと、そんなことを言われたことがあるのを思い出した。
会社では沢山の人が働いているけれど、その中でも尚美が一番尊敬している上司。
健一は30歳という若さで役職についているエリート社員で、誰にでも優しくそして見た目がいいことで人気の上司だった。
尚美も1度、入社して半年の頃に書類で大きなミスをしてしまった。
怒られる覚悟で健一の報告すると、健一は難しそうな顔をしたあと『これは田崎さんのミスですが、誰でも起こしうるミスでもあります。
一緒に解決策を考えて行きましょう』そう言ったのだ。
ミスした尚美を一方的に怒るのではなく、ミスは誰でも起こすものだから、根本的なところを解決しようとする。
その姿勢にひかれた。
それ以来ミスをしても健一に報告することが怖くなくなった。
一緒に解決してくれるから仕事もどんどん向上していく。
仕事の手順を変えて、方法を変えて、職場そのものがアップデートさせるたびによくなっていく気がする。
そんな空気を作ってくれている健一に感謝しているし、男性としても惹かれて行った。
そんな健一がくれた『田崎さんのお弁当は毎日おいしそうですね』という言葉は尚美の胸に刺さった。
料理は昔から好きだったから毎日お弁当を作ることも苦ではなかった。
ときには前日の残り物も使っていたし、冷凍食品を使うこともある。
それでも健一は『毎日おいしそうですね』と言ってくれた。
この言葉の『毎日』という部分にグッときたのだ。
健一はよく自分のことを見てくれているのだ。
毎日頑張ってお弁当を作ってきていることを知ってくれていたんだ。
それと同じで、毎日仕事を頑張ってくれていることも見てくれている。
それが嬉しかった。
気がつけば尚美も他の女性社員たち同様に健一に惹かれるようになっていた。
健一は未婚で彼女もいないと知ったのは、それからすぐのことだった。
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