長い髪


 喧嘩をした夜は、決まって僕の方から先に風呂に入る。湯船は彼女のために張り、自分はシャワーのみで済ませ、上がってからは入浴剤を並べて置いておく。各種香りのストックだけは確認しておくが、選んで入れるのは僕ではない。

 その間に彼女は食器洗いを済ませてくれていて、お互いちょうどよく廊下ですれ違うことになる。そこに会話はないが、最近はゆっくりと歩く途中で、お互いの腕が少し触れるようになっていた。風呂上がりに飲む炭酸水は、もはやコップに注がれることはない。


 同棲を始めるにあたってのルールは、たった一つしか決めていない。そこに向かってお互い最善を尽くす感じは、僕らだけが唯一正しい答えに辿り着いて暮らしているような、そんな気がしていた。


 二人の寝室に、彼女が後から入ってくる。待っている時間は、日に日に短くなっているように感じていた。片方のベッドに深く腰掛け、手招きをする。空いた目の前のスペースに、彼女はちょこんと背を向けて座った。

 ドライヤーの電源を入れ、濡れた長い髪に触れる。


「さっきはごめん」


 僕も仕事で苛々いらいらしてたんだ。愚痴を言い合うだけで気が紛れたはずなのに、傷つけられるばかりだったのがしゃくで、つい要らない言葉の刃を向けちゃった——懺悔ざんげの声は、温風にさらわれる。

 以前話したときに、彼女に聞こえていないことは確認済み。もちろん、僕の方も彼女の呟きは全く聞こえていなかった。



--


-


 うなる機械音が完全に消えてから、乾いた後もつやのある髪を優しさがしっかり伝わるように手櫛てぐしする。それを合図に、僕の胸元に小さな頭部の重みが寄りかかり、上目遣いのにやけ顔と目が合った。

 元来、彼女は誰からも可愛がられるようなふわふわした平和的な性格だ。父親相手でさえ、口喧嘩をしたことがないと聞いた。その過去の発言が、今日も明日以降も幸福感を与え続けている。


「どうして君もニヤニヤしてるの?」

「いやー『ショートも似合いそうなのになぁ』って、過去に言ったことを思い出してたんだよ」


 柑橘かんきつ系の奥に、馴染みあるシャンプーの香りがふわり漂う。


「ねぇー、そしたらこの時間が短くなっちゃうって言ったでしょ!」

「そうだったね——」


 聞きたかった声と言葉が返ってきて、お礼にもう一度頭を撫でてあげた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る