第4話 押し寄せる背信的悪意

 倒れた無免ローヤーを守ろうと立ちふさがる神崎に、怪人登記女が闇の矢を放つ! 防護のない生身の肉体に、鋭い暗黒の鏃が突き刺さらんする! 


 その時!


 無免ローヤーが立ち上がって、神崎の腕を引き、入れ替わるようにして矢面に立った。闇の矢が、左胸に深く突き刺さる。一瞬、無免ローヤーの声にならない悲鳴が、七兜山の空気を震わせた。


「水去君!」


 神崎が手を伸ばす。無免ローヤーは、崩れ始めている! が、しかし!


「大丈夫っ、大丈夫だっ! 俺は、無免ローヤーだっ!」


 水去の力強い声が七兜山に鳴り響いた。


 崩れる寸前で、強く地面を踏みしめる。無免ローヤーは、倒れない! 足がぷるぷる震えても、踏ん張っている! 無免ローヤーは、悪に決して屈しない!


「どうしてェ、どうして倒れてくれないのッ!」


 金切り声をあげる怪人登記女。その姿は、優勢のはずなのに、どこか焦っているように見える。まるで、もう攻撃したくないのに、何度も立ち上がってくる、そんな焦りが……


 対峙する無免ローヤーが、目の前の敵に語り掛けた。


「お前の過去は、知ってる。かつて、お前の両親が二重譲渡を仕掛けられて、購入したはずのマイホームは手に入らず、代金も持ち逃げされたって話……そのせいで家庭が困窮して、家族のために必死でアルバイトしながら、法科大学院まで進学してきたってことも」


 水去が佐藤女生徒から聞いた話だった。怪人登記女、いや前原天祢の悲しい過去……かつて彼女の両親が購入しようとしていた家は、別の人間にも売却されていた。つまり一つの目的物を二人の相手に売却すること、二重譲渡をされたのである。この場合、登記を先に備えた方が、目的の不動産を手に入れられる。前原家は、遅かった。しかも、取引相手は家の購入代金を返還することなく姿を消してしまう。住む家もなく、お金まで奪われた前原家は困窮し、路頭に迷ったそうだ。そこで家族を懸命に支えたのが、前原天祢さんだったと言う……


「知ったような口を、叩かないでッ、貴方なんかにィ、何がァ、何が分かるって言うのッ!」


 次々と放たれる怪人登記女の闇の矢が、無免ローヤーを襲う!


「法律がァ、法律が私たちを守ってくれるって思ってたッ! あの時は、私が無知だったから、上手く法律を使えなかっただけってェ! でも、大学で法律を勉強してェ、分かってしまったッ、法律は必ずしも、弱者のためのものじゃないッ!」


 攻撃はますます激しさを増して押し寄せ、無免ローヤーは孤立無援の鎧武者のごとく、全身に闇の矢を受けた。


「だからァ! 今度は私がァ、法律を自分のためにィ、使うんだッ!」


 怪人登記女の登記改竄弓が一際巨大な矢を生成し、鋭く尖った鏃が無免ローヤーに向いた。


 無免ローヤーはそれでも逃げずに立ちふさがった。無機質な複眼が、悲しみを湛えて光っている。水去がマスク越しに、「前原さん」と呟いた。


「前原さん。俺には、その苦しさや絶望が分からないかもしれん。でも、君を心配している人は確かにいる。君のことは、佐藤さんから聞いたんだ。友達なんだろっ? 怪人に堕ちたまま、絶望に負けるような弱い子じゃないって、彼女は言ってたんだぞ!」


 言葉を遮るように放たれた一撃、空間を穿ち高速で飛ぶ闇の矢を、無免ローヤーが、法の拳で粉砕した! 


 怪人登記女がたじろぐ。


「お前は自分を苦しめた人間と、全く同じ方法で社会に復讐しようとしている! しかし、自力救済は法律上認められない! だから俺が……お前を止める!」


 無免ローヤーが腰の六法を開いて、ある条文に触れる。


【民法百七十七条 不動産に関する物権の変動の対抗要件!

 不動産に関する物権の得喪及び変更は、不動産登記法その他の登記に関する法律の定めるところに従いその登記をしなければ、第三者に対抗することができない!】


 六法が光り輝く。条文が溢れ出して無免ローヤーの周囲を回り、光の弓矢へと変化する。無免ローヤーが法の弓を構えた。


 七兜山の風が、無免ローヤーを中心にして集まる。


「え、でもっ、百七十七条って、だ、駄目なんじゃないのっ?」神崎が悲痛な声を上げた。 


「血迷ったのかッ! 死ねッ、死ねッ、死ねッ、無免ローヤーァアアアアアア!」


 怪人登記女が放った矢が無免ローヤーを襲う! 闇の矢は空気を切り裂き、地を割り、住宅街を横切って四方八方から飛来する! 


 そんな中、無免ローヤーは静かに、弦を握った。大三、引き分け、会……無免ローヤーの両腕が静かに動き、法の弓をぎりぎりと引き絞る。


 射ッ


 光の尾を帯びた流星のごとき矢が飛んで、押し寄せる闇を撃ち払った!


「何故だッ! 私は登記を備えたッ! この土地も建物も、全て私の物だァ、なのにィ、なのに何故撃ち負けるゥ!」


 怪人登記女が呻くようにして叫ぶ。無免ローヤーは冷静に答えた。


「民法だって、莫迦が作ったわけじゃない……弱気を助け強きを挫く運用が、ちゃんと為されている。民法百七十七条の判例通説は、背信的悪意者排除説だ!」


 民法百七十七条は確かに、物権変動につき、登記をしなければ第三者に対抗できないことを定める。しかし、時にはそれが不正義につながることもある。例えば、不動産が売買されたにも関わらず、偶然登記の変更がされていないことを気づいた者が、嫌がらせや不当な金儲けのために、その不動産の売却を持ち掛け、登記を変更した場合。民法百七十七条をそのまま適用すれば、当該不動産は悪人の手に渡る。


 それに待ったをかけるのが背信的悪意者排除説である。曰く、不動産の物権変動の事実を知っていて、かつ、自由競争の許容範囲を超え、信義に反する態度で取引関係に入った者、これすなわち「背信的悪意者」は、保護に値せず、民法百七十七条にいう第三者には当たらない! 背信的悪意者は、登記の欠缺を主張するについて、正当な利益を有しない!


 無免ローヤーが法の弓に矢を番える!


「怪人の力を使って大家さんを洗脳し、登記を改竄したお前は、背信的悪意者だ!」


 無免ローヤーが法の弓矢を引き絞る。鏃から溢れる光が、周囲の闇を浄化していく。


「背信的悪意……私が、私が背信的悪意者になっていたなんて、そんなァ、そんなァアアアアアアア!」


「民法百七十七条は、お前を保護しない。法はお前を認めない!」


 無免ローヤーの法の弓から、輝きに満ちた法の矢が放たれる!


 怪人登記女は両手に闇を集めて、閃光のごとき無免ローヤーの攻撃を受け止めた! しかし勢いは止まらず、怪人の身体に亀裂が入り、光が溢れ出す。そして……

 法の矢が怪人登記女を貫いた!


 ドガアアアアアアアアアアン! 怪人の闇の身体が爆発する!


 爆炎の中から、前原女生徒の姿が現れた。地面に倒れ込む彼女の身体を、無免ローヤーがそっと支えた。無機質な複眼が、彼女の眸をじっと見つめる。


「前原さん、確かに法は、完璧じゃない。時には、不正義に利用されることだってある。悪意を持つ者、善に背信する者を、法が認めてしまうこともある……だけど、完璧じゃない法を、正しく運用しようとする努力もまた、不断に行われているんだ。もう少しだけ、法を、法を正しく扱おうとする人たちの努力を、信じてみてくれないかな……?」


「……私は、私は……うん、信じる……もう少しだけ信じてみる、無免ローヤー……!」


 ヒーローの腕の中で、前原が小さく、しかし力強く、頷いた。無免ローヤーも呼応するように頷いて、変身を解除した。ヒーローの力が消え、水去の姿に戻れば、彼の貧弱な腕では前原を支えきれなくなって、二人のバランスが崩れアタフタする。倒れないようにもがいていたら、ちょうど抱き合う形に落ち着いてしまった。法科大学院生には刺激的すぎる体勢……


 顔を真っ赤にしている二人の下に、神崎が駆け寄って来る。


「一件落着、めでたしめでたし。流石だね、無免ローヤー! ところで水去君、さっきの爆発に巻き込まれて、君の下宿も爆発炎上してるんだけど、大丈夫なのかな?」


「えっ?」


 水去が振り向くと、彼のボロ下宿がメラメラと燃えている。失火罪、器物損壊罪、不法行為に基づく損害賠償、そんな言葉が彼の脳裏をよぎり、そして……


「あああああああああああっ! 俺の下宿があああああああああああああああ!」


 水去の慟哭が七兜山に木霊した。


 ○


「なるほど、それで報告は全てか……怪人登記女との戦い……ふむ、一つ言わせてもらうとすれば……お前は底抜けの馬鹿だな? 何が民法百七十七条だ、何が背信的悪意者排除説だ、このド低能! 偉そうに御託を並べて戦ったようだが、お前の議論には床に落ちて埃に塗れた米粒一つ分の価値もない! 民法百七十六条を読み上げてみろ!」


「百七十六条、物権の設定および移転は、当事者の意思表示によってのみ、その効力を生じる、です……」


「被害者たちに意思能力があったのか? 洗脳されてるのに? まだ分からないのか? まさかお前の頭も洗脳されてるのか? このボンクラが! いやはや、私がお前のその鈍い頭を開いて、腐った脳みそを高圧洗浄してやりたいくらいだ!」


「すみません……」


「被害者たちが怪人の力で洗脳されている時点で、意思表示に瑕疵があり、売買契約は成立せず、所有権も移転しないんだよ! だから百七十七条で背信的悪意者の法理なんか言う必要はないっ! 民法百七十六条の力を使えばそれで終わりだ! 分かったかっ! このゴミクズっ!」


「はい、分かりました……」


「それで? ああそうだ、戦いの結果、下宿が燃えたとかなんとか言ってたな。だから何なんだ? まさか、私にどうにかしてほしいなんて言うんじゃないだろうな? 何故私がお前の住居の面倒まで見なければならないんだ? あっはっはっはっはっ……実に笑わせてくれる! このボケっ! 社会に何の便益ももたらさない、ボンクラの愚図法科大学院生はホームレスで十分だろうが! 山で土に塗れて寝とけっ!」


 いつものように赤原教授のアカデミックハラスメントを受けて研究室を飛び出した水去は、いつものごとく腸が煮えくり返り、自己肯定感は地に落ちていた。そして家もない。


 俺の人生、どうしよう、どうしたらいいんだろう……


 法科大学院棟の中を乱暴に歩いていると、曲がり角で人とぶつかった。「す、すみません」「いえいえ、いいんですよ。そちらこそ、お怪我はないですか」刑事訴訟法の糸井教授だった。柔らかそうな白髪に、穏やかな眼差し。一介の学生ごときにぶつかられても優しい微笑を絶やさず、会釈までして歩いて行く姿は、赤原の塵糞野郎と比べれば、品位という点において天と地ほどの差を感じさせた。くたばれアカハラ!



 法科大学院棟を出ると、二人の後姿がベンチの傍に見えた。前原の至近距離に神崎がいる。……なんだあの距離感、な、な、な、なんだあのヤサオトコ……俺がいない間に、仲良く、い、いちゃいちゃしてたのか……ちくしょう……俺は……やっぱりあんな奴……なんて思いながら、水去はベンチを回り込んだ。


 正面に立った時、前原が涙を流していることに、彼はやっと気づいた。


「テメエこのチャラ男! 何をやりやがった! ぶっ飛ばすぞ!」


 害悪の告知をしつつ水去が神崎に詰め寄るのを、「違うの!」と前原が叫んで止めた。


「わ、私が悪いの……冷静になって、よく考えたら……私、とんでもないことをしてしまったって……無理矢理登記を書き換えたり……せ、洗脳したり……水去君にだって大怪我させて……許されないことをしてしまった……は、犯罪を……」


 前原の眸から大粒の涙がボロボロこぼれる。透き通った雫は、血の気が引いて真っ白になった頬を流れて、滲んだ。


「も、もう……こんな私が法律家なんて……」


「大丈夫!」


 水去が力強く叫んだ。声が七兜山に響き渡る。


「無免ローヤーが怪人を倒した時、怪人の行動は遡及的に無効になるんです! だから、不法に書き換えられた登記も、洗脳された人たちも、俺の怪我も、みんな元通り!」


「え……」


 前原女生徒が顔を上げると、彼女を見つめながら、水去は精一杯微笑んだ。


「それに、前原さんが悪いわけじゃないんだよ! 怪人ってのは、そういうものなんだ。だから、君が責任を負う必要はない。怪人を倒して、被害を消滅させることが、無免ローヤーの役割だしさ」


 水去が務めて明るくそう言うと、一瞬、静寂が訪れた。前原が彼を見つめている。ヤバい何か間違えたかな……と内心狼狽しつつ微笑んでいると、山頂から冷たい風が吹き下ろして、前原の髪を揺らした。


 大きく見開かれた前原の眼から、また、涙がとめどなく溢れ出した。


 いつの間にか背後にいた神崎が、水去の背中を勢いよく押す。水去はつんのめって、二人の距離が近づく。前原に触れて有形力の行使にならないように、慌てて広げた腕の中、彼女は水去青年の胸元で、彼の服をギュッと掴み、涙を隠した。


 ヒーローは動かない。ただ、彼女の細い喉から漏れ出た嗚咽が、自身の身体にゆっくりと伝わってくるのを、漫然と感じていた。

 


次回予告 

ノート! カード! 夢淫魔! 第五話「漁ろよ! 水去の私物」 お楽しみに!

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