お月奇見(おつきみ)

ガロニュー糖

第一夜 煙

島田光月しまだみづきは残業終わりに海に来ていた。堤防に座り月明かりに照らされた海をじっと眺める。


自分は何故こんな場所にいるのだろうか…

自分は何故こんなことをしているのだろうか…


海面を眺めているうちに段々とそんな気持ちがこみ上げてきた。

思えば仕事終わりに会社の先輩・舵野一華かじのいちかに残業の憂さ晴らしに面白い場所に行こう、と言われたのが全ての始まりだった。

意中の相手からの思わぬ誘いの言葉に負けて煩悩と共に海まで来た。

しかしいざ海に来てからというもの、只々海を眺めるているだけで只々退屈な時間が過ぎている。

雲一つない夜空に浮かぶ少し欠けた月も月の光が反射する海面も確かに綺麗だが魅力を感じる程ではない。

むしろ今自分の隣で海を眺めている一華の魅力的な容姿と比べればそれら二つは月とすっぽんどころか月がすっぽんである。

一華はいつものように明るい茶色の髪を片方は前に垂らしもう片方は編み込んで耳にかけている。

顔は気の強さを窺わせる少しつり上がった大きな目と元気と自信を感じさせるふっくらとした柔らかそうな唇を真っ直ぐ綺麗に通った鼻筋が結んでいる。

その整った顔立ちは横顔だけでも十分に魅力的である。

魅力的な横顔が光月から声をかける勇気を奪い取る。


「あっ」


突然、横にいた一華が声を出した。そして素早く立ち上がると、


「あれ見て」


そう言って左側の海面を指差す。声が少し上擦っている。理由は不明だが何やら興奮しているようだ。

光月も立ち上がり言われるがままに一華が指差した場所を見た。

月のちょうど真下にある海面がゆらゆらと揺れていた。


「ほら、何か揺れてるでしょ?」


こちらの肩に手を置きながらもう一度同じ場所を指差す。

確かに月の光が反射した海面の揺れとは別に揺れている妙なものが見える。

色は半透明だが暗い海面と月の光に照らされて辛うじて姿が見える。形は不定形で絶えずうねうねと動いており例えるなら煙の様である。

その半透明な煙は海面まで上がっていくとまるで蒸発したかのように跡形もなく消えた。

煙はしばらくの間浮かんでは消えを繰り返していたがやがて消えずに海面から出てくるようになった。

海面から出てきた煙は相変わらずうねうねと蠢いている。


「面白いでしょ?」


一華の言葉に光月は頷いた。海面から何本も出た煙は海が沸騰して湯気を出しているようで面白かった。


「面白いですね。あの煙みたいなのは虫ですかね?」


光月が何気なく問いかけると、


「違うよ。あれは人魂ひとだまだよ」


何食わぬ顔で一華が言った。


「えっ?」


思わず声の方に振り向くと一華と目が合った。今まで見たことがない冷たい目でこちらを見ている。口元に妖しげな笑みを浮かべながら、


「ここからが面白いんだよ」


そう言ってこちらの手を引いて砂浜を歩き始めた。光月も手を引かれるがまま砂浜を歩き始める。

好きな女性ひとに手を引かれているのに全く嬉しくない。むしろ早く離してほしいとさえ思ってしまう。

一華は砂浜を真っ直ぐ進んで波打ち際まで来るとその場でしゃがみ込んで光月の手を掴んだまま自分の手を海に入れた。

冷たい感覚と共にあの煙に自分達の存在が気づかれたような気がした。


「ほら、見て」


一華が海から抜いた手で例の煙の方を指差す。光月もそれに釣られて煙の方を見た。

先程まで海面上に立ちのぼっていたはずの煙が一斉にこちらへと向かって来ていた。


「戻ろう」


一華は再び光月の手を引くと、堤防まで戻り始めた。そして堤防に着いて腰を下ろすと自分の左横の地面を軽く手で叩いた。

光月がそこに座って正面を向くとそこには先程までこちらに向かってきていた煙が人の姿に変わっていた。ぱっと見ただけでも十人以上はいる。


「今から私が合図するまでずっと月を見てて」


一華は先程までとは打って変わって真剣な口調で光月に言った。光月は恐怖で声が出せず無言で頷いた。

光月が月を見始めると周囲は波の音と自分の心臓の鼓動しか聞こえない孤独な空間になった。

今すぐにでも逃げ出したい衝動を必死に抑えて月を見続ける。


どれくらい時間が経っただろうか。気がつくと波の音しか聞こえなくなっていた。

どうやら少し落ち着きを取り戻せたようだ。


そう思った瞬間、自分と月の間に、全く知らない男の顔が現れた。


男と目が合ったと同時に急に視界がぼやけてきた。恐怖で目が潤んだのだろうか。

少しすると呼吸もできなくなった。恐怖で過呼吸にでもなったのだろうか。


そして何よりも、口の中が、しょっぱい。


その事に気づいた時、目の前にいるこの男は溺死した人間の霊なのだと悟った。


──連れていかれる。


そう思ったとき堤防の上に置いていた右手に誰かの手が重なった。


「目を合わせられても月を見続けて。透けて後ろが見えるはずだから」


何だか懐かしい声がした。声に従ってぼやけた視界で月と思しき黄色い光りを凝視する。

段々と視界がはっきりしてきた。それにしたがって先程から見えている男の輪郭もはっきりしてくる。

男と目が合っている感覚はあるがそれでも男の顔の奥に透けて見える月を凝視し続ける。

不思議と息苦しさも口の中に広がっていたしょっぱさもなくなっている。


──まだ死ねない。生きたい。


そう強く思いながら重なった手を握りしめた時、


チッ


舌打ちの音とともに目の前の男が消えた。煙のときと同じく蒸発するように消えてしまった。

目の前で起きたことに唖然としていると、握っていた手が軽く膝を叩いてきた。


「もう大丈夫だよ」


声の主を見る。

一華と目が合った。煙を見つけた時の様な不気味さはない。


「ごめんなさい。まさかこんなことになるなんて…」


立ち上がって頭を下げる一華をよく見ると額や髪が汗でにじんでいる。自分と同じ様な体験をしたのだろうか。

そう考えると今はただ二人とも無事であるという事実を喜びたかった。


「助かったんだから気にしないでください」

「…ありがとう。とりあえず早く帰ろう」


少し気まずい沈黙の後、一華が言った。

そういえばここまでは一華の車で来ていた。

光月は運転手を買って出ようとしたが立ち上がった途端に体中が悲鳴をあげたので黙って一華の後に付いて車まで向かった。

車まで到着すると後部座席の扉を開けて中に入るよう促された。


「今日は本当にごめんなさい」

「…大丈夫です」


車に入ると再び一華に謝られたが光月は適当な返事をした。

背もたれに身体を預けてすぐに激しい眠気に襲われたからである。


「ごめんね。駅に着いたら起こすから休んでて」

「すみません。ありがとうございます」


車が静かに発進する。微妙な車の揺れが眠気を加速させている気がする。段々とまぶたが重くなり意識が遠のいてきた。

遠のく意識の中で、


「まさかあんなに増えてるとは思わなかったなぁ」


と聞こえた。

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