コンプレックス

小狸

短編

 *


 田辺たなべしょういちろうにとって、他人とは見下す存在であった。


 下に見て当然、下にいて当たり前、下にいるべき存在である。


 それは勉強や運動においても同じであった。


 田辺は、それらを一生懸命に取り組んでいた。


 皆から賞賛を受け、中学校のテストでは毎回学年一位であった。


 しかしそんな田辺を支えていたのは「」というゆがんだ感情であった。


 中学時代でそうなのだから、高校時代はもっと酷かった。


 勿論もちろん、表情も態度も、おくびにも出さない。


 そして決して、蹴落とそうなどとは思わない。


 ただ、上にいたい。


 彼がそこまで序列付けに拘泥する理由は、両親にあった。


 両親は決して、彼に勉強や運動を強要するような家庭ではなかった。


 ただ、彼が小学生の時、父親の会社のプロジェクトで、失敗があった。

 

 それ自体は、例えば全国紙で報道されるような大きなことではなかったけれど、彼の父親は、その失敗の責任を擦り付けられ、出世街道からは外れることとなった。


 母親は、二人の子どもを私立に入学させようとしていた。


 その食い違いの喧嘩を、田辺は小学校時代に聞いてしまったのである。


 世の中は序列が全てだと知った。


 世の中の仕組みを、人よりも少し早くに知ったのである。


 否、

 

 結果として彼の人格形成に大きな影響を及ぼし、自分より劣っている人間を見下すために、田辺は努力するようになった。


 もう誰にも、見下されないように。


 それを指摘する人間は、誰一人としていなかった。


 それも当然である――なぜなら田辺は、それだけの実績を収めていたのだから。


 彼は内心を誰にも明かさなかった。


 だからこそ彼は順当に、一般的に有名大学と呼ばれる大学まで進学し、就職活動も成功し、大企業に勤めることになった。


 そして、高校時代から交際していた人と結婚し、子どもができた。


 出世もし、家族も持ち、順風満帆な人生を歩んでいた。


 しかし、四十を過ぎた頃、彼にがんが見つかった。


 ステージⅣの大腸がんであった。


 腹膜播種があり、がん細胞を完全に取り切ることは難しいと、医師には診断された。


 それを医師から聞いて。


 茫然としながらの帰り道。


 妻の言葉は、ほとんど耳に入らなかった。

 

 田辺は、ただ現実を許容することができなかった。


 


 今まで培って、育ててきた地位が、財産が、名誉が雲散霧消し、ただの末期がん患者などという可哀想な存在になり果てるという事実を、自分を、許すことができなかった。


 皆は、自分をどう見る。


 可哀想だと見るに違いない。


 下に見るに違いない。


 自分と同じように、劣等感を埋めるための材料にするに違いない。


 ――それは、いやだ。


 次の日、田辺蕭一郎は、自宅から姿を消した。


 まるで自分の存在そのものを、無かったことにするかのように。


 会社からも逃げた、病院からも逃げた、警察からも逃げた。


 どうせ彼らも、自分を下に見るに違いない。


 指を差すのだ。

 

 憐れむのだ。


 ――厭だ。

 

 ――厭だ。


 ――厭だ。


 今まで人を見下してきた田辺には、そうとしか思えなかった。


 だから、逃げた。


 そして時間だけが過ぎていった。


 *


 さる政令指定都市の駅前のトイレの個室で、身元不明の男が、大量の下血により死亡しているのが見つかったのは。


 令和6年の4月19日のことである。



《Inferiority Complex》 is Dead End.

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コンプレックス 小狸 @segen_gen

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