小指を握って呼びかけて
水鳥楓椛
第1話
「今この瞬間を以て、私、レオナルド・ラルスト・オーギストは、ユティカ・フィオナ・グラツィーニ公爵令嬢との婚約を破棄する!!」
華々しい有終の美を飾るはずであった王立学園の卒業パーティーの終盤で、事件は起きた。
黄金の煌めく長髪に王家の証たる真紅の瞳を持つ美丈夫、レオナルド・ラルスト・オーギスト王太子の言葉に、焦茶色の巻き毛に榛色の瞳を持つ地味ながらに綺麗な少女、ユティカ・フィオナ・グラツィーニは、へにゃりと困ったように眉を下げた。
「理由を、お聞かせ願っても………?」
ユティカの自信がなさそうな弱々しい声に、レオナルドは冷たい視線を送る。
「はっ、本当に分からないのか?」
嘲るような声音を受ける謂れを、ユティカは覚えていない。
「お前が、私を“愛さない”からだ」
「………………あい、さなぃ………」
レオナルドの切れ長の真紅の瞳に、僅かな絶望と侮蔑、そして寂寥が渦巻く。
「あぁ、そうだ。お前は、10年前の私の6歳の誕生日パーティーの日から、私がお前に結婚を申し込んだあの日から、ずっとずっと、どんなに努力をしようとも、何をやっても、私を愛してはくれなかった」
「そ、………そんなっ、」
「はっ、そんなことはない?———いい加減にしろっ!!私はお前に何度も愛を乞うたっ!!私はお前に何度も愛を伝えたっ!!何度も!何度も何度も何度も!お前の好みに合うようにっ!何度も何度も己を偽って、騙して、お前に愛されるようっ、努力を重ねたっ!!その果てに待っているものが無関心など、もう耐えられるわけがないだろう!!」
「っ、」
「もう、………限界なんだ。別れてくれ、ユティカ嬢」
レオナルドの絶叫に、絶望に、ユティカはどうしようもないほどに申し訳なくなって、項垂れ、落ち込み、今にも泣きそうな顔をしてしまう。泣きたいのは、彼の方であろうに。
なぜ彼にあんなことを言わせてしまったのか、ユティカはちゃんと理解している。けれど、身体は、心は、思うようには動いてくれなかった。
ユティカの心には、生まれる前からひとりの男がずっと住み続けているからだ。
彼の言葉に報いるためにゆっくりと息を吐いたユティカは、そっと顔を上げて、そして、ひゅっと息を呑んだ。
「未来永劫、………———私のものになってくれ」
純白のタキシードの上に羽織った真っ赤なマントを靡かせた彼の美しい顔が、なぜか真っ黒に見えた。
けれど、その理由はすぐに理解できた。
(あぁ、これが、私の罪なのね)
彼のぐちゃぐちゃに歪み切ってしまった性根に、犯罪に手を伸ばさんとしている彼の現状に、ユティカは嘆く権利すらも持ち合わせていない。絶望が諦めに変わるのは早かった。
彼が、1歩、また1歩とユティカの方にやってくる。
怖い手が、ユティカの方にゆっくりと伸ばされる。
「きゃあああああぁぁぁぁ!!」
遠くから絶叫が聞こえる。
多くの人が卒業パーティーの会場内で逃げ惑っている。
喉がヒリヒリと張り付き、瞬きさえもできない。
ユティカは無意識のうちにぎゅっと左の小指を握り込み、声をあげる。
「たす、けて………、」
視界の端で、彼の手がユティカに向けて伸ばされる。
手には、鈍く輝く銀色のもの。
覚悟を決めたユティカは、ゆっくりと瞼を落とす。
来る痛みに、ユティカはどれほど耐えられるのだろうか。
「………………?」
いつまで経っても痛みがやってこないことに違和感を覚えたユティカが視線を上げた先には、共に卒業する留学生の背中。
「———この国の王太子殿は、無抵抗なうら若き乙女に手を挙げるような、どうしようもない下衆であったか」
留学生の青年が発する地を這うような低い声に、ユティカはぱちぱちと瞬きを重ねる。
「貴様っ!!何様のつもりだ!!」
留学生の漆黒の短髪が鈍く輝く。
彼によって軽々と押し留められていたレオナルドのナイフが床へと投げ出される。それに従い、身に纏っていた肩掛けジャケットがばさっと音を立てて広がり、内側に身につけている軍服の胸にある徽章をあらわにする。
「………名乗りが遅れたようで申し訳ない。俺の名はアオライト・グレン・ラインバード。ライバート帝国第3皇子だ」
「———は?………………お、お前が、先の戦争でたった1人で1部隊を壊滅させたという血塗られた第3皇子?ば、ばかも、休み休み」
「冗談に聞こえたのであれば、お前は大層救いようの無い耳を持っているようだな」
深い海色の瞳を細め全身に殺気を纏ったアオライトに、毒気を抜かれて怯え切っているレオナルドは、顔色を真っ青にし、1歩、また1歩と遠ざかっていく。
「好いた女を大事にできない男など、生きる価値も無い。これ以上俺を不快にさせる前に、早々に失せろ」
「ひ、ひいぃっ!!」
自分自身にその視線を、殺気を、声を向けられているわけでは無いのに、全身が激しく震える。正常な判断ができなくなる。
ユティカはふるふると震えながら、けれど、ずっとずっと感じている感覚に内心首を傾げていた。
「お、覚えてろよっ!!」
三流の悪役にも満たない捨て台詞を叫んで会場から走り去ったレオナルドを横目に、ユティカはゆっくりとカーテシーをする。
「………助けていただきありがとうございました、アオライト殿下。このご恩、決して忘れません」
全身にびりびりと突き刺さるありとあらゆる人の視線が、痛い、辛い。
「………ユティカ公爵令嬢、断りにくい場面であることは重々承知しているのですが、もしよろしければ、俺にあなたの時間を少しばかりいただけませんか?」
先程とは打って変わってとても優しい海色の瞳が、表情が、甘やかにユティカへと注がれる。
「はい」
自然と頷いたユティカは、そのままアオライトによって奥の小部屋へと連れて行かれたのだった———。
◻︎◇◻︎
公爵令嬢ユティカ・フィオナ・グラツィーニには、
優花はシングルマザーの母と一緒にとあるアパートで暮らす、引っ込み思案な女の子だった。小学校2年生の頃に起きたとある事件の日までは、いつも1人で過ごしていた。
事件の日のことは、今でも鮮明に覚えている。
いつも通り、学校から帰宅すると、玄関の鍵が空いていて、ゆっくり部屋に入った瞬間、部屋中がぐちゃぐちゃで土や泥、壊れた家具で埋め尽くされていた。
怖くて怖くて仕方がなくて、優花は玄関の扉を大きく開け放ったまま優花は泣くこともできず、口を大きく開けたまま震える全身を抱きしめて玄関の床にへたり込んだ。
彼と、
隣の部屋に住む蒼は優花と同じシングルマザーの母と暮らす同い年の少年で、顔を合わせたら挨拶をするくらいの認知度。そのくらいどうでもいい人間同士の間柄であるはずなのに、蒼は玄関で呆然と座り込んでしまっている優花をめざとく見つけ、すぐに優花に駆け寄ってきてくれた。優花を後ろから優しく優しく抱きしめて、身体を摩って、優花が落ち着きを取り戻したのを見計らって、家にあった固定電話の子機から警察に電話をしてくれた。
警察に呼ばれて急いで帰宅してきた母は、蒼にべったりと抱きついて動けなくなってしまった優花を見て、困惑していた。いくつもの工程を経てやっとのことで諸々が終了しても、優花はずっと蒼に抱きついていた。
母は『蒼くんから離れなさい』と言ったけれど、優花はどうしても離れられなかった。
そんな優花を見て、彼は言ってくれた。
『大丈夫だよ、優花ちゃん。明日からは、登下校とか放課後とか、僕と一緒にいよ?怖い人が来ても、僕と一緒なら大丈夫でしょ?』
『でも、』
『優花ちゃんママ、ママ、だめかな?ママ、いっつも僕に言ってたよね。「放課後ひとりぼっちにしてしまって申し訳ない」って。優花ちゃんと一緒にいたら、僕、ひとりぼっちじゃないよ。それにね、優花ちゃん、とってもお勉強が得意なんだ。僕、優花ちゃんに宿題を教えてもらいたい』
蒼の無邪気な笑顔に押し負けた母達によって、蒼と優花はずっと一緒にいるようになった。
学校でも、登下校でも、家でも、ずっと一緒。
『優花ちゃん、困ったこととかお願いしたいことがあったら、小指をぎゅっと握って呼びかけるんだよ。そうしたら、僕が助けてあげるから』
『うん、ありがとう。蒼くん』
この歪な関係は、小学校を卒業しても、中学校に入っても、ずっと続いた。
蒼は勉強がそこそこできて運動がめちゃくちゃ得意なイケメンだったからたくさんモテて、頭でっかちな地味女の優花は、女の子達から意地悪をされるようになってしまった。
優花は、“蒼離れ”を決意した。
けれど、結局は上手にできなかったし、蒼に許してもらえなかった。
高校に入って、歪さはもっと増した。
親友のような気やすさはなく、かと言ってカレカノのような甘い空気もない。ただ一緒にいて、お互いに強い依存を持っているかのような、そんな歪な関係。
けれど、そんな日々は大学入学と同時に消えた。
蒼が優花にプロポーズをしたからだった。
大学の入学式に行った日の夜、2人で公園にお花見に行って、大きな桜の木の下で花弁の舞う中片膝をついて、ダイヤモンドの指輪と共にプロポーズをしてもらった。
『だいすきな優花ちゃん、僕の隣をこれからもずっと歩いてくれないかな?』
『っ、お願い、しますっ』
優花と蒼らしいやりとりだったと思う。
それからは幸せと分からないの連続だった。
幼馴染歴が長すぎる2人にとって常に一緒にいることは当たり前で、手を繋ぐことも当たり前だった。自分たち流にたどり着く前に、なかなかの時間を要した。
大学卒業後すぐに結婚することを決めたのは、ものすごく自然な流れだったし、お互いに当然の流れだった。お互いの親も何も言わなかったし、それどころか、大学在学中から『孫はまだか』と聞かれる始末だった。
本当に、本当に穏やかな日々だった。
大好きで大好きで仕方がない彼との生活は、穏やかで、幸せで、優しい日々だった。
けれど、終わりは唐突にやってきた———。
あれは、結婚式前日、結婚式の最終確認のために色々な場所へ訪れた帰りに起きた出来事だった。
電車の駅の踏切で、おばあさんがショッピングカートを溝に引っ掛けていたのを見つけた。蒼は優しい人だから、すぐに駆け出した。引っ込み思案で物事を少し躊躇いやすい優花も、蒼が動くと引っ張られるように必ず動く。
その次の瞬間、踏み切りが音を鳴らし始めた。
ガッツリハマってしまったショッピングカートは、面白いぐらいに動かなくて、そのショッピングカートがものすごく大事な品物であるらしいおばあさんも、ショッピングカートにへばりついていて動いてくれない。
電車が勢いよく、迫ってくる。
蒼が、おばあさんに覆い被さった優花に覆い被さる。
強い衝撃が訪れる。
蒼が抱きしめたい右半身は無事だったけれど、左半身の感覚がなくなった。全身が、暑いような気がした。
蒼の優しい匂いに、鉄っぽい匂いが混じって、そして、優花の記憶は、途切れた———。
◻︎◇◻︎
「———ん、———ゃん、………———優花ちゃん?」
肩を優しく叩かれながら呼びかけられ、優花はぼーっとしていた意識を浮上させる。
「どーしたの、あおい、く、ん………?」
優花の視線の先には、洒落た軍服を身に纏った漆黒の髪に海色の瞳を持つ彫りの深い美丈夫と中世ヨーロッパを彷彿とさせる家具たち。
「え、あ、」
自分を見下ろすと、そこには水色の豪奢なドレスとレースの手袋、そして“前世では”身につけたことがないような、大粒の宝石たち。
(どう、して………、)
信じられない思いで、優花は、否、ユティカは呆然とのろのろと、榛の瞳を目の前に佇むアオライトに向ける。
さくら色のくちびるがわななき、大粒の真珠が大きな瞳からいくつもいくつもこぼれ落ちる。くちびるは無意識のうちに、前世から心に刻みつけられている愛おしい人の名を呼ぶ。
「あおい、くん………っ、」
情けない声に、アオライトは、蒼みたいに、眉を下げて、優しく、くしゃっと笑う。
「………ちゃんと『助けて』って言えて偉かったね、優花。怖い場面であんなふうに堂々と振る舞えるようになっていて、僕はとっても感激しちゃったよ。………もう、君は僕に守られているだけのお姫さまじゃないんだね」
人を安心させる独特の話し方に、優しさの滲み出る言葉選びに、優花は涙を止められない。涙と共に、今まで抱き続けてきた大きな思いまでも、ダイナミックにぶちまけてしまう。
「………ずっと、っ、ずっと、こう、かい、………して、たのっ。わたしがもっと………、もっと、せっきょく、てきにっ、うごけてたらって、………そ、そした、ら、っみんな、たす、たすかった、っ、んじゃ、ないかっ、て………っ!!だか、らっ!もう、まも、られた、まま、っ、じゃ、い、いやで、がん、ばったのっ。で、でも、っ、じょうず、でき、………っなくてっ———、」
———わたしが、もっと頑張れていれば、
———わたしが、もっと積極性を持ち合わせていれば、
———わたしが、もっと早く動けていれば、
———わたしが、もっと早く気がついていれば、
———わたしが、おばあさんに覆い被さるのではなく、無理矢理にでも引きずっていれば、
———わたしが、わたしがわたしが、わたしがわたしがわたしがわたしがわたしがわたしがわたしがわたし!!
———もっとっ!!
過ぎ去ってしまったものばかりが、どうしようもないことばかりが、後悔として、自責として、優花の、ユティカの心の中でずっとずっと渦巻き続けていた。
だからこそ、今世では失敗したくないと、誰かの助けになりたいと、他人を巻き込みたくないと、たくさんたくさん努力した。前世みたいに頭でっかちな本の虫にならないように、怖くて仕方がない対人関係にも、努力した。
でも、どんなに頑張っても、上手にできなかった。
それどころか、傷つけてしまった。
レオナルドがユティカのことを心の奥底から愛してくれていることは、ちゃんとわかっていた。
ユティカも愛を返したかった。けれど、返せなかった。
ユティカが人を愛そうとするたびに、何度も何度も前世の愛する人たちの顔が過った。彼ら彼女らを思うと、他の人を愛するという行為に抵抗を持ってしまった。
だからだろう、ユティカからは自然と人が離れていった。人を愛することができない欠陥品の人間などいらないと言われた。最後まで離れていかなかったレオナルドにも、殺されかけた。
「………わたし、だめっだめっ、なんだよ………っ、また、しっぱい、ばっかり………!!」
泣く資格なんてないとわかっているのに、榛色の瞳からはとめどなく雫がこぼれ落ちてしまう。
「………ねえ、優花ちゃん。僕は、今世では悪い人なんだ」
「………??」
「どうしようもなく、悪い人なんだ。必要だったとはいえ、何人もの人を殺したし、僕の両手は、いや、この全身は憎悪の血に染まってしまっている。『優しい蒼』は、もう、いないんだ」
苦痛に満ちた悲哀の声に、ユティカは首を傾げる。
涙が少し、落ち着いた。
「あお、いくんは、やさしい、よ?」
今日もユティカを助けてくれた。
「それにね、………どん、な、あおいくんでも、………………わたしに、とって、は、“ヒーロー”なの」
ユティカはそっとアオライトに抱きついた。
ふわっと鼻腔をくすぐるミントの爽やかな香り、前世から変わっていない優しい香り、そして心をぐずぐずにとかす暖かさに、ユティカは頬を緩める。
「あいしているの、あおいくん。あなただけを、みらい、えいごう」
この恋は結ばれない。
だってユティカは小国のただの公爵令嬢で、アオライトは大国の第3皇子だから。
表向きは双方共に王家の血を引く由緒正しき人間であったとしても、政治的観点から見る身分差はとても大きい。
ユティカはしっかりと涙を拭き取って、花が綻ぶような優しい微笑みを浮かべる。
「………わたしは、これから修道院に入るからもう会えないけれど、あなたがひとりでも多くの人を救う日を楽しみにしているね」
ユティカの言葉に、アオライトが目を大きく見開き、ユティカを痛いぐらいに強く抱きしめた。
「………俺が君を離すわけがないだろう?」
「え………?」
空気がガラッと変わる。
アオライトはさっき感じた、あの冷たくて容赦のない気配を纏っている。
見つめてくる海色の瞳に激情が宿ている。
「君が皇子妃になりたくないと言うのであれば、すぐに身分を捨てよう。大丈夫、一生遊んで暮らせるぐらいの蓄えはある。こう見えても俺はお金持ちだし、権力も持ち合わせているからな」
「え?あ、」
「それとも金ではなくどこかの国か国宝が欲しいか?すぐに言え、1週間もせぬうちにとってきて見せよう」
「ちが、」
『冗談だよね』とは言えないような本気の瞳をしたアオライトに、ユティカは困惑を極める。
「優花ちゃん、………いや、ユティカ。俺と一緒におばあちゃんになって、俺と一緒にたくさんの曾孫や孫に見守られて死んでくれ」
アオライトの言葉に、ユティカは目を見開く。
「愛しているんだ。お前じゃなきゃ、だめなんだ」
せっかくのプロポーズなのに、彼の顔が見えない。
けれど、ユティカの返事は生まれ変わる前から決まっている。
「し、死んだあと、もっ、また、いっしょに、添い遂げ、て、くれるっ?」
「あぁ、もちろん」
きついぐらいに全身を抱き留められる。
息ができなくて、背骨がギシギシ言うほどに強く抱きしめられているはずなのに、痛いはずなのに、ユティカはとても幸せだ。
「愛してる、ユカ」
「わたしの、ほうがっ、あい、してるっ!」
ゆっくりと近づいたくちびるは、やがて優しいランプの光に照らされた室内でとてもとても長い時間くっついていたらしい———。
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