訪問者
水原 治
訪問者
渋谷駅のガラス窓の向こうに、とりどりのネオンや映像が瞬いている。
信号が変わると同時に、一斉にスクランブル交差点を、大量の人々が動き出した。
正一はスマホから目を離すと、じっとその光景を見つめた。
スーツ姿の彼が、目前のガラス窓に写り込んでいる。
その日は、仕事の帰りだった。彼は新調したネクタイを、ガラス窓を鏡にしてもう一度直すと、ジャケットの内ポケットに手を差し込んで、一通の封筒を取り出した。
「……」
開けて、チラッと中を覗いた。
「劇団四季 ライオンキング」と書かれたチケットが、二枚入っている。
それまで、舞台やお芝居などに何の興味もなかった自分が、最近ようやくにして手に入れたものだ。
彼はどこか祈るような気持ちで、そのチケットをじっと眺めていた。
帰宅する人々や、これから夜の街に繰り出そうとする人々で、そんな彼のまわりは慌ただしかった。しばらくそうして待っていると、行き交う人々に混じって、一人の女性が正一の方に足早に近づいてきた。
その姿に気づくと、彼は急いで内ポケットに封筒をしまいこんだ。
「……待った?」
聡美はそう言った。正一は、咳払いを一つした。
「いやーー」
聡美のその日の服装を、彼は上から下まで、ざっと眺め見るようにしてみた。ぴったりとしたデニムに、平凡なプリント柄の入ったグレーのTシャツ。その上に、男物のような黒のジャケットを羽織り、靴は履き古したパンプス。肩には白のトートバッグをかけている。
「……」
「どうしたの」
「ああ、いや」
要するに、これはきっとまた、いつもの普段着なのだ。職場と自宅の、繰り返しの往復の際に部屋着のままではまずい、といった程度の。
そんな彼の、落胆したような視線を感じているのかいないのかーー聡美は黙って横を向くと、ガラス窓の向こうの風景にじっと目をやっていた。その姿が、くっきりと窓に写り込んでいる。
「お腹、空いてるだろう?」
試しに正一は、そう言ってみた。聡美は微動だにせず、少しのあいだ考えている。
「ううん。別に」
あっけなくそう答えると、彼女は首を振った。
正一は、ひどく残念そうな顔をしてみせた。その日行く店も、渋谷や恵比寿で二、三、候補を上げておいたのだ。
それとももしかするとーー聡美はまだ、あの日の夜のことを、気にしているのだろうか。
この、一連の彼女の素っ気のない態度は、だから彼には、大方予想がついたものでもあった。すると自然、なるべくそういう不満げな顔はせずにおこう、と心づもりしてしまうようになるし、それ以上余計なことを言うのも良くない、とも考えてしまう。
でも、その予防措置もあまり、役には立たないようだった。彼の表情には、その無念さがありありとにじみ出ていた。
やっぱり少し、やり過ぎてしまったか。
一方の聡美は、依然澄ました顔で、そんな正一のことを、つまりはあの夜のことをーーまるで気にもしていない様子だった。
矛盾するようだが、彼にとってはそれが、せめてもの救いと言えば救いになるのだった。
それに、もしあの夜彼がしたことを嫌うのであれば、何故この自分と引き続き会おうとするだろう。その説明がつかなくなる。
……全く。女というのは何を考えているのか、ちっともわかりゃしない。
正一がつくづくそう思うのは、まさにこういう時だった。
「じゃあ、行こうか」
正一のその呼びかけにも、聡美は何も答えなかった。その代わり、これから行くだろう方向に、さっと体を向けることで答えた。
「……」
並んで歩き出した時、正一は思わず強く、聡美の手を奪うように握った。一瞬、聡美は意外そうな顔で正一を見上げた。
☆
週の初めにもかかわらず、夜の渋谷の街は、人いきれがすごかった。
二人は手を繋いだまま、その喧騒の中を、整然と通り過ぎて行った。何一つ、言葉も交わさずに。そそくさと、円山町へと向かって、早足で道玄坂を上がって行った。
華やかな通りから、一本路地に入ると、そこにはたくさんのラブホテルのネオンが瞬いていた。時間はまだ、夜の八時を少し回ったくらいである。
だがすでにもう、そこには何組かのカップルの姿があった。
二人は、一軒のホテルの入り口に、そのまままるで吸い込まれるようにして入っていった。
中に入ると、ロビーの正面の壁に、たくさんの空き部屋の写真が、埋め尽くされるようにして並んでいた。
どこがいい? そう正一が聞くより先に、聡美は勝手にある広めの部屋を選んだ。二人の前の、銀色の鉄の塊のような機械から、一枚の小さなレシートが、ジーっと音を立てて、控えめに出てくる。
聡美はそれを、ひどく手慣れた手つきで破り取るとーー何も言わず一人でスタスタと、エレベーターの方に向かって歩いて行った。
「……」
正一は立ち止まったまま、ひどく不満げに、その後ろ姿を眺めていた。
「……どうしたの」
聡美は平然と振り返ると、片手を腰にやって聞いた。
……まったく、いったいいつになったらそのノリは、自分の前から綺麗さっぱり、消えてなくなってくれるのだろうか。
チーン、と古めかしい、気の抜けたような音が鳴ると、エレベーターのドアがゆっくりと開いた。聡美は澄ました顔で先に乗り込むと、階数のボタンを押し、いまだロビーで立ち尽くしたままでいる、正一の方にもう一度顔を向けた。
見ると、エレベーターの中は、何故か気になってくるほどに、照明が暗くなっていた。中にいる聡美の
正一は
「ほら、早く」
……ほら、早く、か。
正一はようやくその薄暗いエレベーターに乗り込むと、扉の「閉」のボタンを押した。
音を立ててエレベーターが上がっていく間、聡美はボタンのあるパネルの側にもたれ、顔を背けるようにしていた。
正一は、その背後に立っている。
階数表示の数字だけが、いやに暗いエレベーターの中で、鮮やかに明るく光り輝いていた。
「今日は仕事は、忙しかったかい」
そう聞いてみた。
「……」
聡美は、俯いたままでいる。
「予約が……いくつか重なったから」
素っ気なく答えた。
「そうか」
と、そのとき正一は、何かに気づいたように、鼻を何度かクンクンと鳴らした。
「あっ……」
「えっ?」
「もしかして、ニンニク臭い?」
正一はおどけるように笑った。
「いや、違うよ」
エレベーターが止まると、音を立てて扉が開いた。聡美が先に出、それから正一が続こうとしたとき、頭上の階数表示を見上げた。
「……あれ」
「何」
聡美が振り向く。
「ここ、違うよ。部屋はもう一つ、上の階だ」
ボタンのパネルを見ると、さっき押した四階の表示が、まだはっきりと瞬いていた。見ると廊下の壁には、3、という案内板が貼ってある。
その先には、人気のない薄暗い廊下が、ずっと続いていた。
「えっ。私ちゃんと、四階を押したのに」
「誰かがこの階で押して……きっとそのままどこかに行ったんだろ」
いまだ納得のいかないような顔をしたまま、聡美はエレベーターの中にもう一度戻ってきた。二人の前で扉が閉まると、エレベーターは再び、大仰な音を立てて上がり始めた。
☆
部屋の中に入ると、聡美が照明をつけ、先に靴を脱いで上がっていった。
続いて正一が入ったとき見ると、聡美がすぐ近くの壁に顔を向け、立ったままそこで警戒するようにしていた。
「……」
その態度は、少し、あからさまに過ぎた。
正一は、何も言わず脇を通り抜けると、鞄を置いてベッドの方に行った。聡美は顔を上げると、意外そうな顔でその後ろ姿を目で追った。
「……今日は、何もしないのね」
毒々しいような、ピンク色の室内灯に照らされ、部屋の中央に趣味の悪い、ハート型の大きなベッドがあった。
正一はそこに腰を下ろすと、ネクタイを緩め、そのまま仰向けになってドサリと倒れ込んだ。
天井の鏡に映り込んだ自分と、目が合う。
……だから、あの時は、かなり酔っていたしーーいろいろイライラしていたからじゃないか。
聡美はその場でじっと、そんな正一の様子を見下ろしていた。
と、正一が寝転んだまま、ジャケットの内ポケットから、チケットの入った封筒を取り出して、聡美に差し出した。
「それ、何?」
正一は差し出したままの姿で、動かないでいる。
「お芝居のチケット。来月あるんだ」
聡美は目を輝かせた。
「……えっ。私と?」
彼は笑って、体を起こした。
「他に、誰がいるんだよ」
覚えず嬉しそうに、聡美は下を向いた。
そのとき、部屋のドアをコンコン、と二回ノックする音が聞こえてきた。聡美が振り返った。
「……誰か来た」
「えっ」
正一は、首をかしげた。それから、軽い舌打ち。
「いやいや……ラブホテルだぞ? ここ」
「私、出てこようか」
言って聡美は、入り口の方に向かおうとした。正一は何度か手を振ると、それから大きく首も振った。
「いいよ。どうせ何々のサービスがどうとかいう話だろ」
「でもーー」
彼は一度咳払いをすると、呼吸と姿勢を整えた。
「それより、ちょっと話したいことがあるんだ」
また軽く咳払いをすると、正一はジャケットを脱いだ。それをソファの上に放り投げると、ネクタイも取る。
聡美はもう一度、入り口の扉の方を気にするように振り返ると、足元に手にしていたトートバッグを置いた。
☆
バスルームの扉がわずかに開いていて、照明が落とされた浴室から、少しづつ湯気が漏れ出している。
ジャグジー風呂の中の、赤や青のライトだけが灯されていた。
薄暗がりの中の、円形の風呂の中央に浸かっている正一と聡美の姿が、その鮮やかなライトで下から照らされている。
湯の中で体操座りした聡美を、正一が背後から包み込むようにして座っていた。
「ねえ……それ、ほんとに?」
聡美が信じがたい、といったように聞いた。そのうなじに、点々と細かな汗が綺麗に浮かびあがっている。
ジャグジーの泡が吹き出す、その激しい音だけが二人の耳に聞こえていた。
「……嫌なのか?」
彼は気持ち強気に言って、聡美の顔を覗き込んだ。どうしても、「うん」と言わせてやりたかったのだ。
聡美は黙っていた。正一は聡美のうなじに浮かんだ汗を舐めると、そのまま首筋を何度も吸った。
「もう、ウンザリなんだよ。こういう関係は」
言って、今度は背後から聡美の豊かな胸を揉みしだいた。
「……お風呂の中はイヤ」
聡美の耳たぶを甘噛みしていた正一は、ふいにそれをやめた。
二人はぎこちないように、しばらく黙り込んだ。正一は聡美の肩に顎を乗せると、そっと優しく耳元で囁いた。
「好きなんだろう? 料理の仕事」
「うん」
「それはずっと、続ければいいんだ」
ならば、このもう一つの仕事の方は、どうさせるつもりなのか。
まだ正一の中では、はっきりとした考えはまとまっていない。
でも、どうとでもなるさ。
二人を包んでいる暗闇に、正一はふいに気づいたように目をやった。
「ねえ私……家じゃあんまり、料理しないかもよ」
「いいよ、そんなの」
聡美の耳元に、ぴったりと顔を近づける。そして、後ろから強く、しっかりと抱きしめた。
「ちゃんと付き合ってくれないか、俺と」
それまでひたすら貝のように口を閉ざしていた聡美は、やがてコクリと小さく頷いた。
途端に正一の表情が、パッと明るくなった。
☆
腰にバスタオルを巻いて、機嫌良さげにベッドに足を組んで座ると、正一は缶ビールのプルトップを音を立てて開けた。と、そこに髪を下ろしながら、体にバスタオルを巻いた聡美が入って来た。
そのとき、入り口の方からコンコン、とノックの音が聞こえてきた。
聡美は立ち止まると振り返った。
正一はギョッとした顔をした。
枕元のデジタル時計を見ると、十一時半を少し過ぎたくらいである。
「…ったく、なんなんだよいったいーーこんな時間にーー」
聡美は髪をとかしながら、
「私、出てくる」
言って、体にバスタオル一枚を巻いただけの格好で、入り口に向かって早足で消えていった。
「あっ。おい聡美ーー」
正一はその後ろ姿を目で追うと、舌打ちをして缶ビールを一口飲んだ。
枕の上に腕で頭を支え、横になってスマホを見ていると、ゆっくりとした足取りで、入り口の方から聡美が部屋に戻ってきた。
「……なんだった?」
聡美は廊下と部屋の境目のあたりで、黙ったまま立ち尽くしている。
「どうした」
「……」
聡美は何も答えずに、彼に背を向けるとそのままベッドに腰を下ろした。
正一は、スマホをベッドの上に放り投げた。聡美は深くうな垂れるようにして、俯いたままでいる。
「なあ」
彼は体を起こした。聡美は微動だにせずに、そこに座ったままでいる。
枕元にあった、ベッドを照らす照明のツマミをひねると、半分くらいの光量に落とした。薄く流れていた、Jポップのような音楽もオフにする。
「ねえ」
聡美が突然、小さな声で言った。
「ん?」
「……私、やっぱり無理」
「えっ?」
言うと、聡美は改めて、深く俯いた。
「無理って何が」
「あなたと付き合うの」
「……」
正一は口を開けて、ポカンとした顔で聡美の背中のあたりを見ていた。
「いや、俺は……」
聡美の方に、体をにじり寄せるようにした。
「俺は今、誰が来たのか、って聞いたんだぞ?」
「なんだか自信ないの、私」
聡美は、そのまま岩のように黙り込んでしまった。
眉根を寄せたまま、正一はこの不可解な状況を、必死に理解しようと努めた。
聡美の体に巻かれたバスタオルが、背の肉にわずかに食い込んでいる。俯いたままのその背中には、並んだ背骨の膨らみが、うっすらと浮かびあがっている。
「……おい」
正一は手を伸ばし、聡美の背中を押した。その押したぶんだけ、聡美の姿がユラリと動いた。
「なあ、聡美?」
聡美は何も答えなかった。
☆
深いまどろみから覚めると、正一は目を手のひらでこすり、しばらくグズグズとした後で顔を上げた。
枕元のデジタル時計を見ると、午前十一時を少し過ぎている。正一はその姿勢のまま、ぼうっと数字を眺めていた。
「……あっ!」
慌てて体を起こすと、そばにあったスマホを取った。十月三日(水)とある。
正一はがっくりと肩を落とすと、大きくため息をついた。
「やっちまった……」
かたわらには聡美が、背を向けて寝ていた。
一人うなだれた後で、正一はボサボサになった頭を掻いた。
シャツを着、ネクタイを丸めてカバンにしまっているそばで、聡美がベッドに座って化粧を整えていた。
「……」
しきりに、チラチラと聡美の方を気にする。
「なあ。これからどっか、昼飯行こうか」
聡美は顔を上げた。
「いいの? 今から会社行かなくて」
「もういいよ」
聡美はピンク色の、小さなハローキティのシールが貼られたコンパクトをパタリと音を立てて閉じると、トートバッグの中にしまった。続けて中からスマホを取り出して見始める。
と、そのとき入り口の方から、コンコン、と二度、ノックの音がした。
はっとした顔で、正一はその方を見ると、途端にいち早く駆け出した。聡美は顔を上げると、平然とした顔で、じっとその後ろ姿を目で追っていた。
ワイシャツがズボンからはみ出ている状態で、正一は音を立てて扉を開けた。
そこには一人の掃除婦が、モップとゴミ袋を持って立っていた。
「あっ」
慌てて部屋の方を振り返ると、聡美が電話で、はい、すいません、今チェックアウトしますので、とフロントと話をしているのが聞こえてくる。
「あの……そろそろお時間なんですが……」
掃除婦が言って、正一の顔をじっと見上げていた。
背の低い掃除婦の頭上に身を乗り出すようにして、その背後に続く、人気のない廊下を何度も見回した。
正一の顔を不思議そうな顔で、掃除婦は口を開けて見つめていた。
訪問者 水原 治 @osamumizuhara
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