愛を与える

水原 治

愛を与える


      1

                       

 丸い金魚鉢の中で、鮮やかなオレンジ色の出目金が、藻の間をすいすいと泳ぎ回っている。

 本棚の上に置かれたそれは、部屋の蛍光灯の光を反射して光っている。

 由紀子は机に頬杖をついたまま、一冊の日記帳のページを繰った。


 ……武史と別れた以上、生きていても仕方ありません。お父さんお母さんすみません。さようなら。八月三十日 午後十一時五十分。


 大きくため息をつきながら、由紀子はその文面をじっと眺めていた。壁の時計の秒針の、カチコチと動く音だけが聞こえている。

 金魚鉢の水面に、一匹の金魚が横になって浮かんでいる。その死んだ金魚を、もう一匹の元気な金魚が、下から口先で何度もつっついていた。

 由紀子はもう一枚、日記帳のページを繰った。


 ……死ねなかった。


 そこにはそうあった。さらにもう一枚、ページを繰る。


 ……なぜ私は……まだ生きているんだろう……。


 見るともなしに、ただその文面をぼんやりと眺めていた。これまでに、何度も繰り返してきたことではある。

それでもこの時も、その文章が、まるで骨の髄までしみてくるようにわかるのだった。当時も今も、何一つ変わってはいない。自分とは何の関係もない、赤の他人が書いたものでは決してない。

 由紀子は強く、下唇を噛んだ。そしてことさらに、力を入れてみる。その痛みの感覚は、何かひどくよそよそしいものに思える。

 薄ら寒いような、そんな思いだ。こんなものはウソだ、そんな気がしきりにする。

 彼女は、途端に喉元に湧き出してきた唾を飲み込んだ。


 ……なぜ私は、まだ生きているんだろう。

 

 目を伏せると、机の引き出しをそっと開けた。そこには白い錠剤の入った瓶が、綺麗に詰め込まれて並んでいる。

そのうちの一つを、指先で持ち上げ、取り出してみた。ラベルにはリスロンS、と書かれてある。

ブロムワレリル尿素。ブロバリン。カルモチン。 

 由紀子は手にしたそれを、シャカシャカと音を立てて振ってみた。何度も何度も続けて、その音を胸に刻み込むようにする。

これも今まで、ことあるごとに繰り返してきたことだ。その音は、彼女にとって、あるというものを現している。

 この、つぶつぶの一つ一つは、自分をゆっくりと、しかしあっけなく、いとも簡単に殺してくれる。

 その、

 このシャカシャカという音は、いつでもそれを確認できる、至極簡単な方法なのだ。

にわかに由紀子の心は、落ち着きを取り戻していた。彼女は瓶を元どおりしまうと、静かに引き出しを閉じた。

 机の上に広げた日記帳から、棚の上の金魚鉢に目を向けた。と、水面に死んだ金魚が浮かんでいるのが目に入った。

 ハッとして、由紀子は椅子から立ち上がった。死んで浮かんだ金魚は、視線の角度で見えなくなった。彼女は金魚鉢の方に歩み寄った。

 鉢の中に手を入れ、死んだ金魚をすくい、手のひらの上に乗せてみた。水に濡れたそれは、つやつやと部屋の光を反射して輝いている。腹が少し膨らんでいて、生臭い匂いがする。

由紀子はじっとその金魚を眺めると、手のひらの上を滑らせるようにして、金魚鉢の中に戻した。縦に垂直に水の中に落ちていった、その硬直した金魚の体はーーいったん鉢の底まで落ちきると、また水面までゆっくりと浮かび上がってきた。

   

     2

          

 真っ青に晴れた空には、雲ひとつない。

 屋上の柵の向こうからは、新宿の街の喧騒が、穏やかに聞こえていた。車のクラクション音も、時折挟まるようにして耳に入る。

 由紀子は、手にしていたスマホの画面から目を離すと、周囲に目をやった。

彼女と同じ、水色のOL服を着た社員の女性二人が、柵にもたれておしゃべりしている。そのさらに遠くのベンチには、ワイシャツ姿の男性二人が、コンビニ弁当を広げて昼食をとっていた。

 もう一度、彼女はぼんやり目前の町並みに目を細めると、スマホに視線を戻してツイッターのアプリを開いた。

 「死にたい」「自殺志願」といったハッシュタグのついたツイートが、そこにはずらりと並んでいる。上下に画面をスクロールさせ、手慣れたようにそれらを次々と眺めていく。

 と、ふと、Erica、というユーザー名のツイートが目に止まった。

彼女はスクロールする指を止めた。


 ……失敗なく、確実に死にたいと思ってます。

 経験者の方、どなたか手伝っていただけませんか?


 由紀子は周囲をそっと、流し見るように見渡した。

 それから、とっさに湧き出てきた唾を飲み込む。

男性の二人組は、いまだ昼食をとっていたが、おしゃべりに興じていた女性二人は、知らぬ間に姿を消していた。

 下唇を、強く噛んでみた。強く、もっと強く。噛み切ってしまうほどに。

 でも、痛みというほどの痛みは、もはや感じることができない。

 そのEricaのツイートを、由紀子はそっとお気に入りに入れた。そしてツイッターのアプリを閉じると、屋上の入り口に向かって早足で歩き出した。

 新宿の街の喧騒も、そして男性二人のおしゃべりも、彼女の耳にはもう、何も聞こえなかった。


     3              


 シャワーから出、バスタオルで濡れた髪を拭きながら、由紀子はキッチンに入ると、冷蔵庫を開け、野菜ジュースの缶を取り出した。

 それを持って寝室に行くと、ベッドの脇に腰を下ろした。缶のプルトップを開け、一口飲む。それからベッドの上のスマホに手を伸ばした。

 画面には、今日一日のEricaとのDMのやり取りが、ずらりと並んでいた。また一口、野菜ジュースを飲むと履歴をスクロールさせ、頭から順に眺めていく。


「……じゃあ、ブロバリンを五十錠飲んでも死ねなかったんですね?」

 

由紀子は、ふいに手を止めた。顔を上げ、部屋の棚の上の金魚鉢に目をやる。

中には、先日死んだ金魚がそのままになっていた。生きているもう一匹は、素知らぬふうにその下を元気に泳ぎ回っている。

 流れる水の動きに合わせ、横倒しになって浮かんでいる死んだ金魚は、ゆっくりと微細にその体を移動させている。

 その様子をしばらくじっと眺めた後で、由紀子はスマホにメッセージの入力を始めた。


「……今度、一度お会いしませんか? 詳しく、私の方から確実な死に方をお教えします。何かお手伝いできることも、あるかもしれません」


 入力し終えると、送信ボタンを押した。そしてフローリングの床の上に、スマホを放り投げた。ガタン、と大きな音がする。

 由紀子はそのままベッドの上に、うつ伏せに倒れ込んだ。

金魚鉢の中の生きている方の金魚が、いまだゆっくりと泳ぎ回っていた。まるでそのまま、静けさの中に溶け入ってしまいそうだった。

  


 夕闇に包まれた中野駅前は、帰宅する人々が多く行き交っていた。

 カバンを抱えた由紀子は、ロータリー前のベンチに腰を下ろすと、ぼんやりその様子を眺めた。

生ぬるい、すえたような匂いを含んだ空気が、周囲におりのようになってよどんでいる。

 と、駅の入り口の方から、一人の女性が、早足でパタパタと、こちらに向かって駆け寄ってくるのが目に入った。気づいて立ち上がる。

 恵梨香は足を止めると、そのまま大仰に頭を下げた。

「……こんばんは。はじめまして」

 由紀子は恵梨香を見つめたまま、同じように頭を下げた。



 黒のミニスカートに、黒のシャネルの春物コート。茶色に染めた髪をボブにしている恵梨香は、ひどく小柄で、華奢で、そして幼く見えた。

「今日はどうも、ありがとうございます」

 恵梨香は言った。由紀子はただ、黙って頷いた。二人はそのまま並んで歩き出した。

「あのメールの後……」

 由紀子はいろいろ考えることに夢中で、全く聞いていなかった。慌てて、顔を向ける。

「すいません」

「……あの後、私、少し考えたんです。それでやっぱり、仰られた通り、アタラックスよりリスロンにします」

 何も答えず黙ったまま、由紀子は下を向いて歩いた。

 なぜかどうも、さっきから調子が狂うようだ。軽く、吐き気のようなものもしてくる。

やがておもむろに口を開いた。

「リスロンSは、一箱に十二錠しか入ってません。二百錠は飲んでください。それを何か、DVDでも見ながら……小分けにして、必ずお酒で飲み下してください」

 そう訥々と話す由紀子の横顔を、恵梨香はじっと見つめていた。

 自分でも、奇妙な話し方だ、と思う。まるで、アルミホイルを両手でと丸めていくようなーーそんな耳障りな話し方。

「……一気に飲むと、私のように飲み切れずに、必ず吐き出してしまいますから」

「それで、朝にすぐ、病院に?」

 そう言ってすぐ、恵梨香は少しバツの悪いような、そんな顔をした。由紀子はまた俯いて、口を閉ざす。

二人は、しばらく黙り込んだ。

「あの」

 恵梨香が顔を上げ、もう一度由紀子を見た。

「少しだけ……聞いてもいいですか?」

「ええ」

「どうして……死のうと思ったんですか」

 由紀子は足を止めた。それにつられて、恵梨香も立ち止まる。仕事帰りのサラリーマンの集団が、次々と二人を追い越していく。

どうしようか、と、少し迷った。が、やはり言ってしまうことにした。

「当時付き合っていた人と、どうしてもうまくいかなかったんです。今から、二年前です」

 恵梨香の顔色が変わった。

「本当ですか?」

「え、ええ」

「私も、同じなんですよーー」

 ハッとした顔で、恵梨香を見た。そして由紀子は、すぐにまた俯いてしまった。

 もう一度、気を取り直したように顔を上げると、駅前の雑踏に向かって目をやった。

「今から駅前のドラッグストアを、二人で手分けして回りましょう。一度に買うと、怪しまれますから。お手伝いします」

「えっ、いいんですか?」

 驚いた顔で聞いた恵梨香に向かって由紀子は頷くと、また早足で歩き出した。肩にかけたカバンをかけ直して、恵梨香はその後をついて行った。



 屈みこんで、恵梨香が一つの紙袋の中に購入した大量の睡眠薬をまとめている。由紀子はその様子を、じっと見下ろすようにして眺めていた。

「どうもありがとうございました」

 恵梨香は立ち上がってそう言うと、丁寧に頭を下げた。

「……あの」

 さっきから、痛いほどに下唇を噛んで横を向いたまま、由紀子は中野駅の夜の喧騒に目をやっていた。

「なんですか」

「これから少し……お時間ありませんか?」

 恵梨香はニコリと笑うと言った。

「もしよかったら、一緒にご飯でもどうですか? 私、ご馳走します」

「えっ。でもそんな」

「この先の商店街に、すっごく美味しい中華屋さんがあるんですよ。そこに行くのも、きっと今日で最後です。明後日が、彼の誕生日なんです。私、その日に死にたいんです」

「……」

「どうですか?」

 大きな目を輝かせ、恵梨香はそう聞いた。由紀子は断る理由が思いつかなかった。

「わかりました」

 嬉しそうに、恵梨香はもう一度笑うと、紙の袋を手にして先に歩き出した。由紀子は立ち尽くしたまま、その後ろ姿をぼんやり眺めると、慌ててその後についていった。


     5

                       

 恵梨香が案内した店は、古ぼけた、かなり年季の入った中華料理屋だった。引き戸を開け、赤い暖簾をくぐって中に入っていくと、いらっしゃい、という元気な声が響いてくる。

 店内には、客はあまりいなかった。大きな赤い円卓を、二人で独占する形になった。

 席につき、あらためて恵梨香のことを見直してみると、ほんとうに華奢な体つきだと思った。ちょこなんと椅子に座っている様子から、それがよくわかる。

 彼女は手を上げて、店員を呼んだ。

「じゃあ、乾杯しましょうか」

 すぐにきたレモンチューハイの入ったジョッキを、恵梨香は勢いよく差し出した。

「……」

 少し躊躇した後で、由紀子は自分のものを控えめに上げた。

「……乾杯」

 二人はチン、と音を立ててジョッキを合わせた。

 にんにくやラードの入り混じった匂いを嗅ぎながら、黙ってチューハイを飲んでいると、恵梨香の注文した料理が次々とテーブルに運ばれてきた。みるみるうちに、食べきれないほどの料理の皿で、いっぱいになってゆく。

由紀子は、自分のかた焼きそばを食べながら、恵梨香を横目で眺め見た。

「……」

 彼女は、坦々麺を食べながら、餅で巻いた北京ダックを食べ、さらにギョウザを食べていた。円卓の背後に立った中国人の店員が、呆れた顔で、その様子を眺めている。

 見ていてちょっと心配になってくるほどの食べっぷりだ。

 店の片隅に、茶色く油まみれになった、ブラウン管のテレビが置いてあった。そこでは巨人対広島戦のナイター中継が流れている。

「……よく来るの? このお店」

 由紀子が聞くと、恵梨香は食べる手を止め、小さく頷いた。

「彼に連れられて、よく」

 途端に、由紀子は下を向いた。黙って口の中のものを噛む。

「……彼、プロ野球選手だったんです。ずっと二軍でしたけど」

 店内の壁に目をやると、いくつかプロ野球選手のものらしい色紙が並んでいるのに気がついた。

 恵梨香はまた、旺盛に食べ始めた。その理由が、由紀子には少し、わかった気がする。

 由紀子は気づかれないよう小さく息を吐くと、今生のし納めのごとく食べ続ける、恵梨香を見つめた。



 テーブルの上の料理は、あらかた食べ尽くされていた。

「ちょっとごめん」

 由紀子は立ち上がるとトイレに行った。

 きしむ木製のドアを開け、トイレから出ると、ふと何気なく、恵梨香の座っている円卓の方を見た。

 店の中ではまだ、野球のナイター中継が流れている。

その映像を、餅で巻いた北京ダックを右手に持った恵梨香がーーやけに放心したような顔で、ただぼうっと、口を開けて眺めていた。

その足元には、例の睡眠薬のつまった、ドラッグストアの紙袋がある。

 そのとき、途端に由紀子の顔が、サッと青ざめた。

生唾を飲み込む。手が震え始めた。寒気のようなものが背筋から襲い、何かが下腹から激しくこみ上げてくる。

 急いでトイレに戻ると、由紀子は便器に向かって何度も繰り返し嘔吐した。青くなった顔を上げると、口を拭った。



 店を出た頃には、中野駅の雑踏は、ずいぶん落ち着いていた。

 商店街のアーケードの下を、二人は並んで歩いた。

「今日は本当に、ありがとうございました」

 憔悴しきったような顔で、由紀子は立ち止まった。すぐ向こうの駅前には、タクシーの行列ができている。

「じゃあ、私はここで」

 恵梨香は、最後にもう一度、深々と頭を下げた。その様を、由紀子は黙って見下ろした。

 がまた、激しく込み上げてくる。

「さようなら」

 恵梨香はそのまま、タクシーの列の方に歩き去った。由紀子は何も答えずに、ただぼんやりと、その後ろ姿を見えなくなるまで目で追った。


     6                 


 パソコンに向かって、仕事をしている間中、由紀子は何度もふいに手を止め、壁の時計に目をやった。

 しばらく時計を眺めると、また仕事に戻る。その日は一日、何度もそれを繰り返した。

 夕闇の中、帰宅する人々に混じって、小田急の駅を出ると、駅前のスーパーに買い物に行った。

 買い物かごを手に取り、エスカレーターで二階に上がる。

 店内の一角に『今夜は美味しい中華で決まり!』と書かれたのぼりが、いくつも立っているのが目に入った。

「……」

 由紀子はしばらく立ち止まって考えると、そののぼりの方に歩いていった。



 家に帰ると、着替えを済ませ、部屋の中を軽く掃除した。それからその日の夕飯を作り始めた。

 さっき、寝室の棚に置いておいた金魚鉢を、リビングのテーブルの上に移動させておいた。中では新しい一匹をくわえた、二匹の金魚が悠々と泳ぎ回っている。

 野菜と肉を刻み終えると、キッチンのコンロにフライパンを乗せ、炒め物を始めた。しばらく炒めると、手を止めて火を消す。

そばに用意しておいた白い皿の上に、その作ったものをジャッ、とあけた。

 湯気を上げる、その出来立てのチンジャオロースーはーー油でテカテカと、美味しそうに皿の上で光っていた。

「……」

 そのチンジャオロースーを、由紀子はじっと見つめた。

指先で肉とピーマンをつまむと、ひとくち口に入れる。

 しばらくもぐもぐと口を動かすと、ゆっくり噛みしめるようにそれを食べた。

 突然由紀子は、フライパンの中に手にした菜箸を放り出すと、リビングに走った。ソファの上のスマホを慌ただしく手に取る。

 震える手で、何か急いで入力し始めた。

 

「……死んじゃだめ」


 いてもたってもいられない様子で、由紀子は何度も地団駄を踏んだ。壁の時計を見る。もう一度、何か入力し始める。


「……私が今度、あなたに美味しい中華を作ってあげる。一緒に食べよう。だから死んじゃだめ!」


 時計の針は、九時を少し過ぎたあたりを指していた。ソファの上にかけてあったカーディガンを手に取ると、急いで羽織った。

 テーブルの上の金魚鉢の中の二匹の金魚が、ゆっくりと泳ぎ回っていた。由紀子はカバンを手にすると、スマホを握りしめたまま、部屋を駆け出て行った。

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愛を与える 水原 治 @osamumizuhara

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