星を流す

quark

星を流す

一.

「こりゃ大雨になるなあ」

良一の叔父である治郎は、東の空を見上げてそう言った。彼の目線の先には、峰のような入道雲が盛んに沸いて、陽光を浴びていた。それだけ言うと、治郎は興味を無くしたのか縁側を立ち、良一のことなど忘れて部屋へ戻ってしまった。風鈴が気だるげな乾いた音を鳴らし、良一はまた元のように寝転がって漫画を読み始める。

盆の昼は退屈で窮屈だった。豊かな田園風景を夢想してこの家に一人やって来た良一も、三日目となると飽きが来ていた。近所の人が時々訪ねてくるが、当然良一の知り合いではなく、こうして縁側に寝そべっているしかやることは無い。たまらなくなって、良一は僅かに残っている冒険心を絞って、あぜ道を歩くことにした。

少しして、彼は裸足で出てきたことを悔やんだ。道の小石が夏の日差しに暖まって、足の裏が火傷しそうだった。必死に石を避けて草の上を歩くが、あまり良い感触ではない。坊主刈りの頭からじりじりと汗が滲み出てくる。川の音が聞こえた。少し走ると、山から流れてきた、冷たそうな浅い清流が岩々にぶつかって荒々しい音を立てている。良一は迷いなく足を浸して河原に寝転んだ。足から伝わる涼しさににやけながら、彼はじっと寝ころんでいた。

河原での昼寝から覚めると、山のほうから雷の音がする。西の空には軽く茜が差し始めていた。良一の足はすっかり冷え切っていて、立つときに少しくすぐったさが残った。来た時と同じ道を辿る。

ぽつぽつと雨が降り始めた。次第にそれは強くなり、良一の体が豪雨に打たれた。地面の石はもう冷たくなっている。良一は笑いながら走った。明日東京に帰ることがなぜか名残惜しく感じられた。

「あら、びしょ濡れじゃない」

叔母の咲さんが言った。吃驚したのか目を見開いていたが、すぐにタオルをとってきてくれた。

「今日は最後の日だし豪華なお夕飯を用意してますからね」

彼女はそう言うと、台所へ戻っていく。居間では治郎が焼酎を飲みながら野球を見ていた。甲子園のハイライトのようで、治郎はスカウトマンさながらに選手の名前をメモしていた。

「お前も焼酎飲むか?旨いぞ」

治郎は良一に気付くと、赤ら顔でそんなことを口走った。十歳への提案としてはきつすぎるものだった。軽く無視して、良一も甲子園のハイライトを見始めた。彼が応援していた東京のチームは、大阪のチームに負けてしまったようだった。そのうち、宣言通り豪勢な夕食が始まり、良一は退屈な縁側のことなどすっかり忘れて、来年の盆も墓参りに来ようと決意を固めていた。

 良一がリュックから本を取り出す。それはポケットサイズの星の図鑑だった。なんとなく気になって図書館で手に取ったものだ。結局漫画ばかり読んでいたが、この時は叔父たちに自分を大きく見せたかったのかもしれない。気付くと適当にページをめくり始めた。

「そういえば良一、お前まだ夜に外に出てないよな?」

良一が読む本に気付いたのか、治郎がそう言った。

「あら、そうですね。良一君、ここは星がすっごく綺麗なのよ」

良一は興味をそそられた。星に関心はあまりなかったが、クラスメイトが長野に行ったときに見た星空のことを自慢げに何度も話していたから、如何ほどに美しいのかということについては気になっていた。興奮する良一を見て、治郎が笑った。

「よし、支度してこい。山のほうまで案内してやる。本当に綺麗だからな」

治郎が立ち上がった。酒をしこたま飲んだというのに、ふらついていないのが不思議だった。

「山? あなた、あまり無茶はしないでね。外は真っ暗だし、良一君はまだ小さいのよ」

「わぁってるよ」

ぶっきらぼうに答えた治郎の眼は輝いていた。山に連れて行こうとしていることが、良一の目からも明白である。

 薄手のパーカーをタンクトップの上に羽織って、良一は外に出た。治郎が手に持つ懐中電灯の明かりを頼りに、暗いあぜ道を進んでいく。驟雨が土を冷やしたのか、空気は昼とは打って変わってひんやりとしている。冴え冴えとした夜の静けさに、カエルの合唱がこだましていた。暗闇に眼が慣れてくると、少しずつ空の様子がわかってくる。遠い向こうに星々が瞬いていた。赤色の星もあれば、青白い星もある。ここまで多くの星を見ることは初めてで、良一はうっとりとしながら立ち止まっていた。

「良一、溜息つくのはまだ早いぞ。山に行ったらこれの百倍は綺麗だからな」

治郎が笑いながらそう言った。闇の中で、笑った時に剝き出る歯に懐中電灯の光が反射していた。

 歩き続けて二十分ほど経った頃だろうか、彼らは山の麓に辿り着いていた。鬱蒼と茂る樹々は、夜闇よりも更に暗い黒さを作っていた。時々風が吹いては、葉がさざめいて潮騒のような音を立てた。山に入ってからは、すぐだった。五分ほど歩くと、少し開けた場所に出る。どうしてかはわからないが、そこだけ山肌が禿げていて、田畑を見下ろすことができた。

「良一、見てみろ」

良一が見上げると、そこには星座が群れるようにしてひしめき合っていた。天の川がはっきりと見える。あまりの衝撃に、良一は数分瞬きもせずに、固まっていた。どこまでも続く漆黒の奥のきらめきは、一つ一つが確かに主役だった。

二.

良一が目を覚ましたのは九時過ぎだった。けたたましく鳴り響くはずの目覚ましは、ちょうど今朝電池が切れたらしい。授業が一限からあることを思い出して、大急ぎで支度を始める。授業は九時過ぎからのはずだから、朝食を抜けば間に合うだろう。寝ぐせだけ軽く直して寮のラウンジへ向かうと、同級生の恭が新聞とにらめっこしていた。足を組みながらコーヒーを飲む姿はそれなりに優雅だったが、爆発した寝ぐせのせいで台無しだった。

「おはよう。天文は一限からあるんだっけか」

「そうだよ、急いでいかなくちゃいけない」

「全く、天文なんて物好きだよな、お前も」

「哲学科に言われたくないよ」

良一の返事に、恭が小気味よく笑った。良一は速足でキャンパスへ歩いていく。頭の中では、懐かしい記憶が巡っていた。自分が天文学科を目指す目的にもなった、あの風景。久しく思い出していなかったが、再び鮮明な夢となって現れたようだった。ぎりぎり授業に間に合いそうだった。講堂へ走りながら向かっていく。ほかにも遅刻しそうな人がいるのか、良一と同じように走っている人間がキャンパスに何人かいた。月曜日の朝は怠惰で始まったようだった。

 講義はいつも通り終わり、良一は教室を後にした。いつもは図書館に籠って宿題をやるが、今日は恭にカフェで勉強をしないかと誘われていた。大学の無償貸し出しの自転車に乗って、河沿いの道を走っていく。錆びているのか、ペダルを踏むと情けない声を出した。目的のカフェは学生でぎっしりだった。何とかこちらに鷹揚に手を振る恭を見つけると、良一はオレンジジュースを注文する。コーヒーはあまり得意ではなかった。いつまでも味覚が子どものままであったから、あの夏に勧められた焼酎は今も飲めない。恭は分厚い哲学書とにらめっこしながら、がりがりとノートに何かを書き込んで思索にふけっていた。なぜ呼び出されたのかわからないが、恭はいつもこうであることを良一は知っているので、彼も物理学書を開いて授業の復習をし始める。

穏やかな秋の午後の時間は瞬く間に過ぎていった。三時を過ぎたあたりから学生の喧騒は静まり始めて、気づけば閉店時刻の五時が近づいていた。

「そろそろ出ようか」

恭の呼びかけで、良一は深い思索から浮上した。カフェの古いガラスに差し込む陽光が赤くなっている。彼らは支払いを済ませると、河沿いの道を歩いて寮へと戻った。自転車を押すのはまあまあ苦労が要り、良一は自転車を借りたことを少しだけ後悔した。恭は、朝からちっとも直っていない寝ぐせ頭で、下らない話を身振りを交えて語っていた。歴史上の遊説家のような自信に満ちた口ぶりは、話の内容に関係なく彼の話を面白くさせていた。

「そういえば、良一は何で天文を選んだの?」

突然恭が真面目な顔をして尋ねてくる。数秒前まで冗談を飛ばしていたから、思わず良一は面食らいながらも、今日の夢の話をした。

「へぇ、面白いね。ラクそうだからと哲学科を選んだ僕とはかけ離れた高尚さだ。それで、今はその叔父さんはどうしてるんだい?」

「うーん、どうだろう。あの盆以来、年賀状くらいでしか交流がないね」

「そうか。まぁ僕も叔父叔母となんてそんな関係だけどね」

河沿いの会話は、また下らない話に戻った。寮を目指して二人で歩いていく。カフェから寮までは、おそらく叔父の家からあの清流までの距離よりもかなり長いはずだ。歩幅が大きくなったからなのか、寮までの道程は清流までの道よりもずっと短く感じた。

 あの夢は、虫の知らせというやつだったのかもしれない。その晩、父親から電話がかかってきた。叔父が亡くなったらしい。週末、良一はあの村で葬式に出ることになった。

三.

 十歳以来の列車は、やはり少しだけ古くなっているように感じた。残暑が少しあり、汗ばむ額を軽くハンカチで拭う。駅はがらがらだった。十年の間に無人駅に代わっており、静謐とした駅舎の曇ったガラス窓に差し込む光は、どこか木漏れ日を連想させる。一緒に来た父親の表情は重かった。兄の早すぎる死は、彼に相当な衝撃を与えたようだった。叔母が軽トラで迎えに来ていた。助手席は一つしかないので、良一は荷台に乗る。稲はまだ収穫されていないようで、金色に輝く穂先が秋風にたなびくようにそよいでいた。叔父の遺体がある家が近付いてきた。遠くから見ると、子供のころよりもちっぽけに見える。

家には近所の人が集っていて、玄関の往来が激しい。叔父の陽気な性格は、近隣の人に好まれていたようだった。良一は風で乱れた前髪を雑に整えながら降車し、家に向き直る。十年の味はどんな味だろう、と思って空気を吸ってみる。良一には判断がつかないような味だった。隣に立つ彼の父親も、神妙な面持ちでたたずんでいた。父親は月日の味を知っているのかもしれない。この家の主がもういないことが、良一にはうまく理解できなかった。

遺体が安置されている和室は、閑静としていた。呼吸や擦れる音の一切しない、無機的な静寂が、確かに叔父がこの世にいないことを良一に知らせた。耳を澄ませれば、あの清流の流れさえも聞こえてくるような恐ろしい静けさだった。良一の父親が、手を合わせながら顔にかかる白い布を取り去る。治郎の顔は月のように白く透明で、生前の赤ら顔は想像すらも出来ないほどだった。

「心臓発作だったんです。夜に出ていったかと思えば、朝になるまで帰ってこなくて。田んぼ道で倒れていたんです」

良一の叔母が早口にそういった。ゆっくりと言いたくないのかもしれなかった。彼女の目じりにはうっすらと赤みがさし、生の証拠を刻んでいた。

 葬儀は滞りなく進行した。良一は祖父母がかなり前に亡くなっているから、葬式に参加するのは初めてだった。不幸があったとは思えないほどの豪勢な食事に、あの夏の夜を思い出し、叔父が死んだことを認識した。

 火葬場は車で十数分走って着く山の中にあった。草深い山道を行くと、突然広いアスファルトの広場と、長い鼠色の煙突がついた白亜の建物が現れる。車を待っていたのか、既に入口の方には、カラスのような黒々とした服に身を包んだ職員が、そろってお辞儀をした。掌を覆う純白の手袋だけが、黒くないものだった。火葬場には他の家族もいて、火葬を待ちながら団欒をしていた。年端のいかない子どもが、沈鬱とした瞳の親の隣で絵本を読んでとせがんでいる。

「おじいちゃんはお星様になったのよ」

見かねた母親がそんなことを教える。なぜだかそれで、子どもたちは納得してしまったようだった。良一たちは、治郎の遺族の部屋へと案内された。

 火葬が終わったと報告が入った。

「逸郎さん、骨を拾いに行きますよ」

「ええ、拾いに行きましょう」

良一の叔母の咲に返答した父親の声は弱弱しかった。六十半ばで斃れた兄の骨に直面するのが恐いのかもしれない。兄弟のいない良一には分からなかったが、恭が死んだときに彼の骨を拾うことを考えると、少し父親の震えの理由が理解できる気がした。まず良一の目に入ったのは頭蓋骨の大きな眼窩だった。人の好さそうな双眸は存在せず、こちらを見つめるような夜の闇がそこに広がっていた。仏の座の説明を火葬場の女性職員が実際に取り出しながらしていた。咲が泣き出した。霖雨のようなさめざめとした泣き声が、小さな部屋に反響した。良一はずっと眼窩を見つめていた。そのうち、咲は泣き止み、骨を取り始めた。骨壺に入れねばならない。良一は、なぜだか骨の一欠けらをばれないようにポケットに忍ばせてしまった。

 骨壺は叔父の家の仏壇に置かれた。折を見て、家の近くにある先祖代々の墓に入れるという。良一はずっと骨を持っていた。明日、良一は東京へ帰る。それまでに骨をどうするかを決める必要があった。

「どうすれば良いと思う?」

悩んだ良一は恭に相談した。それ以外の方策が思い浮かばなかったというほうが正しいだろう。良一は、常に飄々とした恭なら何か考えが浮かぶかもしれない、という無茶苦茶な論理の下で彼を頼った。

「どうすれば良いって言ってもなぁ、砕いてどっかに蒔けよ。叔父さんが生えてくるかもしれないよ」

結局、恭順が示したのはそんな提案だった。

「蒔く、ねぇ。とりあえず砕いてみるよ」

良一の頭に一つの案が浮かんで、電話を切った。恭の煩さが急に静かになり、遠くから鈴虫が鳴くのが聴こえてきた。秋の夜長は夕暮れを犠牲にしている。太陽はあっという間に沈んでゆき、稲穂が名残惜しそうに最後のきらめきを伴って揺れた。良一は、袋に叔父の指の骨を入れて、粉のようになるまで砕き始めた。

 夕飯の席では皆小食だった。父が焼酎を飲むが、口に合わないのかすぐに飲むのをやめてしまって、ビールを注ぎ始めた。良一のことなど忘れて治郎の思い出話に花を咲かせていた。もっと盆や正月に会いにくれば良かった、と父親はしきりに言った。良一は、少し出てくると言って家を出た。叔母も父も酔っているのか、あまり考えずに了承していた。

 玄関に置かれた懐中電灯を持って、夜の闇を切り開いていく。右ポケットの粉が、良一の心臓に合わせて揺れているのが不思議でたまらなかった。十年前に一度通った道なのに、良一は山への行き方を覚えていた。叔父が前を歩く姿がぼんやりと見えるようだった。叔父が倒れていたというあぜ道に差し掛かる。

「最期に星が見たかったんじゃないかなぁ」

誰に言うでもなく、良一は闇にそう吐いた。猫が誰にも見られず死ぬように、人間も自分の死が分かるのならば、叔父はせめて最期にあの場所で星空を見たかったのではないだろうか。良一の考えはぐるぐると夜の空気と混ざりながら回転していた。

 山道は十年前と変わらない姿でそこにあった。良一は息を切らしながら歩いていく。遠くで雉の鳴く声が聞こえる。雑踏のような木々の音が、良一の鼓動を速くした。骨はそれに合わせて律動している。コンパスのように良一を導いているノアかもしれない。あの場所へはあと少しだった。

 驚いたことに、もうあの土地は禿げていなかった。周りと同じような林が広がっている。山道が残っていたのが奇跡と思えるくらい、痕跡がなかった。良一は空を見上げる。枝が邪魔をして、星は見えなかった。ここに撒いても仕方ないか、良一は撒くことを諦めて、山を降りた。仕方がないので、彼はあぜ道を歩いていく。

 目的などなかったが、気が付くと彼は清流の河原にいた。辺りはよく見えないが、清流の円い音が涼し気に響いている。十年前の激しさがなくなったのは、石が削れたのか耳と河の距離が大きくなったからなのか。良一は闇の中の河をじっと見つめる。気付くと携帯を手に持っていた。

「恭、人って死んだらお星さまになる?」

「子どもに聞かれたのか? それが分かったら哲学なんて要らないだろ」

そう言って、恭は黙った。二人とも電話は切らなかった。夜の静寂だけが、彼らを繋いでいた。

 良一はポケットの袋をゆっくりと開いた。星の素が小さな煙を立てる。穏やかな水にそれを流した。さらさらと流れる粉を懐中電灯で照らすと、青白く光りながら瞬いた。

「恭、星になるのは確かだったみたいだ」

「そうか、まぁ天文学科がいうなら正しいのかもな」

二人はけらけらと笑った。星が流れていく。流れるほうを見つめると、山々の上に上る大きな星座たちが見えた。

 家へ戻ると、咲が慌てて駆けつけてきた。酔いが収まったのか、外出を了承していたことをすっかり忘れていた良一のことを心配していたようだ。

「ごめんなさい、星を観に行っていました」

それを聞いて、父親が笑った。叔父とは兄弟なのに全く似ていない顔をしているが、良一にはアルコールに負けて上気した顔をしている父が、叔父とそっくりに見えた。

「兄さんも星が大好きだったんだよ。山に秘密基地を持っていてね。今でも時々云っては自分で木を切っていたみたいだが」

「最近は、めっきり主人は行きませんでした。やっぱり限界であることを悟っていたのかしら」

聞けば、治郎は天文学者を目指していたが、長男だからと腹をくくって、この家を継いだらしい。良一の頭には、あの夜の興奮した治郎が映る。あの夏、自分がリュックに入れた星空の図鑑を誇りに思いながら、彼は照れ臭そうに右ポケットをこすった。

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星を流す quark @author1729

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