不完全な人間たち

水原 治

不完全な人間たち


     1


 昼時の時間を過ぎると、店の中は少し落ち着いた。

 カウンターの中で、ぼんやり物思いにふけりながら、磨き上げたばかりのパン皿を並べていると、客席を片付けてきた綾がそばにやってきて、そっと私に耳打ちした。

「……ねえ瑠璃、今日も来てるよ」

 私は手を止めると、顔を向けた。

 コの字型になっている木製カウンターの隅で、一人の男性が難しい顔をして、ノートパソコンに向かっている。

 同僚の綾は、こういう時、物怖じというか、そういうことを知らない。好意なら好意、嫌悪感なら嫌悪感、といったものを、直接現すのだ。

 この時も綾は、そのお客の男性に向かって、露骨に興味半分、違和感半分、といった、そんな視線を投げかけていた。

「……ねえ」

「何?」

「あの人、今日も、持ってるかな?」

 綾はさも、心配してみせるようにそう言った。

私はパン皿を綺麗に並べ終えると、カウンターの上を濡れ布巾で拭き始めた。

「さあ」

「……こないだも瑠璃に言われて、気をつけてあの人見てたらさ。本当に持ってたんだもん。びっくりした。ありえないよ。こないだなんか、パソコンの上にちょこんと乗ってたよ」

 声の大きな綾は、まるで遠慮というものもない。私は黙って苦笑いしながら、カウンター拭きを続けた。でも綾はまだ、何か奇妙な動物でも見るように、じっとその男性の顔を眺めている。

 彼は、うちのカフェの常連客だ。週の二、三日は店に来て、必ず隅のその席に座る。

もし、運悪く空いていなければ、仕方なさそうに別の席に座るが、どうも落ち着かない様子で、すぐにパソコンを閉じるとそのまま立ち去ってしまう。

 この日はギンガムチェックの青色のシャツに、ベージュのジャケットを羽織って、綺麗な茶の革靴を履いていた。服装はいつも小綺麗にしていて、なかなかおしゃれなのである。

 髪型は決まって、白髪の混じったモジャモジャとした天然パーマを、ただ無造作にさせているだけ。そして始終、頭を指先でポリポリと掻いている。

 綾はトンデモな人だと、いつも決めつけるようにそう言っていた。私にとっては、それは別にどっちだって構わなかったがーー彼のことは、そんなに嫌いではなかったのだ。

 綾の言う、そのことに私が気がついたのは、つい先日のことだ。その時は、特にトラブルになるということもなかった。

 男性はさっきから、ずっと眉をしかめて、顎に手をやり、パソコンの前でしきりに何か考え込んでいる様子でいる。私はカウンターを拭き終えた布巾を折りたたみながら、彼のその様子を何となく、ぼんやりと眺めていた。



 それが起きたのはーー通りに面した窓から、オレンジ色の夕日が差し込み始めた、夕方ごろのことだ。

 私は客席に行くと、カップやグラスを片付けながら、何気なくいまだカウンターの隅に陣取っていた、その男性の方を見ていた。

 すると彼はーーやがて回りの様子をそっとうかがうように見渡し始めた。それから着ていたジャケットのポケットの中に、そっと手を入れた。そして静かに手を引き出すと、ゆっくりと手のひらを広げた。

「……」

 その上には一匹の、小さなが乗っていた。

 彼はじっと、手のひらの上の青蛙を見つめると、静かにパソコンのキーボードの脇のところに置いた。

「……あっ」

途端に綾は、凍りついたようになった。

「ちょっと瑠璃、見て」

 私の隣に駆け寄ってき、小声でそう言った。発光するモニターの白色の光を浴びて、モスグリーンのような色になった、パソコンの上の小さな青蛙はーーじっとそこでうずくまるようにしている。私の目は、その生き物に釘付けになった。瞬間、顔を上げた彼と、私の目が合った。


     2


 夕方の四時を少し回ったころ、パソコンの電源を落とし、ようやく男性が帰り支度を始めた。

よく使い込んでいそうな黒革のカバンの中にパソコンを大事そうにしまい込むと、彼は立ち上がった。

「瑠璃、おかえりだよ」

 綾が私にそうささやいた。

 むろんこれから彼が、いったいどこに向かうのかなどは、私は何一つ知らない。知るはずがない。そもそも私は、二言三言くらいしか、今までに彼と言葉を交わしたことがないのだ。

綾はひたすら怪訝けげんそうな顔で、彼の姿をじっと目で追っている。

「ありがとうございました」

 男性に、そう声をかけた。綾も続けて、型どおり口にする。

彼が私たちの前を通り過ぎる時、その左手の薬指に、綺麗な指輪が光っているのが、チラリと見えた。

「……」

 扉を開け、外に出ていく姿を、私と綾は見送った。

「ねえ、瑠璃」

 綾が、耳元に顔を寄せ、さらにヒソヒソ声で言った。

「何?」

「あの人、今日指輪してた。私今まで、全然知らなかったーー」

 淡い夕靄の中、男性の去っていった後の店の前の歩道を、ライトをつけた自転車に乗った人が通り過ぎていく。他にも帰宅する人々や子供などが、後を次々と続いていく。

「……しっかし、あんな変わり者でもさあ、結婚とかできるんだねえ。世の中間違ってるよ。そう思わない?」

 綾は一人、いきどおるように、腕組みをするとそう口にした。

「でも……どうしようね。困ったな」

 綾がそう、首を傾げて呟いた。何が? と聞いた、私のその質問には答えずに、ただ小さく咳払いをする。

 私は何か、嫌な予感がした。

 新たな女性二人組のお客が扉を開け、店の中に入ってきた。いらっしゃいませ、と綾は頭を切り替えるように言うと、レジに向かう。私は軽く口を開けたまま、綾のその後ろ姿を目で追っていた。



 タイムカードを押して店を出ると、さっきまで真っ赤に夕焼けていた空は、いつしかビロードを敷き詰めたような、そんな濃い薄紫色に変わっていた。

 日よけのあるテラスから裏の路地に入ると、そこで一緒に仕事をあがった綾が来るのを待つ。

 その間、今日のあの男性の様子と、ジャケットのポケットから取り出した、一匹の小さな青蛙のことを、私は繰り返し思い返していた。

 それは、美しいーーほんとうに、まるで、一個の貴重な宝石のようにみずみずしいーーそんな鮮やかな緑色をしていたのだ。

「ごめん、お待たせーー」

 綾が店の方から小走りで駆け寄ってきた。カバンを肩に掛け直した彼女は、仕事から解放された後なのにらしくもなく、妙に真剣な顔をしている。

 私たちは薄闇の中を、黙って並んで歩き出した。

「……ねえ。ちょっとさあ、瑠璃にお願いがあるの」

 綾が唐突に言った。

「お願い?」

「うん」

「何、お願いって」

 さっきの嫌な予感が、ふいに蘇る。綾は歩きながら一度店の方を振り返ると、また続けた。

「悪いんだけどさ……今度また、今日のあの人来たらーーカエルのこと、少し注意しといて欲しいんだ」

「えっ?」

 途端に私は、そう大声を上げた。

 綾は、私の顔をじっと見ている。

「ね?」

「……ちょっ、私が?」

「うん、頼むわ」

 綾はパンプスの音を立てて歩きながら、私の顔をじっと覗き込むようにしている。

「だってさあ、そのうちきっと、他のお客さんに迷惑がかかるに決まってるじゃない?」

「だったら綾が、自分でそう言えばいいじゃない」

「そりゃだって……瑠璃の方が、よくあの人と喋ってるしさ。私今まで、一言も口聞いたことないし」

「私だって、そんなに喋ってないよ」

 綾という人はでも、こういうとき、今までの経験上、性格的に決して譲ろうとはしない。彼女は一度言い出したら、決して聞かないタチなのである。

そういう人って、いるでしょう?

 私は諦めて、肩を落とした。

「いい? お願いね? だって店長がいない日は、私がその代理なんだもん。あんなの放置してるの、バレたらヤバい」

「それはまあ……」

 私は男性が取り出した蛙の、美しいあの緑色を、しきりに思い返していた。いまだにどこか納得のいかないような、そんな思いでいると、じゃあよろしくね、と綾は気軽に切り上げるように言った。

 それから突然、

「あ、そうだ瑠璃、これからご飯行かない?」

「ご飯?」

「いい感じのイタリアンが、最近駅近にできたんだよ。知ってる? おごってあげる」

 私は大きくため息をつくと、呆れた顔で綾を見た。綾はただ、ニヤニヤと妙な顔で笑っている。

返事ともつかないような、そんな曖昧な答えをムニャムニャと返すと、綾は私の手を取り無理やり引っ張って、自分からどんどんと先に歩き出した。


     3

 

 気だるいような、そんな平日の、午後の時間。

カウンターの中で、ずっと洗い物をしていると、ともすると私には、時間の流れが普段よりも、ひどくゆっくりなものに思えてくることがある。

 この時もそうだった。やってもやっても、目の前の洗い物が終わらないような、そんな気がしてくるのだ。頭の中では、色々なことがらや何やらが、次から次へと始終渦巻いて、まるでドーッと押し寄せてくるようだ。

 私は大きくため息をつくと、きりのいいところで洗い物を終え、水道の水を止めた。タオルで手を拭って、店の中を見回す。

 いわゆるアイドルタイムというやつでーー客の姿はまばらだった。店内には綾の勝手な趣味で大橋トリオの曲がうっすらと、BGMで流れている。

 その綾はさっきから、店の中に姿が見えなかった。裏の倉庫に、何かものでも取りに行っているのかもしれなかった。

 ふと視線を、カウンターの一番隅に向ける。と、そこでは昼過ぎごろから、いつものように例のあの男性が座って、一人熱心にパソコンに向かっていた。

「……」

 彼は普段通り真剣な顔で、カタカタとマックのキーボードを叩き続けている。

 しかしよくもまあ……毎度毎度判で押したように、そんなふうにできるものだ。

心からそう思う。いったいそうやって何をしているのか、私なんかにはまるで見当もつかないんだけど。つい意味もなく、感心してしまう。

 彼の様子を、そんな風にしばらくの間ぼんやりと眺めていると、ふいに綾にやれ、と言われたことを思い出していた。

「……すみません」 

 そのとき突然、彼が顔を上げ、私に向かって声をかけた。意表を突かれた私はそれに気づくと、彼と目を合わせて、

「はい?」

「……コーヒーのおかわりを、いただけますか?」

 彼はハッキリとした口調でそう言った。そして空になっていたコーヒーカップを、指で少し押して、こちらに差し出す。

 かしこまりました、と答えると、彼は微笑んだ。彼のもとに行くと、コーヒーカップを下げる。

 その距離まで近寄った瞬間、彼の方から、何かミントのようないい香りがした。いや、そんな気がしただけかもしれない。

 カウンターの奥で、新しいカップにコーヒーを注いで持っていくと、パソコンの前に置いた。

「……お待たせしました」

 彼は顔を上げた。

「どうもありがとう」

 湯気の上がるその新しいコーヒーに、彼は一口、美味しそうに口をつけて啜った。そして軽く味わうようにすると、うん、と一言、うなずきながら言って、

「やはり、ここのコーヒーは美味しいですね」

 彼は、私の顔を見た。まあ、まんざらお世辞でもない様子である。

「……どうもありがとうございます」

 なんとか営業用の笑顔を作って答えると、彼は満足げにまたパソコンに向かって、同じようにキーボードを打ち始めた。

 エプロンの裾を直して両手を組み、じっと彼を見つめていた。と、自然と目が、彼が着ているジャケットの、例のポケットのあたりにいってしまう。

 それは、確かに、一人の店側の人間として言うのならばーーもちろんこの男性の、店内でのああいった行動は、困ってしまうに決まっている。

綾が言うように、いつ他のお客様に迷惑がかかるかわからないからだ。

彼がどのような人物で、どのような仕事をしていてーーそんなことは、一切わからないがーーいかんせん、彼が常識がなさすぎるのは、まあ確かなことだろうとは思う。

綾が心配しているのは、要はそういうことだった。

 私は鼻をすすって、また少し考え、迷ったあとでーー結局一歩、彼の方に歩み寄った。

「あの」

 そう、小さく声をかけると、彼は顔を上げた。

「はい」

 彼は答えると、また私に向かって、ニコリと笑いかける。すると途端に、彼に注意する気持ちがヘナヘナと萎えてしまった。

 でも、声をかけてしまった以上、きっと何か言わねばならない。私はとっさに考えた。

「それは……」

「えっ?」

「あの、それは、どんなお仕事をされてるんですか?」

 彼は不意を突かれたように、私を見た。

「今ですか?」

「ええ」

 彼と目を合わせる。

「……いつも本当に、熱心にお仕事されているな、と思って」

 すると彼も、黙って私を見つめ返していた。

  それは別に、お世辞でもなんでもなかった。確かに私は、普段からそう思っていた。彼は何故か、少し驚いたような様子でいると、それから苦笑いのような笑みを浮かべた。

「そう、見えますか」

「えっ? ええ……」

 少し意外な感じがした。

「違うんですか?」

 彼は腕組みをし、苦笑いを続けている。そのとき時計がチラリと見えた。なんとパテックフィリップだ。時計にそんなに詳しいわけじゃないけど、すごく高い、ってことだけは知っている。

「……うーん。だと、いいんですがね。今日は大したことは全然していないんですよ」

「そうなんですか」

「ええ。何人かの知り合いに、メールの返事をいくつかしているくらいですから」

 彼は頬杖をつくと、パソコンの画面を黙ってじっと見つめていた。その光が、彼のかけている眼鏡に反射して、白く輝いている。

 私は大きく息を吸い込むと吐き出して、もう一度店の中を見渡してみた。

何か妙にような、そんな感じがする。綾の姿はまだ見えなかったし、アイドルタイム的な空間でもあり、閑散としたものだ。

 私は彼の着ている紺のジャケットの、ポケットのあたりにそっと目をやった。目を凝らして見ると、蛙がそこに入っているようにも見えてくるしーーまた、そうでもないようにも見える。

「あの」

 私がもう一度言うと、彼は顔を上げた。

「はい」

 じっと、彼の顔を見た。でもなぜか、その時はもう、不思議とさっきみたいな気後れは、いっさい感じなくなっていた。

私は小さく咳払いをすると、

「その、ジャケットのポケットの、蛙のことなんですが」

 と、言った。

 なるべくフラットに聞こえるように、口にしたつもりだ。でも確かに、少し言い方がキツくなってしまったのかもしれない。

いまだに悔やんでも悔やみきれない。こういうのって、本当に難しい。でも、自分は決して、彼を責めるつもりでそう言ったわけではなかったのだ。

「えっ? ああーー」

 彼は頬杖をやめると、苦笑いをしてぽりぽりと頭を掻いた。

 途端に何かしおしおとした様子で、彼は小さく縮こまると、申し訳なさそうに肩をすくめた。もちろんただ、私の前ではそんなふりをして見せただけなのかもしれない。

でも、私はそれを見て、途端にまた後悔するような、そんな気分になったのだ。

 しばらくの間、互いに沈黙が流れた。彼は私から目を離すと、キーボードの上で両手を組み、考えごとをするようにしている。私はふいに喉元に湧き出てきた唾を飲み込んだ。

 と、急に彼の方から、口を開いた。

「あなたは……」

「えっ?」

「蛙が、お好きなんですか?」

 慌てて、彼の顔を見た。

「え、私が、ですか?」

「ええ」

「……」

 その場で、慌てて考えた。だって、まるで思ってもない質問だったから。彼は妙に真剣な顔で、こちらをじっと眺めたままでいる。

 さて、どうなんだろう。

 私は……あの蛙が好きなんだろうか?

 もう一度、首を傾げる。

「さあ、好きかどうかは……」

 言いながらも、彼の妙に執拗な、そんな強い視線を感じ続けていた。

「でも……きっと嫌いじゃないです」

「そうですか」

「ええ。お客様の飼っている、あの蛙もーー」

 何の気なく(本当に!)そう答えると、途端に彼は、下を向いてクスクスと笑いだした。

「……何か?」

 彼はそのまま笑い続けていた。

「別に、飼っているわけじゃありませんよ」

「……」

 私はそのとき、たぶんひどく顔を赤くさせただろうと思う。と同時に、少しだけムッともした。

 もう一度、気まずいような沈黙が流れた。その沈黙は、どうにも耐え難いものだった。でも彼は、ぜんぜん平気な、そんなきわめて平然とした、すました顔をして、柔らかく微笑むと、また一口コーヒーを啜る。

 もしこれが、私じゃなく、例えば綾だったならばーーそんな彼の態度に、きっとたけるように怒り出してしまったことだろう。

 と、彼はふいにかけていた眼鏡を外した。眼鏡を外した彼の顔を見たのは、この時が初めてだった。

 少し丸っこくて、キラキラと濁りなく輝くような目が、非常に印象的だった。眉の生え方も、なかなか良いものだ。

 着ていた黒のカットソーの袖が下りてきたのを捲り上げると、私は喉元に湧き出てきた唾を飲み込んで、つけていた麻のエプロンの前で両手を組んだ。手は軽く汗をかいている。

「でも……確かにそうですね。お店の迷惑になりますね」

 彼が言った。私はその顔を、じっと見つめた。

「逃げたりしないよう、あるいは人目に触れないようにしていてくだされば、問題はないと思うのですが。ただ、今までに何度か、カウンターの上に出されていましたよね」

 彼は何度も頷くようにした。

「ええ、ええ」

「それですとやはり……」

「はい。わかります。おっしゃる通りです」

「うちは、女性のお客様も多く見えますし、そういうのを不快に思う方も、きっとみえると思いますので」

 流れるように注意のセリフを口にしながらも、私はどこか、何かものをーーしきりに感じていた。これは、なにか。それは、うまく言葉に出来ない。それまでに感じたことのない、奇妙な違和感のようなものだ。

何て言えば、いいのかな。

 彼から視線を外すと、私は目を細め、店の中を見渡した。

 外はよく晴れているようで、日の光が店の前の道路に当たって、白っぽく輝いていた。そこを繰り返し、右から左へと、車が走りすぎて行く。

たぶん、きっとこれまで、何百回もこの場所から見てきた、そんな一つの風景だと思う。

 そしてそれはたぶん、これからも永遠にーー私が今後、子供を産んでも、その子供が大きくなっても、私がおばあちゃんになっても、そして私が死んでもーーきっとずっと、続いていくものなのだろう。

 私は軽いめまいのようなーーそんなものを覚える。

 たまらず目を戻すと、彼のジャケットのポケットのあたりを、もう一度眺め見た。そこには、多少の膨らみがあった。

彼は、ハッキリとは答えなかったが、やはりそこには、何かがのだ。

 彼を見ると、何か妙に確信に満ちたような目で、じっと私の顔を見ていた。さっきまでのシュンとした感じとは、なぜかまるで違っている。

私はつい、彼に聞いてみたくなった。

「あの」

 彼は首をかしげた。

「はい」

「なぜいつも、ポケットに蛙を入れているんですか?」

「……」

 彼は私から目を離すと、軽く俯いて考えた。

「特に蛙、って決めている訳ではないんですよ」

「えっ?」

 私は目を丸くさせた。

「そうなんですか?」

「ええ。たまたまその時、蛙だった、ってだけです」

 ふたたび湧き出てきた唾を飲み込んだ。

「じゃあ……」

「時にはバッタだったり、芋虫だったりもします。歩いている時に、目についたものです」

「……」

「しかし東京も、なかなか捨てたものではないですね。私は東海地方の、岐阜の山奥の出身なので、ずいぶんとバカにしていましたが……よく観察すると、実にさまざまな生き物たちがいますよ」

「……」

 しばらく、呆れてものが言えなかった。きっと軽く、口を開けてもいただろう。

「あの」

「もちろん、殺したりはしませんよ。あとで必ず、逃してやります」

 そのとき、コーヒー豆の入った袋を倉庫から運んできた綾が、店内に戻ってきていた。カウンターに戻ろうとし、向かい合って話をしている、私と男性に気がついたのだ。

綾がそのまま私たちの様子を、後ろからじっと眺めていたことを、綾からそう聞かされるまで、私はまったく知らないでいた。

 もう一度、彼のポケットのあたりをまじまじと見る。と、なぜかさっきよりも、その膨らみが大きくなったように見える。

 ならば今日はそこに、いったい何が入っているというのだろう。

「じゃあ、なぜ」

 私は気を落ち着かせると言った。

「じゃあなぜ、そんな生き物を?」

「……さあ、なぜでしょうか」

 彼は肩をすくめると、そうはぐらかすように答えた。

 その後、蛙のような生き物を店内に持ち込むのは、どうか遠慮してほしい、と改めて言うと、彼はわかりました、と素直に答えた。特に揉めるでもなかった。

 でも彼はその間、確かに全然悪びれてはいなかった。子供が自分のいたずらを注意されても平然としている、そんな感じ。私はありがとうございます、とお定まりにも言いながら、何か片のつかないような、そんな変な感覚にとりつかれていた。

 

 

 以来、彼はぱったりと、うちの店に来なくなった。

当然と言えば、当然かもしれない。

 そんな表情をしていたのかどうかはわからないが、ある時綾が、私に向かってこんなことを言った。

「なに瑠璃、あの人に本当にカエルのこと話してくれたの?」

 これには、私は久しぶりに腹を立てた。いったいどういうことなんだ、と、つい詰め寄ってしまった。

「だってあの人と、いつも話がしたそうだったからさ。きっかけになるかと思って」

 私は、呆れてものも言えなかった。綾というのは、実にこういう人なのだ。

 呆然とした私を尻目に、綾は平然とした顔で、ダンボール箱から紙ナプキンの入った袋を取り出しながら、

「でも、ありがとう。勇気出して言ってくれてよかったよ、これでホッとした」

「……」

 黙り込んだままでいると、綾は機嫌良さげに、紙ナプキンをお盆に乗せると店内の補充をしに、さっさとカウンターから出て行った。私は綾の後ろ姿を目で追いながら、それ以上何もいうことが出来なかった。


     4


 もしかしたら、これから話すことは、余計なことかもしれない。でも、一応付け足しておく。

 私には、理由もなく心がざわついてしょうがないようなとき、昔から本屋に行くクセがあるのだ。

 月に一度は、そんな日がある気がする。いや、もっとかな。

 それは別に、図書館でもよい。そういうのって、人によってさまざまな方法があるのだと思うけれどーー私の場合、とにかく綺麗な本棚に、整然とたくさんの本がズラッと並んでいる場所に行くと、なぜかスッと心が落ち着くのだ。

 ことさらひどい、そんな状態だった、あるよく晴れた休日に、私は一人でふらりと渋谷に出た。

 スクランブル交差点をたくさんの人や車が、まるでうごめくように行き交っていた。相変わらずすごい人出だった。別に人混みにまみれるのは好きでもなんでもない私は、気持ち早足で道玄坂下から文化村通りを上がっていくと、東急百貨店の中の丸善ジュンク堂に、まっすぐに向かった。

 この本屋さんが、私の行きつけなのだ。とにかく、それは大きくなければいけない。

 ファッション雑誌やら、好きな小説の文庫やらを、ぶらぶらと探しながら歩き回っていると、ふと新書コーナーを通りがかった。と、そのとき棚ぎわに平積みになっていた、ある本が目に入った。

 私は何気なく、その真新しい、一冊の新刊の新書を取り上げた。


 120%!!


 古市生物学シリーズ第二弾! などと書かれた手書きのPOPが、そのコーナーには添えられてあった。

 本のタイトルは、「不完全な人間たち」。著者の名は、古市寛、とあった。分子生物学者、という肩書きがついている。

 どうやら絶賛売り出し中の本らしく、山のように積まれてあった本のオビには、腕組みをし、にこやかに笑っている一人の男性の写真が載っている。

 私は目を細めて、写真をじっと眺め見た。どこかで見たことのある顔だった。

「……」

 その本の著者は、うちのカフェのカウンターの隅にいつも座って、ポケットに蛙を忍ばせていた、あの男性だったのである。

 驚いた私は、つい急いでスマホを取り出して、綾にラインを送りそうになってしまった。

なんとか踏みとどまって心を落ち着かせると、手にした本のページをゆっくりとめくっていった。


 ……120!!


 それほど難解な内容でもなさそうだったし、これならきっと、自分にも読めるだろうと思えた。その本を持ったまま、しばらくそこに立ち尽くしていた。

 でも、私は結局、その本を元どおり、平積みの一番上に戻した。



 その後も古市寛さんは、三軒茶屋のうちのカフェに来ることはない。

 綾はずっと心配そうにしていたが、やがてそれを確信した様子で、せいせいとした顔をしていた。そして瑠璃のおかげだ、と繰り返し言った。

 カウンターのいつものあの席に腰を下ろし、ノートパソコンに向かう彼を、今でもふいに思い出すことがある。私がコーヒーを出すと、彼はいつも美味しそうに、それを啜った。

 客足の遠のく、けだるいような午後の時間……一人めまいを覚えながら、えんえんと私の繰り広げる妄想の中でも、いつも古市さんは、仕立てのいいジャケットを羽織っている。

私はせめて、その妄想の中では、ジャケットのポケットに蛙が入っているか、なんてことはもう聞かなかった。

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不完全な人間たち 水原 治 @osamumizuhara

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