第9話 王国暦270年5月14日 彼の正体

 エドガー?思わずセシルが彼を見た。

 戦場でのざんばら髪に無精ひげ、革鎧を着て大剣を振り回し敵陣を切り裂いた姿とは似ても似つかない……貴族の武人の姿だ。


「僻地の出故、礼節に欠くこともありましょう。そこはご容赦いただきたく」

「うむ、苦しゅうない……構わん」


 東部訛りの混ざった挨拶に、王が満足げに言う。

 古今無双の武威に加えてまさに歌劇にでも出るような美丈夫だ。

 自分の旗下に優れた人士がいること、それは万金にも勝るものだ。王にとってこれよりの慶事はない。


「いずこの出か?」

「トゥーレーンの出に御座います陛下」


 トゥーレーンは王国東部、アウグスト・オレアス東部辺境領の中心都市だ。


「トゥーレーンか……それは遠くから参ったものよの。仕官を求めて参ったのか?」


 王の問いに彼が考え込むように沈黙した。


「で、何処で鍛えた?冒険者か?傭兵か?師は誰じゃ?」


「剣は父から学びました」

「ほう、父上か。其方ほどの武人の父ならば、余程名のある武人で有ろうな」


 皆が彼の答えを待つが、彼は応えようとしなかった。静寂が広間に降りる。

 不可思議な間があって、貴族の列からあがった小さな囁き声がその奇妙な沈黙を破った


「……あれは?」

「いや……まさか」

「見間違いではないのか?」


「白狼?」

「アウグスト・オレアスの……まさか」


 誰かの声に広間がざわついた


「いや……私は確かに見た。間違いない。あれはアウグスト・オレアスの白狼だ」



「そんなはずはない」

「なぜここに?」


 広間にざわめきが波のように走った。

 アウグスト・オレアスの白狼。ジェヴァーデンの守護者。

 その名前はセシルも知っていた。というより知らない者はいないだろう。


 アウグスト・オレアスは、鬼の領域ともいわれる隣国ゲルムラントとの境界。

 国境の要であるアウグスト・オレアス東部辺境領は、その地を30年近く任された辺境伯ダヴィド・ド・ヴィリエが治める土地だ。


 辺境伯は国境の守りに当たるものであり、国防の要だ。

 都から離れ高い独立性を持つがゆえに、辺境伯には王国への忠誠心は勿論のこと、戦場での指揮能力、辺境領を治める統治能力も求められる。

 忠義、文武のすべてを備えた貴族にしか務まらない。


 ヴィリエ辺境伯は忠義に優れた謹厳実直な武人であり、公正な太守としても名高い。

 このフォンテーヌ王国が東からの侵略におびえずに済むのは、辺境伯である彼がアウグスト・オレアスを完璧に統治し守りを固めているからだ。


 その息子はそれぞれ優れた武人で、父と共に戦っており、その武名はここ王都ランコルトにも轟いていた。

 それぞれが母譲りの美丈夫であり、長男は政務に優れた文人、次男は武人であり優れた軍師と言われている。


 そして、三男はアウグスト・オレアスの白狼の二つ名を持つ戦士。

 その名を一躍有名にしたのは、二年前のゲルムラントとの会戦、ジェヴァーデンの戦いだ。

 転移の儀式魔法による奇襲を受け突破されかけたジェヴァーデン城の東門をたった一人で守り抜き、絶対的不利の戦況を一変させた剣士。 


 獣憑きライカーンスロープと言う特殊な体質で人間をはるかに超えた身体能力を発揮し、身の丈ほどもある大剣を振り回し敵の軍勢を切り裂いたという。

 その活躍は歌劇オペラとなりランコルトの大劇場で上演された。セシルも見に行ったのだが。 


 言われてみればあの戦いはまさにその通りではあるが……気付くはずはない。

 というのは、歌劇オペラは大抵は大袈裟に脚色される。歌劇オペラそのままの人などいない。


 そして、あの戦いの時の彼の姿は美丈夫とは程遠かった。

 今はまさに歌劇オペラから飛び出してきたのか、というほどであるが。


 楽し気な笑みを浮かべていた王と、田舎者を蔑むような眼をしていた王妃の表情が真剣なものに変わる。


「相違ないか?」

「……相違ありません。辺境伯ダヴィド・ド・ヴィリエが三男、エドガルド・ヴォン・ヴィリエ」


 エドガーが名乗ると広間に大きなざわめきが走った。 


「なぜそなたが都に?」

「……父の命に御座います。陛下。

恥ずかしながら私には剣しか取り柄がありませんので、家を離れ自分の力で功を立て、見分を広めよとのことでした」


 彼からすれば自分の正体が明らかになることは余り本意ではなかった。渋々と言う感じでエドガーが言う。

 僅かに広間に囁き声が流れた。


「今どき武者修行とは……ヴィリエ辺境伯も勝手が過ぎる」

「いや、彼らしいというべきであろう、困ったものだが」

「古き武人の美意識よな」


 勝手気ままな辺境伯の行為を咎めるものと、いかにも彼らしいと困惑しつつも肯定的に捉えるもの、武人たるものそうでなくてはならぬ、という武人の古い規範を称えるもの、それぞれの声が混ざる。


「エドガルド殿。アウグスト・オレアスの辺境伯の子ならば、それに値する地位を用意せねば我が王家の恥となります」


 王妃が取り繕うように声を発して宰相の方を向いた。


「良きように取り計らいなさい、宰相」


 王妃が言って、宰相が一礼する。 


「その通りですな……まずは正騎士と百人隊長など如何でしょうか」


 宰相が応じる。百人隊長は、百人の兵を率いる騎士の地位だ。

 若く将来有望な騎士がつくことが多い。


「それは良い。武名の誉れ高きエドガー殿には相応しいと言えます」

死姫ラ・モルテの旗下に付けておくなど宝の持ち腐れでありましょうな」

「むしろつまらぬ戦で万が一のことがあっては困ります。ヴィリエ伯に顔向けできぬ」

「エドガー殿、今後はこのような軽挙は慎まれるべきですぞ」


 先ほど彼の姿をせせら笑った貴族たちが阿るように言葉をつなぐ。


「いえ、むしろ王宮の近衛騎士が良いでしょう。

このような武人が守りにつけば陛下のご息女、我が娘エリザベートも安心できますわ。大切な陛下のお子ですからね

エドガー殿も王の御傍にお仕え出来て名誉のはず」


 王妃が勝ち誇るように言った。

 エリザベートは皇帝の愛娘であり、王妃の娘だ。牡丹を思わせる華やかな雰囲気と美しさ、血にまみれた自分とは違う……セシルは思った。

 

 そう、それは分かっている。

 それでも、小さくセシルの胸が痛んだ。

 

 でも、彼とは正式に主従の契りを結んだわけではない。

 それに自分は彼に与えられるものはない。地位も金もなにも。


 いかなる気紛れかわからないが、彼はたまたま戦列に加わってくれただけだ。

 そもそも籠の鳥と野を駆ける白狼では釣り合わない


 それにいつものことだ。

 時折、自分の旗下にも冒険者あがりの優れた剣士が仕官してくれたこともある。

 しかし戦功を立てればいつも横やりが入って引き抜かれていった。


 勝ち戦の論功行賞でも冷遇される自分の部隊。死姫ラ・モルテの旗下に好んでいるものなどいない。

 高い地位が保証され他の貴族に乞われれば誰だってそっちに行くだろう。


 誰もがすべていなくなった。

 いつものことだ。溢れそうになる涙を唇を噛んでこらえる。


「では、エドガルド。追って正式に任官の沙汰を出します。しばらくは宮廷に……」

「いえ、僭越ながら」


 王妃の言葉を遮るようにエドガーが言葉を発した。

 貴人の言葉を遮る、これは重大な礼節違反だ。広間がざわつく。


「王妃様、その必要はございませぬ」



 驚いたようなささやき声が波のように広間に走って、エドガーの言葉を待つように静寂が戻った。


「お心遣いありがたき幸せ。しかし我が望みは戦場での武功。近衛騎士のような閑職は謹んで辞退いたします

セシル姫にお仕えし戦場で部功を立てるが望みです」


 はっきりした口調でエドガーが言った。真っ向からの拒絶に王妃の顔の戸惑ったような表情が浮かぶ。


「よく聞こえませんでしたね……もう一度申してみなさい」

「父は王陛下に剣を捧げました。武人たるもの剣をささげた主をみだりに変えることはまかりならぬと父と兄より言われております。

わが剣はセシル姫に既にお捧げいたしました。変更はありません」


「私の言葉が聞けぬというのですか?」

「申しあげたとおりに御座います、王妃様」


 静かだが強い意志を感じる口調でエドガーが王妃の言葉を再び拒絶した。

 王妃が今度は露骨に不快そうな表情を浮かべる。静厳たる謁見の間に相応しくない大きなどよめきが上がった。


「もう一度聞きますよ、エドガルド……よく考えて答えなさい」


 王妃が怒りを抑え込んだ風の震える口調で言う。


「私は貴方の為を思って貴方に相応しい官位を授けようと言っています。王陛下もそのようにお望みでしょう。

それを聞けぬと申すのは、どういう意味であるか分かっていますか?」


 威圧するような重い口調で王妃が言って、広間に水を打ったように静かになった。

 広間にいる百官が息を詰めてエドガーの答えを待った。緊張に耐えかねたように誰かが小さく咳払いをする。

 遠くから鳥の小さな声が聞こえた。


 とはいえ……誰もが同じことを思った。

 アウグスト・オレアスの白狼といえども、所詮は都から遠く離れた田舎の武人だ。宮廷のことなど知るはずもない、王妃殿下に盾突く恐ろしさも分かってはいなかった。


 だが、今の言葉で察しただろう。セシル姫に剣を捧げると先ほどは言ったが、彼は考えを改め王妃の意向に従う。

 100人がいれば100人がそうする。当然のことだ。

 忠義、誠実、それらの美徳は美しい。だがそれは殆ど失われたからこそ希少で気高く美しく見えるのだ。

 だが。


「武人に二言はありません。我が主はセシル姫のみ」

 

 貴族たちの予測に反して彼の口から発せられたのは再度の明確な拒絶だった。

 同時に謁見の間にその日一番のどよめきの声があがった。


「素晴らしい、武人たるものかくあるべし。忠義の士だ」

「いや、王妃様に無礼であろうが!」

「なんと愚かな……」

「栄達の道を捨てるとは……正気とは思えん」


 誰も礼節を忘れたように隣のものと言葉を交わしあう。

 様々な声が混ざり合って渦のような声が広間に満ちた。

 静謐であるべき謁見の間がこれほど騒然としたのは、恐らく歴史上初めての事だろう。



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