妖血の禍祓士は皇帝陛下の毒婦となりて

第一章 目に映るは煤けた世

一 華美も霞む穢れた世界

 この世には、まことしやかなモノ達が存在する。

 百鬼ひゃっき百邪ひゃくじゃが、目には見えないだけでそこら中にいるのだ。そこかしこに蔓延はびこったそれらは凡その者にとっては実害あるとは言い難い。されど、とある男にとっては、頭を捻り抱えるほどに悩ましい事案であった。


 その男――せん皇国を治めるこくていしゅん

 彼には、そのまことしやかなる世界が見えていた――と言うよりも、見え過ぎる程だった。



  

 秋の澄んだ夜の空。月光に照らされた宵の口の頃合い、後宮の北側にある玄武げんぶぐう。その食卓で、とある一族特有の色素の薄いはしばみ色の瞳と茶褐色の髪を一纏めにした精悍な顔立ちの青年皇帝――舜の目の前には一人の女が卓を挟んで座っていた。

 側室の一人、しょう貴人きじん。北部の雪解け水のように透き通った美しさと輝きを兼ね備え、更には二胡にこの名手。一度、弓を持ち音色を奏でれば、冬の女神の再来とすら謳われた貴女きじょ。煌びやかな衣装を纏う肢体はたおやかで、この国の頂点、皇帝の側室に相応しい器量と言えるだろう。

 まだ十九歳という若さであったが、今も柔和な笑みながらも落ち着き払った姿勢を見せる。そんな淑やかな女の口から紡がれる言葉は、舜と蕭貴人の二人にとって共通である丹州の話であった。


「今年は気候も良く、秋の収穫も豊作だと」

「そうか、ではあちらの冬支度も問題は無さそうだな」

「ええ、石炭も薪も十分な量が確保できたようで、私も安心しております」


 蕭貴人の生まれである北部――たんしゅうは、せん皇国の中でも極寒と称される地だ。毎年にように寒さによる死者が絶えぬ地での冬支度は重要であり、皇帝としてだけでなく、丹州諸侯と親族である舜にとっても決して他人事の話では無かった。

  

「それで、手紙と一緒に今年一番の出来のものが届きましたので、ご用意致しました」


 卓の上には、黄酒と薬酒の二種。合わせの肴として出された塩漬けの枝豆や干し肉、砂糖漬けの果物が用意されていた。何もない北の果てとまで揶揄される土地ではあるが、何も無いが故の広大で豊かな大地から穫れた米と、雪解けの清水から作られた酒。それに加えて、古来より発展したとされる薬学が専らの売りである。

 黄酒と薬酒の両方が、側に控えた侍女の手により杯へと注がれる。上物は皇都ではなかなか手に入らない代物で、舜も久しく口にしていない。先ずは黄酒を一口含んで辛味を舌に絡ませる。

 酒精に酔いしれたように、杯に向ってうんと頷くも、舜の手はそこで止まって杯を置いてしまう。薬酒に伸ばそうとするも躊躇った手は簡単に引き戻されていた。


「お口に合いませんでしたか?」

「いや、美味い。良い酒だ。ただ、この頃、一段と身体の調子が良くない。侍医に酒は控えろと言われていてな」

「そうでしたか……」


 それまで、故郷の味に満足げな様子で弾ませていた蕭貴人の声がしゅんと沈む。舜の気の進まない様子に蕭貴人もまた杯を置いてしまった。

 まだ、十九らしい歳若い姿が物憂気にする様子に舜は目を逸らす。あからさまに気落ちする姿は苦々しく、かといって貴人の心を持ち直す言葉も態度も舜は持ち合わせていない。それ以上酒が進まないのも事実で、舜は無言でしかしゆっくりと立ち上がった。だが、途端に蕭貴人が腰を上げて舜の側へと擦り寄った。

 

「陛下、その」


 悩ましげに眉尻を下げて、頬を赤く染めたその表情。舜を引き留めたい一心での行動だろう。舜の袖を縋るように摘んで、貞淑でいて精一杯の甘えた仕草をして見せる。そこらの男であれば、それだけでころりと落とされてその手を取ったに違いない。

 だが、舜にとっては何の意味もないものだった。蕭貴人の姿を一瞥はしても、無感情に目を逸らすだけ。揺れる事のない思考は冷めた声色を生み出して、邂逅の終わりを告げた。


「悪いが、体調が優れない。今日は宮へと戻る」


 側室とはいえ、夕食と晩酌だけの短い逢瀬。毎日会えるわけでもないからこその寂しさを募らせた心が、顔に物足りなさを浮き立たせる。蕭貴人の衝動の一端もそれだろう。しかし、相手は夫だが国の頂点でもあると思いだしたのか、蕭貴人は名残惜しむ手がそっと離れた。

 舜にとってはその手が離れた瞬間に訪れたのは、安堵だった。



 ◆◇◆◇◆

  


 住まいである耀光ようこうぐうに戻ると、舜は疲れた顔色を残したまま寝台へとうつ伏せに倒れ込んだ。今まで妻との時間を過ごしていたとは思えぬほどに、うんざりとした溜め息を吐き出しては、更に頭を寝台へと沈み込ませていく。

 嘘はついていない。原因不明だが舜の身体の不調は事実であり、今も体力を蝕んで起き上がる事すら億劫にさせている。しかし、寝台へと倒れ込んだ事は体調とは別に精神的に参っていると言うのもあった。

  

「全くもって面倒だ……」


 と、誰もいない事を良い事に決して妻の前では見せない態度を曝け出して、愚痴まで溢れる始末である。

 

 舜にとって、妻との逢瀬はご機嫌取りだ。何せ、本妻である皇后と併せて五人もの妻がいるものだから、無用な争いを生まぬためには出来る限り平等に接っしなければならない。先帝である父と比べれば後宮に暮らす妻が五人というのは余りにも少ない。けれどもこれといって突出して好ましい相手もおらず、しかも身体的に不調もあるので、食指の動かぬ相手となど房事に及ぶなど無理にも等しい。

 妻達にとっては待ち焦がれた逢瀬の一時であっても、舜にとっては妻の機嫌を損ねないようにと取り計らう為の義務的な時間でしかなかった。

  

 先ほどの蕭貴人にしてみても同様だった。年頃も妙齢で冬の女神と称される美貌の持ち主であるが、舜の食指は一切働かない。他の妃嬪達にしても同じで、誰一人として妻に興味を抱けなかった。

 それだけを聞くと、別の要因があるのではと勘ぐるのでは無いだろうか。例えば――女嫌いか、果ては男色、とか。しかし、舜はそのどちらにも該当しない。

 、舜の目には真面まともな現実が何一つとして映ってはいない事が挙げられた。


 舜の目。その目に映る世界は、黒だ。

 今もそう。絢爛豪華な皇帝の私室でもあるそこは、大理石で埋まった床、吊るされた行燈の仄かな光、潤み色の家具と細部に拘った金細工。どれもが一級品の輝きと共に部屋を彩っている。

 それが、舜の瞳を通した途端にまるで、死者の棲家へと変貌する。全てが煤けたように黒で染まって陰惨たる様相。人も同じで、黒い靄のようなものが顔を覆ってしまい、顔による認識が殆どできないでいた。それにより、舜は目の前にどれだけの美貌があろうが、判別がつかなかった。実の母親の顔ですら、見た試しがないのだ。しかも、困った事にその目に映るのは靄だけではなかった。

   

 突如、カサカサ――と、何かが這う音が舜の耳に届いた。もう舜には聞き慣れた音だったが、何気なく蕭貴人との夕餉を思い起こして、忌々しいと言わんばかりに顔を持ち上げて音の方へと目を向ける。

 丁度、部屋中央で吊るされた行燈。その上に、一羽の黒い蝶々が留まっていた。ゆっくりとはねを動かして、閉じたり開いたりを繰り返す。隙でも伺っているように黒く染まった目をじいっと舜に向けていた。


 ――蕭貴人の宮から着いてきたのか……


 その黒々とした蟲を見て思い出すのは、先ほどまで対面していた蕭貴人だ。

 舜と蕭貴人は皇帝と側室という関係だけでなく、従兄妹同士という側面もある。

 互いの母親は双子の姉妹で、蕭貴人の雰囲気からは懐かしい母に似た何かを思い起こしそうにもなり、気落ちした声を耳にすると僅かながらに申し訳なさも感じてしまう。

 だがそれも、彼女の顔が靄で覆われ、更には――そのを見れば、湧き出た感情などあっさりと消えた。

 舜には、蕭貴人の顔は黒い蝶々が覆い尽くして、のだ。

 

 見えすぎるが故。黒い靄で覆われた顔と、蟲這う人々。その景色が、舜にとって人との距離を作るのに十分な理由だった。

 

 けれども、皇宮でそれが見えるのは舜だけ、と言うのも事実。

 舜は、この国――せん皇国皇帝である。

 皇帝の仕事は、何も政務だけではない。何のために、後宮があるか。

 端的に言ってしまえば、皇帝と言えど種馬なのである。

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