【常世の君の物語No.3】九星
くさかはる@五十音
第一章:九星
一筋の涙が、頬をついと流れた。
頭上には、朝からいわし雲が広がっており、今も変わらず南から北へと風が流れていた。
「んあ」
上半身だけ起き上がり眼下を見下ろすと、大海原が広がっている。
今日も波はおだやかに、さやさやと砂浜に寄せては返している。
村のはずれにある小高い丘の上にあって、ひときわ大きな松の木が辻に覆いかぶさっているが、その四辻の一角には、小さな小屋が備えてあり、中には子供の大きさほどの一体の地蔵が置かれていた。
今日も村の誰かが備えに来たのか、地蔵の前には握り飯が一つ備えられている。
いざとなれば子供たちのおやつとなる握り飯だが、この四辻に備えられているものに関しては、何があっても手を付けてはならないと、村の大人たちが口を酸っぱくして言っていた。
だから九星も手をつけない。
誰も手を付けない握り飯には、蟻がわらわらとたかっている。
もう昼になり腹が減っているが、飯を食べるのは家に帰ってからにしようと九星は決めた。
幸い、九星の家は村でも比較的大きな家だ。
少なくとも、朝から子供一人いなくても稼業がまわるような家である。
「よっこらせっと」
九星は立ち上がると、その場で大きく伸びをした。
十六の誕生日は、何事もなく過ぎてゆくかのように思われた。
「きゅうせーい」
どこか遠くから、自分を呼ぶ声がした。
辺りを見回すと、村に続く一本道に、小さな人影が見える。
九星は手を筒のようにして人影にあてる。
筒の中の小さな人影は、こちらに向かって走ってくるようである。
あれは今年十になる、
一太のことは、生まれた時から知っている。
村に子供は二十人ほどいるが、一太はその中でも一番の元気印で、なにかにつけ騒ぎを起こすのだった。
今度はどんな騒ぎがやってきたのやら。
九星はやれやれといったふうに笑顔を見せる。
「九星ったら、またこんなところにいた」
息を弾ませ丘の上へとたどり着いた一太は、九星に背をさすられながら肩を上下させる。
「あんまり空が高いものだから、朝からお天道様を眺めていたのよ」
腰に携えていた水筒を一太に差し出しながら、九星は言う。
「九星、大変だよ、社の裏の竹藪で、けんぼうとみっちゃんが対決を始めたんだ。手には二人とも竹やりを持ってる」
一太は水を口に含むのも惜しいのか、一気にまくしたてた。
「まぁ、またなんでそんなことに」
「いいから来てよ。九星でなきゃ止められないんだから」
一太は目を見開いて唾を飛ばさん勢いである。
「はいはい、今行くから」
急ぐ一太に手を引かれながら、九星は困ったものだと、村の子供たち一人ひとりの顔を思い浮かべる。
周辺に浮かぶ数ある島の中の一つにあって、この村は漁業を生業としている。
子供たちは幼い頃から漁のいろはを学び、早い者は十になる前に船に乗る。
荒々しい村の男たちにもまれて、そんな子供たちも自然と気性が荒くなるのだった。
一太が言った、けんぼうは十一になるが、大人に混じって漁に出て既に長い。
対するみっちゃんは十になるが、村長の一人娘でけんぼうよりも体が一回り大きく、こちらも気の強さは折り紙つきだ。
その二人が竹やりを携えて喧嘩を始めたという。
この村の子供の気質を知り抜いている九星には、彼らを遠巻きに見て喜んでいる他の子供の姿が目に浮かぶようだった。
果たして、竹藪へ到着してみると、一太が言ったように、けんぼうとみっちゃんが取っ組み合いのけんかを始めていた。
二人の傍らには竹やりが投げ捨ててあり、どうやらその重みに耐えかねたのか、早々に手放されたようだと見当がつく。
「はいはい、やめたやめた」
九星は自分の体を盾にするようにして、二人の間に割って入った。
このころの年頃の子供は男児より女児の方が嵩が高い。
おさえるのは、体の大きなみっちゃんの方である。
「わぁ、九星、とめるなよ」
二人の喧嘩を外まきに見ていた子供たちからそんな声があがる。
「だめだめ、大きな怪我をする前に、二人ともお互いに謝ってしまいなさい」
「うるさい、九星」
「そうだ、引っ込んでてよ」
けんぼうとみっちゃん、双方からそんな声があがる。
九星は、すうと息を吸った。
「いい加減にしなさい!」
そう言って九星は、片手でげんこつをつくると、みっちゃん、それからけんぼうの頭の上に、ひとつずつ拳をおみまいした。
突然の痛みに、二人は小突かれた部分を手で覆ってその場にしゃがみ込む。
「いってぇ」
「やったな、九星!」
「やったがどうした!二人とも、いやしくもこの
二人を囲む子供たちすら、仁王立ちになった九星の権幕にたじろいだ。
「わかった、わかったよう。ごめん、みっちゃん」
半べそのけんぼうが、立ち上がってみっちゃんに両手を差し出す。
「ごめんね、けんぼう」
けんぼうの両手を、みっちゃんが受け入れる。
「はい、これでいいんでしょ、九星」
「よしっ」
手を取り合い向かい合った二人の肩に手を置いて、九星は満面の笑みである。
「ちぇっ。誰だよ九星を呼びに行った奴」
「一太、余計な事、するなよなぁ」
周囲の子供たちの中には、そんなことを言うのもちらほらいる。
「こらぁ、聞こえてるよ!」
九星はそちらへ向かって声を荒げた。
「うわっ、九星が怒った!」
「九星が怒った!」
二人を取り巻いていた子供たちが、ぱらぱらと駆け出してゆく。
「まったく、もう」
九星は苦笑いをして、けんぼうとみっちゃんを振り返る。
そこへ一太が駆け寄って、「さすが、九星だ」と躍り上がっている。
社の裏の竹藪でのこの一幕を、九星は折につけ思い出すことになる。
もう二度とは戻らない光景として――。
伯方村に、大いなる災いが、降りかからんとしていた。
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