彼方の未知引き
桜川 なつき
本編
今日がその日だった。世界中の都市がお祭り騒ぎのようになり、人々はその日に限って街頭に設置された大型スクリーンに釘付けになる。外に出ることができない人や、インフラ、医療、宇宙ステーション、そして『扉』に勤務する人々も皆それぞれ手元の端末を通じて新たな一手が指されるのを注視していた。
その祭りの中で最も注目されている人間、ウタは緊張した面持ちでその時を待っていた。ウタはこの祭の正装とも言われている「和服」に身を包み、「畳部屋」と呼ばれる特殊な植物で編み込まれた床がある部屋で静かにスクリーンを見つめていた。
「それではこれまでの歴史を振り返ってみましょう」
スクリーンに映ったアナウンサーが年表を取り出す。
「百七十二年前に我々は2七角打、でこのようになりました。次いでシオミが指したものが届いたのは八十六年前、その角を香で取る形となりました。我々はその香を龍で取りました。それから四十三年経ってシオミに届き、その返答が今日届く予定となっています」
将棋と呼ばれる競技は今や世界中の誰もが知っているメジャーなものではあるが、ほとんど誰もそのルールや競技の内容、勝敗に興味など抱いていなかった。ごく一部の限られた人々がそのルールと、計算済みの最善手の一覧表を受け継いでいた。もはや競技というにはあまりにも形だけで、ほとんど儀式やお祭りに近いものだった。
「シオミに関しては今年運用が開始されたアペンドラ深宇宙望遠鏡で姿が続々と明らかになってきています。我々人類がシオミに入植者を送り込んだのが、今から三千年ほど前になります。地球と輸送船の間の人間でひっそりと始まったこの対局はやがて別世界へと旅立った人類と連絡を取る現状唯一の手段として大きな注目を浴びるようになりました。輸送船が遠ざかるに連れ通信が不安定になり一時は中断していましたが、安定して将棋を指せるようにと『扉』が建設されました」
そうしてスクリーンには『扉』が映し出される。一見すると太陽しか映っていないようだが、太陽の端が黒い四角に切り取られていることでその存在が浮き彫りにされる。
「この巨大な偏光パネルを操作することで我々の太陽から情報を0と1で送信することが可能になりました。シオミ側も恒星に同様の建設物を作り、双方向での通信が実現しています。ただし光子は光速を超えて伝播することが不可能であるため、こうしてシオミに届くまで片道四十三年もの時間を要します」
その『扉』にはウタの両親が勤めていた。両親は理論に基づいて、光速を超越して伝播するタキオン粒子を微小中性子星から取り出せることを発見し、なんとかシオミとの通信に使えないか試みていた。ただウタには物理の素養が受け継がれておらず、こうして地上で学問とは縁のない生活を送っていた。それがウタにはどうしても歯がゆいものに思われた。
やっとのことで見つけた就職先はこの将棋指しの仕事だった。将棋指しといっても、将棋を指すのが仕事というよりかは如何にシオミと向き合う姿勢を皆に見せるか、如何に地球の人々を盛り上げるかといったパフォーマンスが重要であるとウタは考えていた。いくつものスクリーニング検査を通過し、ようやくありつけた仕事を前にしてウタは緊張していた。受信した0と1のバイナリも、全部コンピュータが符号に変えてくれる。ウタはそれを将棋盤の上に再現し、その盤面に従ってもう一人の向かいの人間、フミが地球代表として予め決められた次の最善手を指す。そして『扉』を通じてシオミへと送信する。この部屋にはウタとフミ、我々の様子を世界に生中継するための撮影ロボット、そして巨大スクリーンが置かれているだけだった。
フミもまたスクリーンに釘付けになっている。世界中の熱気がスクリーンを通じてこちらにまで伝わってくる。三千年前には国対抗の競技がたくさん存在したというが、時代の流れで個人戦の競技ばかりに移行し廃れてしまっていた。その潮流に唯一逆行しているのがこの四十三年ごとに開催されるこの祭りだ。ただ観客の心持ちは地球とシオミの対抗試合というよりかは、向こうから定期的に来る愛のこもった手紙を待っているようなものだった。今日だけは世界中の誰しもが四十三光年先の星の人々に思いを馳せていた。
「シオミの人々も僕らと同じように、こんなお祭り騒ぎになっているのかな」
フミがスクリーンから目を離さないままウタに訊く。
「さぁ、どうだろう。私たちは未知の世界に対しての強い憧れがあるからこそこうして毎回熱狂的になれる。だけどシオミの人たちはこの星から出ていった人たちで、四十三光年の距離に加えて三千年も時を隔てているでしょ」
相対性理論を考慮すると、かなりの速度で航行していたシオミの人たちからすると三千年もかかってないけど、とウタは自分で補足する。
「それに、もう決着はついている」とフミは呟く。
実際、それは周知の事実だった。シオミがどのような手を指して来ようがこちら側の勝ちは変わらない。だから次の一手ではなく「負けました」と返事が来るのではないかと見ている人も多かった。それでも皆こうして次の通信を心待ちにしている。
その時、スクリーンが切り替わって何か別の人間が映し出された。
「先程、シオミからの四十三年ぶりの信号が届きました」
「おいおい、先にスクリーンで放送しちゃう? 打ち合わせだと僕らが彼らの模倣をする手筈じゃ――」
「シオミからの通信の内容ですが、最初に、『負けました』と届きました。これにより、三千年間続いたこの対局は地球側の勝利で幕を下ろしました」
カメラが回っていることに気づいたウタは慌ててフミの方を向き、台本通りに深々と頭を下げて「負けました」と言った。二人揃って何かがおかしいと考えていた矢先、アナウンサーが話を再開した。
「そして異例なことに、対局に関する情報に続いて尚現在も信号が届き続けています。専門家らはこれが現在開発中のタキオン通信に関する技術情報であると見ています」
◇
お祭りはそれから三日三晩続いた。地上からでもシオミの恒星は観測できるため、世界中のアマチュア天文家もこぞって通信を受信し、解読していた。また、アペンドラ深宇宙望遠鏡によって撮影されたシオミの詳細が明らかになった。水があることはわかっていたが、陸地はなく、厚い水蒸気に覆われた惑星らしい。移住した人々がどこに住んでいるのかはよくわかっていなかった。
シオミの人からの通信の冒頭は以下の通りだった。
「負けました。我々は地球を発つときに始めたこの対局が終わってしまうことを寂しく思います。我々はこの対局を通じて、徐々に遠ざかっていく地球との距離を実感してきました。また、世代を超えて強く受け継がれる地球への憧れが、対局をまだ続けたいという思いが、技術の発展をもたらしてきました。それは『扉』の開発に始まり、我々はついに独自にタキオン粒子を用いた超光速通信を実現しました」
そうしてタキオン粒子について未解明だった理論や、通信技術に関する情報が一通り届き、ウタの両親らが率いるチームがすぐに再現を行ったところ、タキオン通信によってシオミから即座に詳細な通信プロトコルや基盤に関する情報が大量に届いたという。我々は後少しというところまで来ていながらシオミの人らに先を越されてしまったらしい。
ウタとフミは「畳部屋」に待機するよう命じられ、錯綜する情報を眺めたりしていた。
「まだ対局を続けたいって言っても、もうあの科学技術レベルだとすると指すまでもなく最適解は解けちゃうよ。八十一マスしかないんだから」とフミは退屈そうに呟く。
「それに、世代を超えて盤面が受け継がれるっていう大きな時間軸もまた面白かったのにね。タキオン通信ですぐ決着ついちゃうよ」とウタもまた畳に横になりながら答える。
このときばかりはウタも夢のないことをしてくれるなあと両親やシオミの人々のことを恨めしくも思ったりした。しかしもう開かれてしまったのだ。
「おい、ウタ、見ろよ!」
フミに起こされてスクリーンを見ると、そこには何か格子状の箱のようなものが映っていた。辺りは海や雲に囲まれているように見える。錯覚でなければ、相当巨大な建造物のようだ。
「なにこれ?」
「シオミから送られてきたシオミの惑星の盤面だよ!」
それを聞いてウタは胸が高鳴るのを抑えきれなかった。この仕事が決まったとき近所の展望台でシオミの恒星を眺めたりしたが、そのときはこんな感情を抱かなかった。その箱は何なのか? 続けるはずの対局は?
スクリーンに人が映し出される。明らかに地球人ではない風貌であったが、ウタは気にならなかった。その人が何かを話して、即時にウタたちの言語に訳される。
「タキオン通信によって二つの惑星の科学技術レベルは同期されます。そして再び科学の発展をかけて対局が始まるのです。お互いのソーラーシステムの資源を最大限に活用して」
畳部屋の襖が開いてスクリーンに映っていたものと同じ格子状の箱が運び込まれる。ウタとフミは期待と驚きを隠しきれない様子で向かい合っていたが、その巨大な箱によってお互いの姿は見えなくなった。やがてロボットが合図を出し、中継が始まった。
「我々が今回は先手です。10726五γ歩」
スクリーンの人間はそう高らかに試合の開始を宣言する。ウタとフミはまずこの盤面のコマの移動をガイドする装置が必要だなと感じながら、二人でカメラを活用しながら端からマス目を数え始めた。ようやく初手が指されたとき、世界は再び、より大きな熱狂に包まれた。まだ誰もこのゲームの結末を知らない。これから双方が総力を上げて見つけ出していくのだ。
ウタはお祭り騒ぎになっているスクリーンの向こうのシオミの人々を見つめながら、次こそは絶対に負けないという気持ちを密かに胸に宿らせていた。
彼方の未知引き 桜川 なつき @sakurakawa_natsuki
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