翌日の刑務作業は、ハリーとは違う班に回された。昼食でも会うことはできなかった。そして、自由時間になった途端に、ビルたちにグラウンドの隅へと連行された。

「知ってんだろ」

「何を?」

「ブラシがどこにあるか教えろ」

 両脇と後ろに、ビルの子分がいる状態だった。別の子分たちが、看守との目線を遮るような位置でレスリングに励んでいる。

 ビルが近付いてきて、ここぞとばかりに猫撫で声を出した。

「なあ、あいつと夜中に仲良くお話してただろ。新入りくんにプレゼント、ってわけか?」

 子分たちの間に下卑た笑いが沸き起こる。

 ぼくは返事の代わりに唾を吐いた。

 痰の混じった唾液が、ビルの顔から囚人服に滴り、染みをつける。ビルの顔がゆっくりと青くなり、それから紫色に変色しはじめた。取り巻きたちが息巻いてこちらに近寄ってくる。

 心の中で、ハリーがここにいないことを呪った。この場に居合わせたところで、代わりに殴られてくれる以外の何をしてくれるというわけでもないだろうが。

 しかし、痛みを予期して目をつぶった瞬間に、場違いに明るい声が聞こえてきた。

「感心しませんね」

 子分たちが動きを止め、いっせいに後ろを振り返る。

 声の主は細身の男だった。レスリングをしていた子分二人がおびえたように道を空けていることも異常だったが、何より目を引いたのは、ガキが鉛筆で描いたようなうさんくさい笑顔だった。

「邪魔するつもりか? スマイリー」

「いいえ、とんでもない。私はただ、お見せしたいものがあっただけでしてね」

 スマイリーと呼ばれた男は悠々とした足取りでこちらに歩み寄り、ビルの前に立ち止まった。どよめきが起き、子分たちが拘束を緩める。ぼくもようやく二人のほうを振り返ると、スマイリーがビルに何かを手渡そうとしているところだった――赤い、女物のブラシ。

 ハリーが消失させたはずのその品が、なぜかスマイリーの手の中にあった。

 受け取ったビルがその匂いを嗅ぐと、フンと鼻を鳴らした。

「どこにあった?」

「部品加工場でね。昨日の完成品を載せた台車を動かそうと思ったら、上からこれが落ちてきたんですよ」

「そんなわけがあるか」

「そう言われましても。手からすっぽ抜けてそこに落ちたのでしょう。それとも、夜中にハリー・ハットンが雑居房を抜け出してこっそり置いたとでも?」

 子分の一人がいきり立ったのを、ビルが低く制止した。

「やめろ。見つかったんならいい」

 そのままぼくの肩を「悪かった」と叩いて横を通り過ぎ、子分を引き連れて雑居房棟のほうへと戻っていった。自由時間の終わりを告げるベルが遠く聞こえてくる。

「災難でしたね」

「いや……助かった」

 本当に、ぼくなりに感謝していた。止めてくれなかったら収監二日目からあばらを折っていたかもしれないのだ。だのに、スマイリーが妙なことを言いはじめたので感謝の気持ちは瞬時に吹き飛んだ。

「ところで、ヒギンズさん。あのブラシがどこから出てきたか、興味はありませんか?」

「え?」

 思わずぼくは足を止めた。

「さっき、加工場で見つかったって言ってただろ」

「郵便係を買収していましてね。あのブラシがどういう品か、あらかじめきちんと調べてもらっていたんですよ。幸いにしてここから最寄りの百貨店でも手に入る物だった。それにヘアオイルをちょっとまぶしてあげただけですよ」

「さっき渡したのは何なんだよ」

「騒ぎは少ないほうがいいでしょう? それに……」

 スタンプを捺したようなスマイリーの笑顔が、こころなしか邪悪な喜びに震えたような気がした。

「あなたも見たでしょう? ブラシが消えるところを」


 ぼくが寝転んでいるのを見つけたハリーは、憔悴しきった様子でこちらに駆け寄ってきた。

「ビルの一味に呼び出されたって」

「ああ」

「ごめん。おれ、刑務作業中にヘマしちゃってさ。懲罰を受けてて……」

 みなまで聞く気はなかった。ぼくは怒っていたのだ。ハリーの首根っこを掴み、耳元に囁いた。

「盗ったんだな」

「泥棒じゃないよ」ハリーは不満げに眉を寄せる。「奇術だ」

「屁理屈だ。どっちでもいい。問題は……どこにやったんだ、ってことだよ」

 消灯のベルが鳴る。ぼくは渋々ハリーの首根っこを離し、ベッドに潜る。

 寝入りかけたころになって、ベッドの中にもぞもぞと誰かが入ってくるのを感じた。声を出そうとしたところを、口を手で塞がれる。

 どうやっておれがブラシを消したか、見たい?

 何言ってんだこいつ、と思った。背中を冷たい汗が流れ込む。毛むくじゃらの指からも身体からもひどいにおいがした。懲罰のせいで、入浴をさせてもらえなかったのかもしれない。

 抵抗を諦めるとハリーは微笑み、どこから出してきたのやら、黄色い林檎を握らせてくる。

 しっかり見ててね。

 そんなことを言いながら、ハリーの目はぼくを見ていた。あの、まどろむような目で。思わず、こっちも見返してしまう。

 だから、決定的な瞬間を見逃した。

 何かやわらかいものがぼくの手のひらをひと撫でして――それきり、林檎はなくなってしまった。

 思わず叫ぼうとしたのだと思う。ぼくはまた、口を手で塞がれる。ぼくが大人しくなったのを見るや、ハリーは微笑んで、手を戻した。

 どういうことだよ、今の。

 奇術だよ。

 どうやって?

 よく言うだろ――種も仕掛けもありません、って。

 ウソだろ。何かあるはずだ。

 じゃあ、どうやってるか見抜けるまで、毎晩見せてあげるよ。

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