【令和最新版】たまには新しい本も読めよ!【大豊作編!】

1.『山尾悠子作品集成』(国書刊行会、二◯◯◯年)


 もはや〈幻想文学の〉と言ってよい山尾悠子先生(煩わしいから以下は全て敬称略。他の著作家達についても同様。)の『作品集成』である。

未単行本・文庫化作品を多く含むのがウリで、今なお〈ここでしか読めない〉傑作が数多く存在する。

なお、作者が長期活動休止をする前の作品オンリーで構成されていることに注意を要する。

活動休止前の作品に限って言えば『仮面物語』(近年復刻されましたね)などの遺漏こそあるものの「集成」に相応しく網羅している。


『増補 夢の遠近法 初期作品選』(筑摩書房、二◯一四年。単行本版は国書刊行会から二◯一◯年に出版)はこの「作品集成」の抄録とでも言うべき本で、『初期作品選』収録の作品は全て『作品集成』で読める。


『初期作品選』に漏れた作品のうち、短編なら「シメールの領地」は「どうしてこれほどの傑作が分厚くて高い『作品集成』でしか読めないのか」と不思議になる程である。


『初期作品選』収録の「ムーンゲート」とはストーリーこそ大きく異なるものの、破滅と再生を表象する「水」モチーフや薄暗い雰囲気(古代の神殿に描かれた壁画を見る心持ちにさせる)が共通しており、ページ数も似ているから「どっちかを入れればよい」と考られて落選したのかもしれない。


耶路庭えるにや国異聞」のラストは山尾悠子が好んでモチーフとした「入れ子構造」の究極の完成形を見るようで「遠近法」とともに幾何学的な印象を与える傑作なのに、これもまた選外である(「遠近法」は入ってるのに)。


 けれどもやはり「破壊王」連作の収録こそが『作品集成』の白眉である。

というのもこの連作は〈中編小説四編を連ねて長編を構成しよう〉という考えのもと制作され、第一作にあたる「パラス・アテネ」のみは『初期小説集』にも収録されているのだ。

作者はラストの「饗宴」を中編として書ききることができず「『饗宴』抄」として短編小説「繭」を制作した。


 この連作は世界設定を共有しているのみならず、繰り返し〈男二人と女一人〉のモチーフが描かれる。

超大雑把に言ってしまえば「広大な世界を設定した上でその破滅を様々な視点や人物ドラマからゆっくりと眺める」といった趣向の作品である。

そしてこの〈男二人〉がときに入れ替わったりするのだから面白い。


 私の大のお気に入りの山尾悠子作品が「破壊王」連作収録の「火焔圖かえんず」である。

平安王朝的な和風(特に平安末期の雰囲気だ。この時代は和歌の爛熟期であり芥川「羅生門」の時代でもある!)の舞台設定で「舞」がキーとなる。


ラストに破滅が待ち構えているのは山尾悠子作品の「あるある」なのに、私は「火焔圖」のラストだけは興奮のあまり立ち上がって部屋をウロウロしてしまった。

喪失感のなかに不思議な満足と興奮がある。

しかしこの和風な幻想世界を「無常観」だとか「諦観」だとかいうような〈日本的〉概念でまとめる気にはどうしてもならない。

やはり「火焔圖」は「火焔圖」なのだ。どうにも要約不能である。


「破壊王」構想を書いた当時の創作ノートの抜粋を『初期小説集』の自作解説で読めるからファンは『作品集成』のみではなく『初期小説集』も見た方が良い。


――いきなりぜんぜん新しくない作家のサッパリ新しくない著書だが、ここは一つ我慢してほしい。

最初にあえて古い本を出してきたのは私の好みを端的に伝えるためである。


 長年の活動により山尾悠子の評価は定まりつつある。

すると当然ながら彼女の作品を評する言葉もだんだんと固定される。

マア、「レッテルを貼られてしまった」といえばそれだけのことである。


「硬質」「視覚的」「絵画的」「幻想」とか言うような一種紋切り型の批評を受け続けている彼女の作品を旗印のごとく掲げておけば私のスタンス示すことができるであろう、と考えたのだ。


 ついでながら私の好きな作家、皆川博子の本も揚げておこう。


2.「皆川博子作品精華」シリーズ

千街晶之編『迷宮 ミステリー編』(白泉社、二◯◯一年)

東雅夫編『幻妖 幻想小説編』(同社、同年)

日下三蔵編『伝奇 時代小説編』(同社、同年)


 小さな活字を二段組にした贅沢な皆川博子の傑作集である。

見どころはやはり未単行本・文庫化作品の収録だが、皆川博子に限って言えば発掘が大いに盛んだから〈ここでしか読めない〉作品は減りつつある。


 あまりにも収録作品数が多いから私の好きな作品ベスト・ツー(どうしても絞れなかった)だけを挙げておこう。


『幻妖』編収録の「桔梗闇」と「結ぶ」。以上(奇しくもこの両作が同時期に発表されていることが東雅夫の解説に指摘されている)。


なお、ベスト・ツーからは漏れたが『迷宮』編の「漕げよマイケル」「私のいとしい鷹」「火焔樹の下で」、『伝奇』編の「黒猫」も好むと付け足しておく。


 せっかくだからもう一人だけ作家の著書を挙げてしまおう。


3.高原英理『エイリア奇譚集』(国書刊行会、二◯一八年)

同著者『高原英理恐怖譚集成』(同出版社、二◯二一年)


 前者は幻想小説の、そして後者は怪奇小説の作品集である。

女性編集者の霊が澁澤龍彥に会いに行く「ガール・ミーツ・シブサワ」が読めるのは『エイリア奇譚集』のみ、と言えばもう方向性も価値も分かるであろう。

たまにSF的な作品が挿入されるのが新鮮でとても面白かった。


ちなみに北原白秋と萩原朔太郎の名前も出てくる。


 個人的好みだけで言うならば『エイリア奇譚集』より『高原英理恐怖譚集成』のほうが好みだ。


こちらは既に単行本として出ていた『抒情的恐怖群』(毎日新聞社、二◯◯九年)と最初からハルキ・ホラー文庫として出版された『闇の司』(角川春樹事務所、二◯◯一年)を合本し、初単行本化作品を新たに加えたものである。


「町の底」「呪い田」といった戦慄の恐怖譚のあと、ゾンビ化した恋人とともにゾンビだらけの世界を暮らす「グレー・グレー」ですこしロマンティックになり、中編小説「闇の司」で純粋な恐怖という方向性とは少し違う、グロテスクでおぞましい話をぶつけられる。


そしてまた「かごめ魍魎」「よくない道」「日の暮れ語り」という極めて恐ろしい小説を読まされる。


 頭から読めば熱湯を被ったあとに水をかけられるような落差のある恐怖を楽しめるのである。


4.川野芽生『無垢なる花たちのためのユートピア』(東京創元社、二◯二二年)

同著者『奇病庭園』(文藝春秋社、二◯二三年)


 川野芽生は歌人としてデビューし歌集「Lilith」がよく知られている。近年では「Blue」が芥川賞候補になった。


 私は「Blue」を「すばる」誌で読んだ。

これは特集〈トランスジェンダーの文学〉の流れのなかで発表された中編で、性別を変えることの諸問題について書かれている。

 社会的なことに疎い私だが、〈男性の言葉はたくさんあるのにトランスジェンダーの言葉は無い〉というような言語的な問題に触れているところが面白いと思った。


「男の子の名前」「女の子の名前」があるごとく言語とジェンダーの関係はかなり密接である。

そもそも言語は物事や世界を〈分節化〉し〈差異の体系〉の中に組み込む機能があるのだから、〈男/女〉の区別は言語に支えられているとしてよい。


このテーマについて川野芽生は繰り返し言及してきたのではないか。


 というのも『無垢なる花たちのためのユートピア』では「男性的」で硬質な文体で書かれた作品と「白昼夢通信」(ドラゴン文学である)のように女性の書簡体で書かれた作品が混在しており、あとがきで言語とジェンダーの問題に触れているのである。


 一応ジャンルにこだわって言えば「Blue」は立派な純文学で(芥川賞候補なんだからどうもそういうことにしておかなきゃいけないらしい)、『無垢なる花たちのためのユートピア』はSF・幻想小説である。

けれども通底するテーマが存在するのだ。


 高原英理の項目で書かなかったが、彼もまた〈幻想モノは反時代的だからリアリスティックな文学と比べて現代的な社会問題に無関心〉という風潮に抗って積極的にフェミニズムや人権問題の視点を作品に導入している。


 川野芽生と高原英理はまさに「幻想小説の現代化」を推し進める仕事をしているのである。

そうしたは「幻想小説」というジャンルにとどまらず外部にあたるジャンルの読者へアピールすることに繋がる筈だ。


『奇病庭園』は長編小説だが、連作長編という趣きがある。

細かく話が区切られている点もそうだが、サブタイトルが付けられた章が変わるたびに主人公が変わるのである。


「庭園」というタイトルだけあって〈焦点化される人物〉としての主人公を追うよりはむしろ箱庭的な世界そのものにスポットライトをあてた作品ということになるだろうか。


 ちなみにこれもドラゴン文学である。

〈龍・竜〉はやはり重要モチーフなのだろう。


5.大濱普美子『猫の木のある庭』(河出書房、二◯二三年。単行本版は表題『たけこのぞう』で国書刊行会から二◯一三年に出版された)

同著者『陽だまりの果て』(国書刊行会、二◯二二年)


 大濱普美子は三冊の単行本小説集を出していて『猫の木のある庭』は第一作品集、泉鏡花賞をとった『陽だまりの果て』は第三作品集である。


第二作品集は未読だから挙げなかったけれど、実はこの三冊の本について面白い話を金井美恵子は『猫の木のある庭』文庫版解説で書いている。

なんとこの三冊、いずれも六編なのに回を追うごとに本が重厚になってきているのだ。

『猫の木のある庭』の単行本版『たけこのぞう』は二五六ページ、第二作品集『十四番線上のハレルヤ』(国書刊行会、二◯一八年)は三二八ページ、第三作品集『陽だまりの果て』は三七六ページである。


 収録作品数が同じなのだから、おそらく一作品の分量が伸びてきているのだろう。

読んでいる最中は夢中になってしまうから気が付かないけれど比べてみると違いは歴然としている。


 第一作品集『猫の木のある庭』では一種のお決まりのパターンといおうか、反復される一種の型がある。


〈日常生活を送るうちに数々の「不穏な」現象が起き、「夢」や「幻」といった作中の「現実」とは峻別された上での幻想が描かれる。しかし実際には予感したような超常現象もなくサラリと事が終わる。そして余韻だけが残る〉というのがそれである。


 こう書いてしまうと本当につまらないが読むとハラハラし不安になる。

「現実」を丁寧に丁寧に描くうちにその裏側としての「超現実」に到達するというようなシームレスな描写が手品のようである。


 シュルレアリストが使う「ダブルイメージ」だとかマニエリストが使う「騙し絵」に近いだろうか。


 人間は理由のないことにまで理由を求め、関連しない物事を関連付ける。それは一種の合理性である。

その合理的で機械的な脳の情報処理がバグを起こす。

そして〈目の錯覚〉とでもいうような幻視の世界が開かれるのである。


 驚いたことに、第三作品集にあたる『陽だまりの果て』では超常現象が起こるのである。

「鼎ヶ縁」のラストがそれだ。

また、本書の最後に配された「バイオ・ロボけん」はまさかのSFでこれまた意表を付かれる。


 ちなみに私は大濱普美子の小説を最初に読んだ時「須賀敦子が幻想小説を書いたようだ」と思ったが読み比べてみると結構違う。

どちらも「ノスタルジックな」「静謐な」といった形容が似合う作風であるものの須賀敦子のほうが湿っぽく大濱普美子のほうは乾いたユーモアさえ持ち合わせている。


6.川本直『ジュリアン・バトラーの真実の生涯』(河出書房、二◯二一年。河出文庫版は二◯二三年)


 ネタバレになりそうだからコメントが難しい。

この本はアンソニー・アンダーソンによるジュリアン・バトラーと関わった日々の回顧録の川本直による翻訳である。読売文学賞受賞。


 アメリカ文学においてカポーティ、ヴィダルなどと同時期に活躍したジュリアン・バトラーという人物について私はあまり知らなかった。


 けれども本書の冒頭に配された「ネオ・サテュリコン」に引き込まれ、面白がって最後まで読んでしまった。


 ちなみに最後の方に三島由紀夫の名前が出てくる。

注意深く読まなければ読み飛ばしそうなところだが、本当に出てくる。


 ヴェルベット・アンダーグラウンドも、ウォーホルまで出てくる。


 ローリング・ストーンズ、デヴィッド・ボウイ、そしてプリンスも出る。

このあたりはロック好きポップス好きなら楽しいところだろう。


 アンダーソンとジュリアンの掛け合いがなんとも面白く、漫画的に笑いながら読んでしまうところがたくさんある。

愉快なところは本当に愉快だ。


 アンダーソンは堅物でジュリアンは奔放。そして二人はゲイカップルである。

そんな二人の最初の共通言語がオスカー・ワイルドというのがなかなか絶妙ではないか!


 アンダーソンは『失われた時を求めて』を絶賛しているから私も読んでみたくなった。

『失われた時を求めて』は〈書くこと〉について〈書かれた〉傑作だそうである。

この『ジュリアン・バトラーの真実の生涯』もまた〈書くこと〉を〈書いて〉いる。


 メタ小説(回顧録だけれど)的な視点で〈書くこととはどういうことか〉という問題に触れている。


 ちなみにアンダーソンは「枕草子」も好きだそうだ。趣味が良い。


7.チェンティグローリア公爵著、大野露井訳『僕は美しいひとを食べた』(彩流社、二◯二二年)


「チェンティグローリア公爵? 絶対これ大野露井が翻訳書風にみせかけて著者ごと創作してるやつじゃん」と思いながら読んだら、違った。

本当に訳書であった。


 もちろん「チェンティグローリア公爵」というのは筆名で本名は「ヨハネス・クーデンホーフ=カレルギー」(一八九三生、一九六五歿)である。

ドイツ人だが日本の血も流れている。あの「クーデンホーフ光子」の息子である。


 訳者は「今澁澤」と(前述の川本直とそれに共鳴した人々に)呼ばれていて、「おおの・ろせい」とはイカニモ文人趣味で漢詩でも詠んでいそうな筆名だが本名はなんと「大野ロベルト」という。


 彼は紀貫之の研究者・大学教員であり、浩瀚な研究書も出している。

外国文学の翻訳と小説の創作は筆名「露井」名義で発表しているらしい。

あまりにも謎が多い人物だからこの本を読んだあとも私は大野露井のことをよく知らなかった。


 しかし川本直が「web河出」に寄稿した、「大野露井『塔のない街』刊行記念 『異端にして正統――大野露井論』(13000字)」(https://web.kawade.co.jp/review/87562/)という書評を読んでやっとどういう人か納得がいった。

大野露井入門としておすすめである。


『僕は美しいひとを食べた』は「カニバリズム小説」というべき作品だ。

こんな古い奇書を発掘してくるとはおどろきだ。

本書巻末によると見つけてきたのは実は大野露井ではなくて編集者さんであるらしい。

日本には恐ろしい編集者が暗躍しているのである。


 筋書きを述べれば〈「主人公が間男をして付き合った中国趣味の女と日々食人談義にふけり、最終的に彼女を文字通り『』しまった」という話を他ならぬ彼女の夫に語り聴かせる〉という中々ひでえ話である。


 見どころは主人公が語り聴かせる際限のないである。

〈ワインはキリストの血でパンはキリストの肉なんだからこれは食人だ!〉というあたりから俄然面白くなってくる。


 思うに主人公が試みたのは〈食人〉の〈系譜学〉だったのではないか。

それは既存の道徳や禁忌を歴史的に再検討していくことで〈食人〉という罪を肯定的なものに転じていく、あるいは浸透している「キリスト教」のような宗教・文化の根本に血腥ちなまぐさい〈食人〉の世界を見出すという思索である。


 バタイユ『エロティシズム』のおさらいのような趣もあるが、〈食人〉に限って深堀りする本書はオリジナリティが大いにある。

シブサワ・タネムラ(あと生田耕作)的な「奇書」が好きなら『僕は美しいひとを食べた』も気に入るであろう。



 以上! 終わり!

七項目のなかで十二冊も取り上げてしまった。

私はできるだけ「新しい本」を中心に紹介し、現代出版界の「大豊作」ぶりをアピールしたである。


 私の性質上「エンターテインメントなんだけどゴージャスで凝っている」というような作品が多くなった。

下世話な言い方をすれば「エンタメにしてはあまり大々的に売り出されないけれど堂々とゲージツ扱いされる訳でもない」というかなり損なポジションの作品達である。


 とはいえ、それは副次的にというだけのことだ。


私は「明治・大正・昭和(特に終戦前)に書かれた昔ながらの『近代文学』やそれより前に書かれた『古典文学』だけでなく『イマの作品』もたまには読めよ!」という意図を持って書いたまでのことで、別にジャンルや方向性に拘っていたのではない。


 自分でも面白いと思わない作品を紹介する気にはならないので偏りは自然と生まれる。

私のような偏屈な人間の場合はなおさらである。

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