五
史郎と椿が解放されたのは、姫がどこかに引き払われてからだった。
爺やは「これを……」と震えた顔でなにかを差し出した。どう見てもそれは金子であった。それを見た途端に椿は「ぴゃっ」と声を上げて、ふるふると切り揃えた髪を震わせた。
「そんな、いただけませんっ!」
「いえ……我が姫様の醜態を知られてしまったので……どうぞここでのことは、ご内密に……」
「そんな……私たちはそんなものを……」
「……いただく前に、ひとつよろしいか?」
「先生!?」
椿の悲鳴混じりな声を聞きながら、史郎は爺やに問いただす。
「おひいさん……姫様は日頃から逃亡癖があるとおっしゃってましたが……数日も家出をなさったことは?」
「……それはございません。さあ、どうかこれを受け取ってください。受け取ってくださらないのでしたら、こちらも考えを変えなくてはいけません」
大名屋敷で起こった一切の出来事は、江戸の法では裁くことはできない。藩まで行かないと裁かれないのだから、もうこれ以上の詮索は無意味だった。
史郎はそれを「ありがたく頂戴します」と袖の中にしまい込んでから、大名屋敷を後にしたのだった。
椿は何度も何度も振り返りながら、史郎のほうを見上げる。
「おひいさん、大丈夫でしょうか……」
「さあな。これで縁談が潰れるだろうし、下手したら屋敷から追い出されるだろうさ。おひいさんの描いた絵の通りに」
「先生? これがおひいさんの望んだことだとおっしゃいますの?」
「さあな。ただ俺もこの辺りについては、ちょっとだけ調べてから結論を出そうと思っている」
「……ですけど。下手に詮索したら、本当に私たち……」
「大名屋敷内で起こったことは、残念ながら江戸の法ではどうこうすることはできない。だがな椿」
史郎は路地を歩きながら、いつもよりもずしりと重い袖の下を気にした。
「江戸で起こったこともまた、他の藩の法ではどうこうすることはできないんだよ。つまりは、おひいさんや爺やがこれ以上口を噤もうものなら、江戸のあちこちで起こった出来事を拾うくらいだったら、あちらも手出しはできないはずだ」
普段であったのなら、史郎も「見ず、聞かず、口にせず」と黙り込んでなかったことにしただろうが。どうも今回はいいように使われたところがあるので、若干面白くない。
なら危険の及ばない範囲で調べるくらいならばただだろうと思った次第だった。
……そもそも。あと狐の嫁入りがなんだったのか、確証が持てない以上は調べたほうが早いというのが史郎にはあった。
****
惣菜屋で味噌田楽を買い、それを長屋で食べる。
長屋に帰る途中、糸に出会い「お糸さん」と史郎が声をかけると、相変わらずの気怠げな顔で糸は顔を上げた。
「なんだい、しろさん。今日はずいぶんと遅かったじゃないか」
「ちょっと慣れない場所にまで行ってくたくただよ。ところで、頼みたいことがあるんだがいいかい?」
「はあ……しがない大家に頼み事って珍しいこともあったもんだねえ」
「単純な話だが。ちょっとお糸さんのつてを使って調べて欲しいことがあってね」
史郎はそう言いながらあらましを調べると、爺やにもらった金子のうちの一割を彼女に渡した。日頃から気怠げな顔をするのが癖の糸も、さすがに出された金子の量には驚いて腰を抜かしそうになったが、すぐに史郎に起こされた。
糸は手放しそうになった煙管を、どうにか火鉢の脇に置いた。
「まあ……やっておくよ。なんだい、賭場にでも行ってきたのかい、あんたそんなお金どこで……」
「そんな汚いお金じゃないさ。じゃあ頼んだよ」
そう言ってからようやっと史郎は自分の家に帰った。
椿は終始怪訝な表情を浮かべている。
「先生、わざわざお糸さんに頼み事ってなんだったんですか?」
「お糸さんは知人が多いから、込み入った話も情報が入りやすいんだよ」
「そうですか……しかし、私たち狐の嫁入りについて調べてただけですのに、どうして大名家のおひいさんの結婚とか恋愛の話に関わっちゃったんでしょうね?」
「関わったというか……」
「先生?」
史郎はうっすらと自体の把握はしているが、確証がないため黙っている。
(これは俺たちがはめられたんだよなあ……まだ確証がなにもないから、これから調べるんだが)
こうして、ふたりで味噌田楽を食べて、糸の調査の結果を見ることとなった。
****
史郎が糸に頼んだことは二件だけだった。
「金持ちが売ったものが質に流れてないか調べてほしい。できれば大名とかの」
「そりゃそんな金になるものが質に流れたらあたしの知人にも引っかかるだろうけどさ、そんなもん調べてどうするのさ」
大名家も当主が立てられなかったらお取り潰しになるし、当然ながら大名家のものが質に流れることだってある。しかしそんなものを調べてなにになるのか。
糸はうろんな顔で史郎を見ていたが、史郎は気にすることなく続ける。
「それで、もし見つけたら店主から誰が売りに来たのかを聞いてほしい」
「……潰れた大名家の関係者じゃないのかい?」
「今出回っているものは違うと思う。じゃあお糸さん頼んだよ」
「まあ……しろさんには世話になってるからね。それじゃあ頼まれたよ」
そう言いながら糸は出かけていった。
元々夜鷹の糸は、あれでかなりの情報通だ。昔の客や知人、元同業者に話を聞けば、自然と情報は出回るだろう。
その日は久し振りに一日落ち着いて暦をつくり、昼間の茶休憩時に長屋を訪ねてきた人の相談に乗って帰ってもらっていたら、ようやっと糸が帰ってきた。
お茶を淹れていた椿が「お糸さんこんにちは」と挨拶をした。
「ただいま戻りました……さて、しろさん。頼まれた話だけれど」
「ああ、お帰り。それでどうだったかい?」
「最近出回っていたのは、もっぱら女物の着物や簪ばっかりだったね。大店の箱入り娘か、大きな藩の姫じゃなかったらまず手に入らないようなもの」
「やっぱりか……それで、誰が売り払っていたか聞いたかい?」
「ああ……それが旅芸人一座でねえ。質屋の一部では、さすがにこんなもんを旅芸人一座が持っているのは怪しいってことで問い詰めたんだけれど、『頼むから訳を聞かないでくれ』の一点張りでねえ。そこの旅芸人一座も、年に一度江戸で公演をしてから、すぐに西のほうに流れていく評判のいい一座だし、そこが実は盗賊団の一味だったって話も聞かない。なによりも大名屋敷のものを盗んだりしたら、それこそ江戸でもなんらかの注意勧告が出回るはずなのに、それすらないってことは、本当に盗んでないんだろうと。ならなんでそんなものを持ってるんだって話になるんだけどねえ」
「なるほど……ありがとう。参考になったよ。最後に一座の名前を聞いてもいいかい?」
「水鳥屋だってさ……あたしにはなにがなんだかなんだけどねえ」
糸は「金子分の仕事はしたよ」と言い残して去って行くのを、椿は見送ってから、怪訝な顔をした。
「先生、これって……」
「大方予想通りだったな。あとは水鳥屋に顔を出せば終わりか。瓦版屋にでも聞いて、公演の日程でも聞いてこようか」
「私もお糸さんと同じくなにがなんだかさっぱりですよぉ」
「そこに行けばだいたいの話がわかるだろうさ。あんまりここで言いたくないのは、あのおひいさんの息のかかった人間に聞かれていたら厄介だからだけどな」
史郎の言葉に、なおも椿はさっぱりわからないという顔をした。諭吉の相談から、どうしてこうもおかしな話になったのかと思ったが、治まるところに治まるならばそれでいい。
史郎はそう思いながらお茶をすすった。
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