新しい店子は左官屋の佐助さすけと言う。燃えた長屋の再築のために出かける、よく仕事をする男であった。朝早くに出かけていっては、夕方になるかならないくらいに帰ってくる。酒はそこまで飲まないようで、史郎と椿とは、よく惣菜屋の前で立ち話をしていた。

 椿はお節介にも彼にはしょっちゅう声をかけに行く。


「この辺りにはもう慣れましたか?」

「ああ、椿ちゃんか。お陰さんで、無事に楽しく過ごさせてもらっているよ」

「そうですか。もしなにかお困り事がありましたら、いつでも先生が相談に乗りますからね!」

「陰陽師さんが俺ぁの相談になんか乗ってくれるのかね」

「そりゃもう」


 佐助はなにか言いたげに顎に手を当てているのに、史郎は思わず「こら椿」と彼女の切り揃えられた頭をはたく。


「なんですか、先生。人助けですよ」

「いい加減なことを言うんじゃねえ。暦を読むしか能のねえ役人が、おおぼら吹く訳にゃあいくめえよ」

「まあ、でも先生。江戸ではしょっちゅうお札や護符を売りさばいて、さぞやなんでも効くって言い張っている陰陽師もいらっしゃるでしょう? 先生はそれはしないじゃないですか」

「みかじめ料払えるんだったらいくらでもすりゃいいさ。俺ぁ、そんなの払えないからな」


 ちなみに民間の陰陽師も、暦やお札、護符を売る場合は陰陽寮にみかじめ料の支払いを要求される。たしかに大店や武家に顧客を持っているような陰陽師であったら高くはない程度の額だが、庶民相手に札をばらまいているような者では少々高く感じる。

 そのせいで史郎は暦の分の支払い以外はしたがらなかった。

 史郎の言い分に、椿はぷくっと頬を膨らませる。


「まあ! お役人だったら庶民の力になりませんと!」

「小役人だって。町奉行ほどの力もねえや」

「……ふむ。町奉行では言えない話だったら、この場の話と聞いてくれやしませんか」


 いつものように師弟でギャンギャン言い合っていたら、佐助はひとつ提案をしてきた。

 それに史郎はピクンと眉を持ち上げる。


「江戸の町奉行は有能だろうさ。それが調べられないことでも?」

「いや、なあ……この間の火事だが」


 佐助はポツリポツリと語り出した。

 江戸では火事なんて珍しくもなんともない。そもそも道が狭い上に家も狭い。ろうそくひとつ倒したら、木でできた家なんて燃料にしかならない。もしも付け火だったら、もっと早くに町奉行の捜査が入るだろう。


「……妖怪のしわざなんじゃねえかと、思っちまってなあ」

「……はあ?」


 史郎は顔をひん曲げる。椿は目をキラキラさせたあと、家を失った佐助の面前では失礼だと悟ったのか、白衣の袖で口元を誤魔化した。

 佐助は老木の枝のような指で、頬を引っ掻いた。


「あの長屋、元は猫長屋と呼ばれるくらい、猫がたくさんいたんだよ。誰が拾ってきたのかは知らねえ。最初は一匹二匹がみゃあみゃあ鳴く程度だったんだが、日を追うごとに増えていった。皆も子猫だったら無下に扱うこともなく、普通に育てていたんだが、どこかで子供が生まれたんだろうな。ねずみ式……とまではいかねえが、だんだんと餌の食べ方、糞害、なによりもあちこちでバタバタと走り回る足音で、我慢がならなくなって、もらい手を探すことにした」

「なるほど。だが猫を普通にもらってもらったのなら、妖怪でもなんでもないじゃねえか」

「もらい手は全員には付かなくってな。しかしうるさい、糞害がひどい、餌を食い散らかしたせいで烏まで長屋を飛び回るようになり、晴れた日でも洗濯物が干せなくなってきた。これでどたまに来て、とうとう残っていた奴らも外に捨てられていったんだよ。でも、そのあとさ。うちの長屋が燃えはじめたのは」


 史郎は黙り込んでしまった。

 猫と言うと、猫の恨みは三代まで祟るとも言われている。愛猫家は気まぐれで言うことを全く聞かない猫を溺愛しているが、そうじゃないものからしてみればたまったもんではあるまい。

 そして猫は何十年も生きると猫又になり、更に猫又が何十年も生きると、火車かしゃ……猫の姿が完全に解け、ぐるぐると回る火の輪……になることもよく知られていた。

 椿は袖で口元を抑えつつも、「先生」と史郎の袖を引く。史郎はまだ、佐助の言い分をそのまんま鵜呑みにはしていないようだった。


「するってぇと。佐助さんは火車によって長屋が燃やされたと?」

「自分はそう思っています……今はあの長屋の再築のために仕事をしてますが、怖いんですよ。また立て直された長屋に火がつくんじゃないかと」

「ふうん……」

「先生先生、それなら見に行きましょうよ。妖怪のしわざじゃないならそれでかまいませんし、妖怪だったら退治しないと!」

「だあ……だから、俺ぁ妖怪退治する術なんかねえって」

「ああ、見てくださいますか!? 町奉行も手一杯みたいで。お願いしますお願いします」


 史郎は正直、この手のところに首を突っ込むのが嫌だった。

 遠い先祖のせいで、陰陽師に求められているものが大きくなり過ぎているのだ。これで万が一解決してしまったら、さすが陰陽師あっぱれと仕事が増えてしまうかもしれない。仕事が増えれば増えるほど、みかじめ料の額が上がるから嫌だった。

 しかし陰陽師が下手にかかわって、なにも解決できなかった場合。これもまた困るのである。陰陽師たちは、今や貴族や武士はよっぽどの顧客がいない限りは相手をしていない。客はもっぱら一般庶民なのだから、彼らの理想や憧れをくじいた場合、陰陽師の仕事に支障が出る。同業者たちに喧嘩を売りたくはなかった。

 だが。史郎はガリガリと頭を引っ掻いた……どうにも、町奉行すら今回の火事の原因が突き止められていないのが引っかかった。


「まあ、現場に行くくらいなら」

「ありがとうございます!」

「さあ、参りましょう先生!!」


 こうして、史郎は佐助に何度も頭を下げられ、椿を伴って件の長屋跡に出かけることになった次第であった。


****


 そうは言っても、数日前の火事で焼けた場所は、既に焦げたあとしか残っておらず、崩れた長屋片は軒並み始末を付けられてしまっていた。


「うーん……もうなあんもねえじゃねえか」

「先生が妖怪のしわざじゃないかと思って、さっさと捜査に出ないからですよぉ」

「なんでもかんでも妖怪のしわざだったら町奉行はいらねえだろ。で、佐助さん。この辺りの再建を手伝ってるんだろう? なにか気になるものは?」

「気になる……そういえば、ある日を境にいきなり猫が増えたあたりですかねえ」

「誰かが餌をやってたからじゃねえのかい?」

「いえ……猫は気まぐれですから、子供が生まれても餌を与えても、よっぽど辛抱強くしないと残りません。あと……猫だけでなく、烏もですかね」

「烏ぅ……?」


 思わず史郎は空を仰いだ。

 烏は鳥の中でもとりたてて頭がよく、人の多い場所にはあまり出てこないはずだったが。佐助は小さく首を振った。


「いえ。長屋が火事になる前は、猫だけでなく烏もよく鳴いていたはずです」

「今はいねえじゃねえか」

「なんでしょうねえ」


 佐助と史郎が首を捻っている中、椿だけは目をキラキラとさせていた。


「これはきっと、火車のしわざですね。先生、出番ですよ」

「おいおい、まだ妖怪のしわざと決まった訳じゃねえし、猫とからすが増えた理由と火事になった理由が繋がってるかもわからねえじゃねえか……」


 呆れたところで、チリンと音がしたことに気付き、史郎は顔を上げた。


「先生?」

「……季節外れじゃねえか。風鈴なんて」


 史郎は首を傾げた。

 今は冬だ。惣菜屋であつあつの煮物を買いたくなる季節。その時期に風鈴は、いささか情緒に欠けると史郎はただ首を捻った。

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