完全なる無糖
五色ひいらぎ
完全なる無糖
闇の壇上、スポットライトに浮かび上がったのは、人の頭の倍ほどのガラスボウルであった。
「皆様」
上方からの光が、さらに一人の男を照らし出した。上質な白スーツ姿で微笑みつつ、大きな水差しを高く掲げている。
「これが、世界が変わる瞬間です」
水差しから、透明な液体がボウルに注がれる。
一呼吸の間。
光が、不意に満ちた。赤、青、黄――ホールが色彩の輝きで溢れる。
目が慣れた聴衆が、壇上へ視線を戻せば、男の背後に巨大なネオンサインがあった。
――
「この照明の使用電力は、純粋に
誇りの色に満ちた声を、男は張り上げた。
「この素材は、人類をエネルギーの呪縛から解放します。化石燃料も水素ももう必要ない。自然界にあふれる糖だけでいい。我々は無限のエネルギー源を手に入れたのです!」
聴衆から万雷の拍手があがった。
◆
十年が経った。
北東都駅のホームへ着けば、一分の誤差もなく電車が滑り込んでくる。大きな窓から見える車内に、人はまばらだ。時差出勤の恩恵を感じつつ乗り込む。
車体の内側では、天井にも床にもガラスが張られ、中の液体の流れが見える。いまどきの電車はパンタグラフなど備えていない。糖をエネルギーに変換する特殊ガラスへ、砂糖水を流してやるだけでよい。それで十分な電力が得られる。
電車に限らず、いまや世界のすべてが「糖質熱量抽出ガラス」のエネルギーで動いている。化石燃料など、よほどの発展途上地域でしか使われていない。それも技術発展と共に消えていくだろう。
だが、それでいいのか――
天井の、床の、ガラス窓の隅に見える
◆
研究室へ着き、
「……やっぱり」
CE社はもちろん当該技術の特許を取得しているし、大量生産手法や重要部分の組成も企業秘密として秘匿している。だから社内の人間以外、詳細な技術情報を知ることはできない。だが研究者としての勘が真実へ導いてくれた。彼らは故意に、質が低いものを世界へ売りつけている。
だが、なんのために?
おそらくは販売量を増やすためだろうと、希は推測した。出力が半分なら、同量のエネルギーを得るための素材量は、単純に考えて倍になる。つまり、より多くの糖質熱量抽出ガラスを売ることができる。
許しがたいと、希は思う。
糖質熱量抽出ガラスの供給は、初期開発時以来CE社が独占し続けている。つまり世界のエネルギーは、現状、いち私企業に握られている。その地位を利用して、彼らは濡れ手に粟のぼろ儲けを続けているのだ。
だから打破したい。研究者の立場からなら、不可能ではないはずだ。
「……出力効率、少なくとも数倍には強化できる。非接触での変換も、不可能ではないはず」
非接触――つまり、離れた場所の素材からでも糖を吸収し、数倍以上の効率でエネルギー化できる。それが、希の見立てであった。
「作るか。……サンプル」
希はひとりごちた。
特許はCE社が持っている。企業の協賛は望めない。だが、派手なパフォーマンスと共に真実を暴けば、少なくとも世間の耳目は集まるはずだ。
世界を変えたい。十年前、CE社の前CEOがしたように。
大きく息を吐き、希は「真の」糖質熱量抽出ガラスを制作すべく、実験計画を練り始めた。
◆
半年が経った。
北東都駅のホームに、動くものは何もない。止まった電車の内壁に、燃料の砂糖水はもはや流れていない。
あの日――東都大学工学部材料化学科の研究室で実験が完成した日、すべては変わった。
最初に影響を受けたのは、担当研究者の佐藤希だった。人の姿を失い、白衣だけを残して崩れ去る彼女を、同僚は救おうと近づき、同様に崩壊した。
原因が、強化型「糖質熱量抽出ガラス」だと判明した頃には、すでに手遅れだった。
直接接触していない物体からも、数倍の出力で糖を吸収し始めたガラスは、生物の遺伝情報を保持するDNAからも
さらに、周囲の量産型「糖質熱量抽出ガラス」が、強化型ガラスと共振を始めた。世界に満ちるガラスが覚醒し、強化型ガラスと同等の出力効率で糖を変換し始め――
ホームに風が吹いた。何週間前のものかわからないハンバーガーの包み紙が、かすかな音と共に宙に舞った。
土に還ることはない。地中のバクテリアさえもDNAを失い、この世から消えてしまったのだから。
いまや、世界は変わった。
完全なる無糖の世界、すなわち何も生きられない世界へと。
【了】
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