3:天頂の湯殿

 日が暮れかけた頃に、集めた植物を持って戻ると、テーブルのそばにアークが立っていた。


「労働は、捗ってるようだな」

「なにか用でも?」

「日が暮れたら、作業は終わりにしたまえ」

「なぜですか? この辺りに妖魔モンスターはいないようですし、松明の用意もあります」

「だが、夜は餌を求めて四足の獣が出る。集団行動を取っているので、屈強な戦士フェディンでも危険だ。倉庫ストックの手前に風呂がある。汗を流してくるといい」


 態度は高圧的だが、どうやら気を遣われているらしい。


「では、そうさせてもらいます」


 そう答えて、ファルサーは廊下に出た。

 これまでファルサーが使ってきた "風呂" は公衆浴場であり、個人宅に風呂があるのなんて、余程の金持ちか権力者の邸宅のみだ。

 とはいえ自分の知る "常識" から、なにもかもが逸脱しているこの窟の邸宅なら、風呂があってもおかしくないのかもしれない。

 それに、最初に倉庫ストックに向かった時からずっと、ルナテミスの中にアーク以外の誰かの姿を見た事が無い。

 これほどの広さを維持するには、かなりの数の奴隷や使用人を使っているのが普通だと思うのだが。

 しかしこんな山の上の岩窟の中に、こんな邸宅を造り上げてしまうような相手には、自分の考える普通など通用しないとも思う。

 そんな事を考えながら "倉庫ストックの手前" にある扉を開けた。


 中に入ると、足元に玄関ホールのような段差が付けられていて、入り口脇の棚には "シューズボックス" というプレートが付いていた。

 つまり、脱衣所に入る前に履物を脱ぐようになっているらしいと理解したファルサーは、そこでサンダルを脱いだ。

 どうやら自分の知る風呂とは、随分と様式が違うらしい。

 段差を上がった部屋もまた広々としていたが、倉庫ストックの広さと回廊のような廊下を見てしまった後では、もうあまり驚かなかった。

 壁際には倉庫ストックと同じような石造りの棚があり、そこに木の皮で作ったカゴが置いてあった。

 広い室内には木製の椅子もあり、石の棚には柔らかなタオルがきちんと重ねて置かれている。

 自分の知る様式とは違う風呂だと解ったので、ファルサーはまず室内を見て回った。

 入ってきた扉とは別に、もう一つ扉があったので、それを開くと、モウッと湿って温かい湯気が全身を包み込んでくる。

 だが床のどこを見ても浴室用の履物が無い。

 そこで少し困ってしまったが、元々身分の低い身の上のファルサーは、泥で汚れた自分の履物を持ってきて履くような事も出来ない。

 今までの様子から、アークがファルサーをからかって履物を隠しているような事はなさそうだ。

 それに、顔に当たる湯気の温度も、ファルサーの知る公衆浴場の熱気とは違う。

 恐る恐る床に触れてみると、さほど熱くない。

 どうやら、履物を使わずに全裸で利用する物らしいと理解して、ファルサーは衣服を脱いだ。

 浴室に入ると、中にはファルサーの知るような道具も、水風呂も無かった。

 別室にあるのかもしれないと浴室内を見て回ると、やはり扉がもう一つある。

 やれやれと扉に手を掛けたファルサーは、そこを開いて目を見開いた。


「うわあ…」


 思わず、嘆息の声を上げる。

 扉の向こうには、窟の外の広い世界が一面に広がっていた。

 屋根も壁も、柱すら無い、視野に収まりきらない広々とした景色。

 夕暮れのオレンジ色の光が美しく輝き、水の流れる音がする。

 誘われるように扉を抜けると、サアッと風が吹き抜けた。

 一日労働に従事してすっかり火照った体には、吹き抜ける風の冷たさが心地良い。

 そこは断崖絶壁に張り出した岩棚のような場所で、ふちまで行って下を覗くと、かなりの高所だった。

 少し離れた場所には遥か上方から谷間の川へと、真っ直ぐに落ちている滝がある。

 滝の一部が岩棚へと引き込まれているが、岩壁に作られた引き込みの溝は下から見上げる位置なので、窟の内へ引き込まれた水がその先でどうなっているのかは見えなかった。

 その代わり、岩壁の一部に穴が開いていて、そこから湯気の上がるお湯が吹き出しており、その下には大きな岩風呂があった。

 湯船から溢れた湯は床を流れて、岩棚のフチから遥かな谷底に向かって霧散していく。

 触れた湯は少し熱かったが、広々とした湯船にゆっくりと身を沈めると、なんともいえない開放感に包まれた。

 無骨な岩石が無作為に並べられているように見えた湯船だが、寛ぐ姿勢になれるよう、巧妙な高さで細工がなされている。

 ファルサーはしばらくそのまま、熱い湯に浸る心地よさを堪能した。

 それから目を上げると、遠くの空は未だ夕暮れのオレンジに染まっていたが、真上は既に濃紺の星空へと変化している。

 美しいグラデーションの広がりに、これはまさに、大自然が創り出した壮大な絵巻物ショーだと思った。

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