ホルスの千夜物語

育岳 未知人

第1話 プロローグ

「ホルス(Horus)」とは、エジプト神話に登場するハヤブサの頭を持つ天空と太陽の神である。古代エジプトでは昔からホルスの両目は太陽と月を表すとされ、宇宙の星々の運行を観測することで天文学が発達した。「エジプトはナイルの賜物」と言われるように、ナイル川は乾ききった砂漠に囲まれたエジプトの地を肥沃な大地に変えた恵みの川ではあったが、その一方で毎年繰り返される洪水により人々を苦しめた。天文学は一部の支配階級での奥義として発達し、その繰り返される氾濫の予測と、農作物の種蒔きや収穫の時期の指針をも示すことで、ファラオの権力を絶大なものとし、長期安定的な王朝時代を維持することにも一役買った。特に太陽の運行に関する観測は重要で、それによって現代のような一年を365日とする太陽暦が生み出された。

ところが、遠く離れた極東日本にもハヤブサを冠する「隼人(はやと)」と呼ばれた一族が居たのだ。隼(はやぶさ)とはご存じのとおり世界各地に生息する鳥でハヤブサ目ハヤブサ科ハヤブサ属に分類される猛禽類である。ハヤブサの航行能力は水平飛行時でも100km/時、急降下となると実に300km/時を越えるらしい。その驚異的な飛行特性を模した日本の一式戦闘機「隼」は連合軍機と互角以上の性能を有し、太平洋戦争初期の日本が優勢だった頃、総生産数5700機を数え海軍の零戦に次ぐ陸軍の主力戦闘機として東南アジアを中心に配備され活躍した。そして、今、宇宙の小惑星探査機にも。



あれから何年の月日が経ったのだろう。ホルスは宇宙に飛び立った。瑠璃色の地球を後にして・・・。国際宇宙ステーションを横目で見ながら兎とかぐや姫が誘うメルヘンの月世界に向かう。月は地球から直線にして約38万kmの彼方に位置する。月の直径 は3474kmで地球の0.27倍に過ぎないが、太陽系の衛星の中でも木星の第一衛星イオに次いで5番目に大きいらしい。


やがて、ホルスは月が間近に見える位置まで接近し、大気の無いその表面の観測行動を開始する。地球の夜を優しく照らす月も近づくにつれてその地表のデコボコを露わにした。この不毛とも思える天体にも近いうちに人類が基地を築いて住むという。ホルスは青く美しい輝きを放つ奇跡の星地球と見比べながら複雑な気持ちになった。


それからどれ程の時間が過ぎたのだろうか。今度は暗闇に赤茶けた星が浮かんでいるのが見える。これはきっと火星に違いない。太陽に向かって進もうと足掻いていたつもりだが、なかなか進まないのだ。逆に遠ざかっていくようだ。無数の星屑が漂う中、注意深く衝突を避けながらある小惑星にたどり着いた。

「そうだ、リュウグウだ。これが私のミッションだったのか。」

ホルスは周回軌道を辿って再び地球に接近しリュウグウの産物を送り出すと、再び果てしない宇宙の旅を続けるのだった。次のミッションも小惑星らしい。ホルスは自分の意図とは裏腹に可能な限りミッションを遂行しなければと思った。しかし、イオンエンジンの具合がどうも芳しくない。いわゆる制御不能という状態に陥りつつあるようだ。全力で出来うる処置を講じて何とか持ち直そうと何度も試みた。しかし、そのうち回路がヒートアップして気を失ったようだ。


気が付くと、大いなる木星(※1)の目に見つめられ、何だか優しく抱かれている。

いや待て、この目は大赤斑というものらしい。



※1

『木星は太陽系内で大きさと質量共に最大の惑星である。地球と比較すると、直径は11倍、質量は318倍にもなる。80個以上の衛星を有し、太陽の周りを約11.9年周期で公転している。主に水素とヘリウムからなる大気で覆われ、大赤斑(長径4万kmにも及ぶ楕円形の眼のように見える定常的に巨大な台風のような嵐が吹き荒れている領域)は木星のシンボルとなっており、重力(引力)は地球の約2.5倍もある。

木星の名ジュピターはギリシャ神話におけるオリンポスの神々の支配者とされる天空神ゼウス、ローマ神話におけるユピテルに由来する。

その第一衛星イオはギリシャ神話に登場する女神の名に由来し、神話ではオリンポスの神々の支配者とされる天空神ゼウスの愛人として登場する。ゼウスの妻ヘーラーに牝牛に変えられ放浪を続けることになるが遂にエジプトに辿り着き人間の姿に戻ったとされている。そんな苦難を背負ったイオだが、エジプトではゼウスとの間に生まれた息子エパポスがエジプト王となるらしい。そして、イオは、エジプト神話に登場する冥界の王オシリスの妻で冒頭に紹介したホルスの母親とされる豊穣の女神イシスと同一視されているのである。ギリシャ神話とエジプト神話はいずれも紀元前3000年頃に成立したとされ、注意深く比較検討するとこのように両者の共通点を見出すことができる。』


引力に抗いながらかろうじてイオの横を過ぎてさらに彷徨っていると、何と近くに和の調べを奏でるように浮かび上がる土星(※2)が見えて来た。その輪には昔の思い出が走馬灯のように流れていく。ホルスにはAIコンピュータが搭載されており、その頭脳には無作為に抽出された千人の記憶提供者たちの思い出が「隼人」という人格データとして統合されて詰まっている。その中からホルスの感情回路が選択した想い出が浮かび上がったのだろう。



※2

『土星は太陽系内で木星に次いで大きな惑星である。土星の直径は地球の約9倍あるが、巨大な体積のわりに質量は地球の95倍程度である。83個以上の衛星を有し、太陽の周りを約29.5年周期で公転している。木星と同様に主に水素とヘリウムからなる大気で覆われており、氷の粒などで構成される環(輪:リング)は土星のシンボルとなっている。

土星の名サターンはローマ神話における農耕神サートゥルヌスに由来する。最大の衛星タイタンはギリシャ神話のガイアとウラノスの間に生まれた、伝説上の黄金時代を築き上げた強力な神の種族タイタン(ティタン)族に由来する。』



ところで、皆さんは、アラビアンナイト(千夜一夜物語)をご存じだろうか。世界の童話やデイズニー映画の「アラジン」などで有名なアラビアンナイトは、シャフリヤールという王が妻の不貞を知り、人間不信になって妻や相手の奴隷たちの首をはねるだけでは飽き足らず、毎晩街の生娘を宮殿に呼んで一夜を過ごし、翌朝首をはねるという蛮行を繰り返していたが、ある時大臣の娘シェヘラザードが決死の覚悟でこれを止めるために王のもとに嫁ぎ妻となり、毎夜王に興味深い話をし、続きを次の日の夜に持ち越すことで、王の興味を引き、殺されずに千夜続けて、蛮行を止めさせたという物語なのだが、その一夜ごとの説話が「アラジンと魔法のランプ」や「アリババと四十人の盗賊」などの物語として世界中に広まったのである。そのような説話がシリア界隈で語り継がれ千一話収められていると捉えられがちなアラビアンナイトであるが、実はエジプトを中心に周辺諸国の説話も取り入れられて成立し、当初は千話収められたことが窺える。

本書では、アラビアンナイトに倣って千人の追憶の中から、ホルスの感情回路がピックアップした「隼」にまつわる短編を6話、順を追って紹介して行く。

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