思青鬼(忠告: shishunkiと発音してください)

序−2

 虹口かれは鬱になった。春になったからだ。

 季節のかわり目には風邪をひきやすいというように、虹口のそううつ病でも具合は悪くなりやすい。ただしくは双極性障害というこの「病」が、虹口を若年にして、ほかでもない脳の病人にしてしまっていた。

 あぁまたこうした時期がやってきたのだな、とでも頭の片隅で思うしかない、やるせない患者へと、夏は虹口を貶めてみせたのだった。はたから見れば、まちがいなく虹口は訳もなくただ不機嫌な、手のつけようがない男子だった。……だろう。

 ガワだけで見れば、そう──イライラしてそうだとか、憂うつそうだなどと言われてもしかたない有様なのだ。なにごとも面倒でやりたくない、というか身体が怠くてうごくのが億劫である──そういう無気力、無感動が、今の虹口にはつめこまれている。脳味噌から吹き出されるようにして、全身に毒をまわしてゆくかわりに憂鬱を、蒼びかりのする鉛を流しこむように満たしこんでみせているのだ。

 濃密、鬱蒼とさえした、こんなむなしい薄弱な負の情念については、だいたいが不快についての嫌悪と、それを忌避しようとしてもできない辛さによる、病人特有の苛立ちにもならない無念さといえるかもしれない。

 あいにく、虹口はしあわせにも、病人として病院に通い向精神薬をいただいて服していた。だから安静を第一にせねばならない何も出来ずじまいな病人の、そうした悔しくも無力感に苛まれたゆえんな、その空回る焦燥にはほど遠いような野蛮なる苛立ちを、虹口は感覚して、不機嫌な鬱病患者になりはてている。

 脳味噌の中ほどに膿の黒ずんだ沼がはびこっていて、こうした内側から外白質にむかって、淀みきった血が、ドロドロと、恐ろしくのったりして流されている感じがするのだ。

 春うららかだから? だろうな。虹口は、そう、ひとまずは納得してみせる。いやな時期だ。

 朝の通学路にしても、蒸し暑いとまではいわずとも、その予感がする、体内の冷ややかさとは不協和な温もり、生ぬるいそういう暖大気が、虹口の手ぐすね引いてくるかのように、彼のまだ冬服な学ラン姿へと纏わりついてばかりくる。

 気に食わない日だった。そうして気に入らない用事だった。そのせいで虹口は、この新学年、新学期に入りたてな六月のなかば、わざわざ高校まで行かなければならなかった。ほかの生徒たちと同じようにではあるが。

 しかし今までの春休みの素晴らしさ、たとえば八時なんていわず九時や十時まで惰眠をむさぼるなんてして実感できる、有り難い時期の春眠をいかにも貪ってきた虹口である。

 こうした始業前の登校なんていう──みんながやってるこんな当たり前のことさえ、糞食らえであった。

 登校という行為が猥褻にさえおもえる。底意地が厭らしく感じられるまであった。虹口は頭のなかが真っ青なまま、やはり世のすべてにいちゃもんをつけてやりたくなる(しかし実際にはそれをつけるやる気さえおきない──)頭蓋から、尾骶骨のなかの骨髄にまでうっとおしくまとわりつく、暗澹とした泥々の鈍痛のため、なにもかも気に障るのだった。

 それでも彼が、家からでて学校に向かう理由はそうでもしなければ祖父に怒鳴り散らされ、おん出されるからだった。あるいは学校に一刻も早くたどり着き、朝のホームルームまでの時間、ホームルームの時間、授業時間、休み時間、昼休み、また授業時間──これら、すべての時間を睡眠に費やすためだった。

 だから、虹口はこんなにも不健全、不具合な精神を宿らせて、二本の脚をたがいちがいに前後させて、しまいには高校の学舎のまえに立ちはだかるあの急坂を登るなんていう、ありとあらゆる全般において苦行きわまりない、不快な道中を、こういう不健全な内心を胸におしこめてまで前進しているのだろうか。

 ──知るか。

 確かなのは、何もかも、虹口すらも、くそったれだという素晴らしい世界を味あわせてくれる、そういう彼の脳味噌の有り様だけだった。

 絶不調の時期だった。正しくいえば好調と不吉が波をなして、かれの日々というやつをからめ取って、揺さぶり、悪酔いさえさせていた。彼は生きているだけで、こうして定期的に自分自身によって幸せな日々というのを取り上げられ、あまつさえには苦悩苦痛の期間へといやおうなしに叩き込まれるのだった。

 みんな◯なねえかな。というのがつくづく思える言葉ことのはだった。世界滅びちまえだとか日本沈めやら東京無くなれという、そういう悪態ではない。

 それでは駄目なのだ。仕方なく、自然の成り行き、理不尽や不条理に運命というので彼のまわりの人々、人間たちが、◯ぬ。

 ──それでは彼は納得できなかった。それでは誰も悪くない。誰のせいでもなく、ただ人が天災で命を落としただけである。単なる不運な落命だった。悲運な、とさえ言い換えられる。憐れみ哀れまれ、悼ましいと謳われるほどなのが、気に入らない。

 だからこそ、人が──彼と無関係なひとが、こういう単なる偶然でくたばったとしても、スッとしない。 

 心がすくような、爽快なイイ感じが、しない。

 誰か僕の気を晴らすためにビル一個ぐらい爆散させてくれないかな。それか僕になにか、ひとつ、何もかもち壊せるなにか──たとえ、それが檸檬のような仮初であってもいいから、そういうものが得られないものかな。

 そうして、こんな希望にたいしてである。彼の全身につきまとってくるものがある。それは予感なのだ。

 なんの?──これが謎めいていた。彼の人生はこれからも不安が、そうして暗澹が、さもありなんとわだかまっているはずだ。安心、安堵のような落ちついた心持ちというのは縁がないに決まっている。

 ああ──そういやあ、もう今日は間に合わないな、いつもの時間にはな。虹口はかれの腕時計をチラ見して、時刻がすでに朝の七時後半あたりだろうと見当づけた。峯撫という少女についてふと思い出されたが、すぐどうでも良くなってきた。早く寝たかった。

 彼は既に、道の曲がり角を過ぎていて、その視界には二つの目立つ校舎があり、その一つが彼の目指しているところだった。二つの校舎はともになだらかな丘の上にあって、このせいでやや急な坂道を上ってゆくのが行き着くためには必要だったのだ。

 若者ならばどうとも思わないはずのこの坂を、虹口は一歩一歩踏みしめて、その一歩ごとに自分を懲らしめられているような、そういう収まりのつかない思いを発散させてゆくのだった。

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