das Unbedingte
@tanitani000
珈琲薫るる虹を超えよ
「心ならずもこの悲痛な地上に投げ出された、
──マルキ・ド・サド『閨房の哲学』「すべてのリベルタンへ」より抜粋
序−1
峯撫はその部室へと、いつもどおりコーヒーをねだりに行くつもりだった。そうして気の早すぎるほどの早朝に(……学校の門が空いてるのかさえ怪しい、空も暗めなこの時分からであるが、)峯撫は元気溌剌としてその登校路をゆくのだった。
彼女は、膝のうえですこしちらつくスカートの裾を五月の風に揺らし、白の夏服なYシャツをつつむクリームのカーディガン、そのむなもとへ黒い刺繍の学徽章を示しだしていた。
その左胸の徽章というのは万年筆と鳩杖が斜めあって交差しあい、これにくわえて水平に«島国»刀が懸けられている。これが«島国»古来の盾の長方形をした枠の中に印されて、ややはみ出ているようだった。
こんな徽章が、峯撫のしなやかな身のこなしのなかで、スレンダーな身の軽さそのようにカーディガンのうえで、フヤフヤと波立ってさえいたのだった。
明朗とした顔立ち、眼には輝き──これを天敵にする人々がいるほどのこれを宿しながら、彼女は仄かなひややかさ、春の朝がみちたりゆくなかを進んでいった。
快活な足取りなのは、冬でも脚の素肌を出していたあの時分のえげつなさが無くなったから、それだけではなかった。朝に起きるのも、中学のころのようには苦にはならなかった。
高校に入ってみて随一、てきめんに良かったと思うのがほかでもない、朝イチに
つまりこれから行く彼女を待ってくれている、それであった。学校への登校からそのまま直行でコーヒーを一杯、それも、淹れる当人のこだわりが見事に実を結んでいる味わいの之を、なんと善意からの無償にてご馳走になれるとくる。
今日は月曜日だったけれども、ブルーマンデーとはならないのだ。峯撫はニシシと一人ほくそ笑んだ。なにせ、もしかしたら今日はブルーマウンテンをも味わえるかもしれんね。なんぞ気落ちせんや? まあ私は酸っぱいのは苦手分野だが、しかしともあれ高いモノなら味わっとくべし。若いうちにそういうもの、体験すべし。それもタダで出来んならまさしくそうすべし。
そういうふうに、試食コーナーでは無類のいけずさを発揮する峯撫はここでも彼女らしく、なんの気後れもしていなかった。
なにせ、とんだ棚からぼた餅である。いわんやぼた餅が欲しくなる。そんな、あのコクのあるコーヒーの味わいはまさに珈琲というべきだろう。そうそう。
峯撫は以前の彼女ならばあり得ないような浮かれっぷりのまま、最近はいささか肥え気味な舌をなめずりなめずりとしながら、歩いていって、道を曲がった。
すると前の方に見えてきた彼女の高校、その校舎のうちで古臭いほうのそれに自然と目がいった。
この距離からでもみえる建物はおおよそ二つあった。一つは古くからの伝統あるボロい学びやで、これが高等部である峯撫が行こうとしていたものだった。しかしこの一つというのは、一個の校舎にみえてその実はいくつものタイプの違う分棟があわさりあい、連結して、集合体じみているこれだった。
この上から見てみればTの字を逆にした形のなかに収まった分棟のうちで、一棟ごと部活や委員会のために使っているのが三十一号館とよばれるそれだった。本当は四とナンバリングされるべき棟なのだが、有りがちなゲン担ぎで四=三+一、そうしてプラスは漢字ではないから十でそれっぽくした結果、三十一号館というわけだった。生徒総会で提案され、厳正な選挙の結果、承認されたれっきとしている正式な呼称であった。
良くも悪くもこの学園は、校舎の名前から生徒会長の指名までも、生徒が自治できるところはまったくフリーダムにさせる学風なのだった。峯撫の珈琲うんぬんもまたしかり、なのだ。
彼女はここまで来て、なんて学校だ! などと一人憤ったりしてみたが、そうしたところでいまや、
そのとき峯撫の足元へと、彼女のかげが素早く、のっぴきならないといわんばかりに縮こまった。朝日が雲の布団から、ようやっと身を起こしたのだった。
まだよわよわしいこの大陽は寝ぼけなまこなまま、どこか淡くやわらかな春の日光を、まばゆく大地へと差し込ませた。東の空はパッときらめきがかり、そうしてから地上一面のなにかを刹那の間に洗いおとすように、瞭然と照らし出してみせた。
漠然とした暗がり、居残りの夜闇もこれには退散し、街中で光と影がはっきりと別れた。峯撫の影も、女子の中では比較的めだつそんな彼女の背から、いつの間にか、まるで何ともなかったように西のほうへと寝っ転がっていた。
空のほうを見やれば、朝焼けが、先の起き抜けにのこり香をかぐわせて、青空をひそめてさせているようだった。
この日射しが示しだすように照らしだす
安寧でしずかな、朝の人気のない構内をとおって、逆T字型の高等部校舎に居入る。それで校舎のまえを横たわる回廊のうち、右がわへと曲がり、このうちで三十一号館の前まですすんできた。
するとこの背の低い号館は、この味気なくむなしい館容を、ほかの号館にはさまれて締め出されそうになっていた。いじけきり俯いて、力なくしょげかえっている老いた、痴呆になり果てた建物だった。
K坂のカルチェラタン、古き良き時代の生き証人、老いて益々盛んに漲っていたまばゆいこれを、その意気軒昂な、出る杭なような時計台をまずは取り潰し、扁平な屋根に伸し、そのまま木造のつややかな鮮やかさそのものを根底そのものから
そうとでも言ってしまいたいような、
フッ、フッ、ふーん! ふふっふふっふフーン!
峯撫はこうも鼻息荒くファランドールの旋律を意気ごませながら、三十一号館の入口である観音扉をあけて入っていった。まだ照明は非常灯あるいは窓から入る朝日といったばかりである。
しかし誰かがすでに、先に来ているに違いなかった。なんたってなにか、甘い香り──キャラメル? ──がふわりと漂っていき、峯撫の鼻もとをひこめかせたのだ、思わず。
これが漂ってくる先へと足を向ける。
──ふゥむ……? ……ぅふーふーふふふふ フーフふふフぅーンっ ふふむーんむむんむむん、むふフフふふーン……
においの香ってくる辺りが、そもそも峯撫がめざしていた所と、微々とさえ変わっていないとなってきたので彼女の機嫌は鼻歌ともども、絶好調になっていった。
このフレーズをつづけざま、いきついた上階への階段をあがっていきステップひとつひとつごと、合いの手でテンポを取るように、ローファーの踵で打ちつけて硬質とした音をたてさせる。今日はコーヒーだけじゃないかもしれないぞ! いやベツに、キャラメル……キャラメルのコーヒー……。ん、それでもワタシは一向に気にせん!! こう峯撫はだれにともなく、顔を力んでみせて
「あ、へちゃむくれ」
階段の上のほう、この踊り場からそんな低い声が飛んだ。峯撫はおもわず見上げて、目がくらんだ。
窓は、踊り場から外へと面して開け放たれていた。東のほうにある窓であるのだろうか、この長四角なアルミサッシ枠のなかで、白日がそのうらかがやく陽光をまっすぐ迸っている。これに逆光するように、青天白日を切り取った窓辺へと向かいあって、人影が立っていた。
「げー……。び、ビョウブガウラせんせー……」
人影は紫煙を吹いた。
峯撫は怯んだ。それ以前に、この教師が校内での不良喫煙をいとわないヤニカスそのものの有り様だったので、引いた。
知人にとどめておきたいレベルの、峯撫と同性であるが大人で、学園では目上であって権力も上な、そういう煙草狂いな女と出くわしたのだ。人間として見下しているのが素ででてしまった。
屏風ヶ浦はにやりと、葉巻のような、しかしそれにしてはもとから細く、つつましげなそれを斜めに咥えて、口もとでまじえながら笑った。
峯撫もこれには顔をしかめた。
「おっ、またまたへちゃむくれ」
屏風ヶ浦はこう言いながら、口や鼻から乳白の
そうして気がついたときには、匂いが凄いものだった。燻製じみた、いぶり臭いそれだ。しかし此処まで峯撫が来てみて、はじめて分かる程度だから、おそらくはこの階段の踊り場で吸いはじめたのだろう。この屏風ヶ浦のシガリロは、そうしてこの芳香というのは、さながらしつこい香水よろしく、かつて屏風ヶ浦がそこにいただけでも後々まで鼻に感ずるほどなのだ。
それが此処に来るまで気が付かないとくれば、この女不良教師はわざわざ、朝だれとも出くわさないために此の場所を見繕って、そうして今まさに吸いはじめたのだろう。峯撫はふと危惧した。まさか私のキャラメルコーヒーの甘い匂いにつられたのか、蟻のように。いや、ヤニカスだからには……嗅覚!? ◯だはずでは!?
まあトリックが何であれ、これは対峙せねばなるまい。強いてでも追いはらわなければ! じゃないと、これからはじまる私のコーヒーブレイク、朝の一服がおじゃん間違いないってもんです。こうも野蛮なる闖入者なれば、生徒、ワタクシのような小股の切れ上がった花も恥じらう十六夜の乙女が、朝から、ご高尚にも淹れたての珈琲を飲んでいるとわかれば……。
絡まれて。脅されて。虚仮にされて。その最後にはカモにされて、えんえんイビられつづけるに決まってる。そうだと、き◯ゝに書いてあったような気がする。わたくしは
と、屏風ヶ浦が口を開いた。
「おーし、だいじょーぶ……どうどう! 峯撫ちゃんたちが朝こーひーしてんの、もお知ってるよ〜。……そんな意固地なカオしないで?」
にやにや。そう笑ってからそのまま一服呑んだ。シガリロのさきで火があかく、ちょっとだけ灯ってから、また白煙へとかき消えた。この色づいた、甘めに渋いような、濡れた森土の風味さながらな、のったりとした花蜜の燻香じみたこれが、階段を柔かに立ち込め、舞揺れて、くゆる。
「──そんなにさぁ、おどろくなよぉ峯撫ちゃん! 目をおっぴろげて口をま開きにしても、私のヤニにアタっちゃうだけだぜ。……ちゃーんと毎朝、私もモラッてたんだ。コーヒー。うまいもんねぇ?」
でもナンカ今日はさー、職員室、朝来ても私の机のうえにさ、コーヒー、なくってさー? 困るってゆーか、むなしーっつーか……。物足りんくて、ここまで来ちゃった訳。でもなんか今日、カレ居ないっぽいんだよね〜……。
屏風ヶ浦のそんな饒舌を、なんとはなしげにながしながら、峯撫は階段をのぼっていった。開けた窓の横に立つ屏風ヶ浦、そうしてこの紫煙を横切り、その階のつきあたりにある教室のまえまで行く。
たしかに、当の教室は開け放たれており、サイフォンがコポコポ、下から上へとだんだんに炊き上げるがごとくやっていた。
いっぽうまだ窓際に居座る屏風ヶ浦が、ふうと味わい深く嘆息して、諦め悪くあのシガリロをもう一口ふくもうとした気配があった。
「あれ?
屏風ヶ浦がそう言った。
肘をついて乗り出した窓辺からみえる景色のなかで、ある一人の男子が校門へとその前の坂を登り、やってくるのを彼女は見出した。髪を一本に結んで片肩からさげた、そのおさげごと首を傾げて彼女はごちた。
じゃあダレがコーヒー淹れたん?
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