渡せなかった手紙

@setsuna118287

渡せなかった手紙


自宅の呼び鈴が鳴った。

良く晴れた昼下がり、リビングのソファーに腰掛けて趣味の縫い物に更けていた時のことである。


「はーい」


張りはあるが年期の入った老婆の声が、その音に呼応するように発せられた。

途中まで針を通した布をテーブルへと置き、老婆は歳を感じさせない姿勢のよい足並みで玄関へと向かう。


(誰かしら…)


昔からの習慣ですぐに扉を開けることはせず一旦立ち止まって覗き穴を確認するが、おかしなことに外には誰もいない。


(…?)


しかしよく見ると下の方にぼんやりと影があった。


子供である。


こっちが覗いているのを知ってか知らずか、穴の方に顔を近付けようと必死で背伸びして存在を主張する様子が愛らしい。


(まあ…随分可愛らしいお客様だこと)


思わぬ来客に老婆はフフッと笑みをこぼしながらゆっくり扉を開けた。

玄関に身を寄せていた子供はいきなり動いた扉にぶつかりそうになって慌てて避ける。


「おっと」


「あらごめんなさい、大丈夫?」


老婆の呼び掛けにハッとした子供は、あらたまった様子で衣服のシワなどを小さな手で伸ばし、簡単に身だしなみを整えた。

驚いたことにスーツ姿である。

黒いネクタイをクイッと締める仕草からは几帳面な性格が見てとれる反面、まだあどけなさの残る幼い顔立ちのせいでどうしても滑稽に見えてしまう。

コホンと勿体ぶった咳払いの後、スーツの子は口を開いた。


「お迎えに参りました」


それが何の迎えなのかすぐに察した老婆は笑顔で返す。


「まあまあ、わざわざありがとう。すぐに準備するからちょっと上がって待っててもらえる?」


扉を大きく開いてスーツの子を中へと招き入れる。

失礼します、とスーツの子は律儀に一礼してから靴を脱いで家へと上がった。

その際靴を揃え忘れたことに気付き、後ろを向いてすぐに直すと再び老婆についていった。


「ごめんなさいね、まさか今日お迎えが来るなんて思ってなかったものだから…」


リビングへ案内するなり老婆は慣れた様子でテーブルの上の裁縫セットを片付けると、代わりにお菓子やジュースを持ってきた。


「どうぞ、座って召し上がってね」


「あ、いえいえおかまいなく」


老婆がテーブルを離れ、あちらこちらに動きながら身支度を始める様子を見せたため、スーツの子はちょこんと遠慮がちにソファーへと座る。


「それにしても何を持っていけばいいのかしら…」


困ったように荷造りを進める老婆の背中を見て、スーツの子はばつが悪そうに口を開いた。


「その事なんですが…持っていけるのは、この部屋の中からひとつだけなんです」


「そうなの?ひとつだけ?」


ぎょっとした顔で振り向く老婆。


「すみません、そういう規則なんです」


「そう…。困ったわね、どうしましょう…」


ひとまずテーブルの向かい側へと腰を下ろして一息つく。

たったひとつしか持っていけないのでは荷造りも無意味と知り、頬杖をついて考え込んだ。


「お財布やお洋服も含めてひとつだけなの?」


「はい。でもこちらの通貨は向こうでは使用できませんし、衣類等の必要なものは全てこちらでご用意させて頂きますので」


「そう…。じゃあ生活用品は必要なさそうね」


老婆は部屋の中を見渡す。

他人からすれば、そこには何の変哲もない家具などが並んでいるだけだろう。

しかし老婆にとってはその視界の中に入るひとつひとつが数十年間生活を共にしてきた思い出深い品だった。


夫と一緒に使ったマグカップ。

息子がプレゼントしてくれたミシン。

孫と一緒に遊んだぬいぐるみ。


目の前の棚だけでも、それだけの思い出が詰まっている。

この部屋の中からひとつだけといわれても、そう簡単に選べるものではない。

ぼんやりと古びた棚を眺めていた老婆は、不意にゆっくりと腰を上げてまるで吸い寄せられるかのように写真立てを手に取った。


「……」


「素敵なご家族ですね」


少しの間物思いに耽っていた老婆は、いつの間にか隣に来ていたスーツの子から声をかけられて笑顔を見せる。


「ありがとう。この右にいるのがうちの長男とその奥さんで、私が抱いているのが初孫の女の子。それでね…」


老婆は別の写真立てを手に取る。


「こっちが次男と三男の家族。こっちは娘夫婦の写真なの。見て見て、この孫の顔、あくびしてて凄く可愛いのよ」


とても楽しそうに語る老婆の様子に、スーツの子も微笑みで返す。

しかし、ニコニコしながらいろんな写真を手にとっていた老婆の手が一瞬だけ止まった。

どうやらそれは特別な写真だったらしい。

口元は変わらず緩んだままだが、瞳の奥はどこか寂しげな光を放っていた。


「…随分昔の写真だけど、これが私の夫」


老婆が写真を持つ手を下ろすと、スーツの子は興味深げに覗きこんだ。

そこに写っていたのは老婆がまだ三十路くらいの頃だろうか。

顔つきから今と同じ面影こそ感じられるものの、白髪も少なくまだまだ若々しい雰囲気だ。

幸せそうな笑みを浮かべる女性の隣には、それとは対照的にぎこちなく笑う男性がいた。


「あの人ったら写真に写るのが苦手でね、せっかくの記念写真もこんな顔ばっかり」


「へえ…」


「…17年前にね、癌で亡くなったの。しかも誕生日の二日前だったのよ。あとちょっとでお祝いができたのに…」


言いながら老婆は何かを思い出したのか、急に戸棚の引き出しを探りだす。

案外それは早く見つかったようだ。

すぐに奥の方からピンク色の薄い封筒が取り出された。


「それは?」


スーツの子が尋ねる。


「手紙を書いてたの。誕生日のお祝いに、今までの感謝とか想いとかを伝えようと思って。…でも結局渡せないまま、捨てることもできずにしまっておいたの。可笑しいでしょ?」


と老婆は下唇を噛む。


「亡くなる間際も、私は動揺しちゃって何も言えなかったのにあの人ったら最後に何て言ったと思う?『先にあっちでのんびり待ってるから、慌てずに人生を楽しみなさい』だって」


言っている間、ずっと視線を落としながら手紙を撫でる老婆。

当時の様子が脳裏に浮かんだのか、涙こそ出ていなかったもののその背中はとても寂しそうであった。


「夫を失ったのはとても辛かったけど、その言葉のおかげで子供や孫達と楽しい人生を送れたわ…」


ここでようやく老婆は顔を上げて、気まずさを誤魔化すようにスーツの子へ微笑みかけた。


「さすがに17年も経ったら覚えてないでしょうけど、あの人は天国で幸せに暮らしてるのかしらね」


目が合い、スーツの子はキョトンとしていたがすぐに微笑みで返す。

そして意外にも、答えを必要としていないただの独り言だったはずのそれに答えた。


「ええ、ご主人なら今も向こうでお過ごしですよ」


「…え?」


少年の言葉に思わず聞き返す老婆。

その呆然とした様子にスーツの子はクスリと笑う。


「きっと奥様に逢えて凄く喜ぶと思います」


「主人と、また逢えるの…?」


「はい。もうとっくに生まれ変わりの順番は来てるのに、ずっと『妻が来るまで待つ!』って言って聞かないんですよ。職員もみんな困り果ててます」


スーツの子の言葉を理解するやいなや、老婆は口元を押さえた。


「そう…。まだ待っててくれたの…」


微かに震える唇から、絞り出すように声が洩れる。

笑いを我慢しているようにも、涙を堪えているようにも見えるその様は、やがてほぐれて安堵の表情へと変わった。


「…うちの主人が迷惑をかけてごめんなさいね。昔から頑固なところがあったけど、あっちにいってからも変わってないみたいね」


苦笑いを浮かべるスーツの子に対して老婆は続ける。


「向こうへ行ったら耳を引っ張ってやらなくちゃ。今は私が歳上だもの、多少くらい良いわよね」


まるで無邪気な子供のような笑みをこぼす老婆。

再会を想像して胸を躍らせているようだ。


「…ちなみに、そろそろ出発のお時間です」


チラッと腕時計を確認したスーツの子から声をかけられ、老婆は我に返る。


「あらごめんなさい。それじゃあ行きましょうか」


「お持ち物はどうされますか?」


「そうね…。これにするわ」


先程まで悩んでいたのが嘘のように、持っていた手紙を見せてあっさりと言ってのける老婆へスーツの子は念を押す。


「一度ここを出たら変更はできませんが大丈夫ですか?」


「ええ、もう大丈夫。これだけがずっと心残りだったから」


「分かりました。それでは出発しましょう」


スーツの子に差し出された手を老婆はゆっくりと握る。


いざなわれるまま玄関の扉を開けると、そこには眩いばかりの光が広がっていた。

老婆はその美しい光景に思わず息をのむ。


「綺麗ね…」


「ええ、とても素敵なところですよ」


「どんなところなの?」


「それはですね…」


談笑しながら二人は光の中へ歩んでいく。

その温かな光はまるで最愛の人の抱擁のように、二人を優しく包み込んだ。








おわり

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