マッドスパイダー

 マッドスパイダーの住まう森の雰囲気はどこか薄気味悪い。


「どうかしました?」


 踏み込んですぐ足を止めたことにサーラちゃんが声をかけたけど、ハヤトは怖気づいたわけじゃない。


「制限時間のタイマーが出た。四十分だって」


「このクエストの制限時間でしょうか?」


「うん、そうだと思う」


 四十分以内に救出しないと孵化した蜘蛛の子らに食べられてしまうに違いない。


「急ごう」


 草木を掻き分けて進む森は移動速度に制限がかかる。速度を上げると体力が消耗して、戦闘時の行動に影響がでるし、大きな音を立てるとモンスターに発見されやすくなる。マッドスパイダーとの戦いに備えて無駄な消耗は避けたいけど、視界に表示されるタイマーがふたりの気持ちを焦らせていた。


 森をさ迷うなかで大きな時間のロスとなったのは、ウサギ型モンスター【ブラビット】との遭遇だ。


 猛獣と違って無表情で襲ってくるウサギってなんか怖い。ペットとして飼えなくなりそうだ。ウサギが『淋し過ぎて死んでしまう』なんて歌詞を聴いたことがあったけど、餓鬼が如く襲ってくる雑食小動物が死んでしまう理由は空腹だろ。


 跳び付いては噛みつくを繰り返すだけなのに、俊敏な動きに翻弄されてなかなか攻撃が当たらない。広い平坦な地形ならともかく、遮蔽物が多くて動きづらい森の中では地形適正の利と不利がかなり出ている。


「サーラちゃん後ろ!」


 ハヤトの掛け声を受けた彼女は咄嗟にしゃがみ込んだ。空振ったブラビットを盾タンクがシールドバッシュで叩き落とし、ハヤトが切り飛ばしたところをアーチャーがトドメをさした。


「ありがとうございます」


 ひと息吐くハヤトにサーラちゃんがお礼を告げたときだ。遠くからガサ、ガサと木々を擦り揺らす音が近づいてくる。ふたりも気がつき、その方向を見上げた。


「マッドスパイダーです!」


 彼女の声が悲鳴じみた叫びになる理由。それは、モンスターの姿があまりに気持ち悪いからだ。これ絶対ゲーム内で失神する人いるでしょ! リアルを追求するあまり、とんでもないモンスターを作り上げてしまったゲーム会社にクレームが殺到しそうだ。


 サーラちゃんのステータスに【恐怖】と【萎縮】が付いた。これはVRマスクとリストバンドを通して、脳波やら脈拍やらの情報を読み取っているらしい。


 行動遅延や行動制限のかかったサーラちゃんを守るべく、NPCに指示を出したハヤトはマッドスパイダーに向かっていく。二年前までカブトムシやカマキリなんかをいじくっていたから平気なのかな?


 できればこちらが先に発見して奇襲をかけたかったけど、ウサギを相手にワチャワチャしていたことで気づかれてしまったようだ。


 長い手足を含めれば自動車くらいの大きさのマッドスパイダーが、生い茂る草木を物ともせずに近づいてくる。


 これがゲームなのだと唯一感じさせるのが頭の上に浮かんでいるモンスター名だ。その前にある球体のシンボルが、白、青、緑、黄、橙、赤、黒というようなグラデーションでプレイヤーとのレベル差を現わし、ハヤトの視界から見えているのは濃いめの橙色という危険な色だった。


 パーティー編成や装備や地形やプレイヤースキルなどの条件によって違うけど、一般的には白から緑までが安全圏だ。単純なレベル差で比較すると、このマッドスパイダーとの力量差は適正範囲を超えている。おい、アドミス! モンスターの強さが恋愛の難易度だと言っているのか?!


「隼人、逃げろ!」


 思わず出た声は届かない。私が届けられるのは声じゃなくて女神の御業だ!


 【女神の声援】(攻撃強化:小、効果時間:一分)

 【女神の威厳】(モンスターの弱体:小、効果時間:一分)


 NPCは盾持ちのタンク職と中遠距離の支援職だからまだいい。問題は前衛で戦うハヤトだ。鍛えられたプレイヤースキルと森という障害物が多い地形であることが幸いして、どうにか瞬殺されることなく戦っていた。このゲームがターン制バトルだったらこうはなってないよね。


「凄い」


 そう言葉を漏らしたサーラちゃんから【恐怖】のバットステータスが消えた。頼もしさを覚える戦いぶりに勇気づけられたのだろう。


 ハヤトが引きつけ、アーチャーが牽制し、盾タンクが斬り付けるという連携は悪くない。NPCの援護もあって高レベルのモンスターと渡り合っている。チクチクと撃たれる矢を嫌がる蜘蛛の隙を突き、ハヤトの渾身の技が背後から決まった。


「やりー!」


 私がガッツポーズを決めたとき、飛び下がるハヤトの足を蜘蛛の糸が縫い付けた。


「あー!」


 切り払おうとしても粘着する糸は剥がせない。このピンチに飛び出した盾タンクの思考ルーチンは優秀だけど、マッドスパイダーを相手にそれほど時間は稼げないだろう。


 サーラちゃんが助けに駆け寄るけどオロオロするだけで何もできず。ふたりのステータスにはスキルや魔法が失敗しやすくなる【焦燥】のバッドステータスが点灯し始めた。


「蜘蛛の糸ってどうやったら取れるのよ」


 女神の御業の一覧にそれらしいモノはない。


「焦るな。一番冷静になれるのは女神の私だけじゃんか」


 ゆっくりと呼吸を繰り返しながらハヤトのステータスやスキルや道具などを探った。治療ポーションに毒消し、スクロールにナイフに食料。未装備品の清流の腕輪は治療系の回復強化だ。必死に回転させた私の有機頭脳が、記憶の引出しからひとつの情報をピックアップした。


「蜘蛛の弱点は『火』だって言っていた。スクロールだ!」


 思い至ったのは火の魔法が使えるスクロールの存在だ。


「ハヤト、受け取れ!」


 使う御業は【女神の囁き】。送る思念は『スクロール』、『糸』、『燃やせ』の三つ。六十秒の入力の猶予は無意味。マッドスパイダーがNPCの守りを抜けてくるまでが勝負だ。


「唸れ、分速二百七十八文字の高速タッチタップ!」


 私の念は心地良さを超えたタイプ音で打ち込まれ、ゲーム世界のハヤトへと送られる。幾度もテケテケテケ……タンと繰り返されるなかで、ハヤトはサーラちゃんに向けて叫んだ。


「フレイムのスクロールだ!」


 間違いなく届いた私の念によってハヤトが彼女に指示を飛ばすと、察しの良いサーラちゃんはスクロールを隼人に向けた。


「フレイムアロー」


 火のイラストとそれを取り囲むルーン文字が光って炎の矢が飛び出した。ピンポイントでハヤトの足に刺さった炎は一瞬大きく燃え上がり、同時にハヤトは足を引き抜いて糸を千切った。


「癒し、清めよ

 悪意ある刻印を

 ケアリオーラ」


 敏捷力が低下するほどの怪我を素早く治療するサーラちゃん。その手際に「ありがとう」とお礼するハヤトの目は、すでに蜘蛛に向けられている。それは男の子の目じゃなくて戦士の目だ。ならば女神も応えよう。今は愛の女神ではなく、戦いの女神となって!


 【女神の羽根】(俊敏性:小、効果時間:二分)


 ハヤトの頭上から白い羽根が舞い散ると、治療を終えたその足で軽やかなステップを踏んで飛び出した。もともとの体術と相まって、ハヤトの動きはウサギのモンスター【ブラビット】すらも捉えられそうだ。


 サーラちゃんは盾タンクの治療をしている。これで今日は五度めとなるので、そろそろMPがレッドゾーン。まだまだ初級冒険者なので、MP回復のポーションは手に入りづらく、彼女のストレージにはひとつだけ。女神の私も回復する術を持っていない。


「やっぱりマッドスパイダーを倒すのは無理だ。逃げたほうがいいって」


 ハヤトのスタミナゲージは半分を切った。動きが良くなった分だけ消費が早い。アーチャーの矢も残り六本。なくなったら落ちている矢を回収しながら撃つか短剣による接近戦だ。うまく立ち回ってはいるけれど、戦っているというより防戦しているというのが適切な表現だ。たまに入る攻撃もたいして効いている感じがない。


「なんでこんなに強いモンスターが配置されてるんだよ。バランスブレイカーだな。残り時間六分だぞ。こんなんでリディアちゃんのお父さんを助けられるわけ……」


 そのとき、頭を抱える私に天啓が下りてきた。


「違うぞ。マッドスパイダーを倒すんじゃない。ハルクさんを助けるクエストだ」


 女神の私に天啓ってのはおかしなことだけど、これがこのクエストのキモに違いない。


「サーラちゃん気づいて!」


 やることはもちろん【女神の囁き】だ。耳障りなお経のように聞こえていたなら申し訳ないけど、察しの良さげな彼女ならば、きっと気づいてくれるはず。


『今のうち』、『救出』、『ハルク』、『チャンス』


 文章じゃなくて単語で。わかりやすさが重要だ。


 ハヤトたちがマッドスパイダーを引き付けているあいだに、サーラちゃんがハルクさんを救出に行く。時間内に助けるにはこれしかない。残り時間が五分を切ったところで、戦いを見守っていたサーラちゃんの足が動いて走り出した。


「わたしがハルクさんを助けに行きます」


 使えるな、【女神の囁き】!

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