大作戦
「ただいまぁ」
リビングのほうからは返事はない。十七時を前に誰もいないということは、お母さんは買い物に出ているんだろう。玄関で靴を脱ぎながら、私は大きく息を吸い込んだ。
「はーやーとー!」
二階に向かって放たれた声は空気を伝い、壁に反射し、部屋の扉にぶつかったはずだ。いつもお母さんの声ですら聞こえるのだから、この声は届いている。だけど、部屋の中に届いていてもマスクを被っている弟には届かない。
「だよね」
階段を上る足に力が入る。部屋の前で耳を澄ます。扉を開ければベッドに横になっている隼人の姿があるはずだ。今のところ使ったのは千
ドアノブを握る。ひと呼吸置いて引き開ける。そこから流れ出てきた猛烈な熱気で答えを察した。
「居ねぇのかよ……」
さすがにこの室温の中でゲームのプレイは無理だろう。
部屋の窓を開けてパソコンのモニターを点けると、宿屋の扉に『就寝中』のメッセージが表示されている。VRマスクの映像も同じだった。どうやらプライバシーは保たれているらしい。だからこそ疑いようがない。
「これはもう確定かな」
異世界としか思えないゲームの世界を体験させられても、実家に帰ってくるまでは万が一の可能性を捨てられなかった。だけど、弟が姿を見せなくなってから十時間。深夜からなら十五時間くらい経過している。
ゲーム内のハヤトは自動で動いているし、VRマスクから聞こえる弟の声を聞き間違えるはずもない。
女神アドミスの言うことが本当ならば、隼人は女神に選ばれた冒険者としてフロンティアのゲーム世界に召喚された。そして、このことは公表できず、ゲームで死ねば本当の死……。膝から崩れるのにこれ以上の理由が必要だろうか。
誰にも言えないのだから資金の援助は難しい。学生の私はクレジットカードを持つことを両親から禁じられている。となれば、この身ひとつで稼ぐしかない。
「ともかく、明日のバイトを捻じ込まなきゃ」
私は素早くスマホを取り出してバイトアプリを立ち上げた。
できれば二件で明後日も二件。今月分は来月の中旬ごろに振り込まれるから、そこまでの給料は日払いだ。なんたって口座の残高は一万ちょっとしかないのだから。
だけど、そんなに都合の良いバイトがそうそうあるはずもない。私のテリトリーはけっこうな田舎だ。
「残る問題はお母さんたちへの説明かぁ。いや、説明しようがない」
このことはいろんな意味で大問題だ。誰かにバラしたらどんなペナルティが課せられるのかわからない。かといって行方不明なのだとわかれば捜索願いが出される大事になる。まして、ゲームの中にいるなんてことが発覚すれば、国家どころか世界規模の大問題だ。きっと隼人の命はないだろう。
考える時間が必要だ。お母さんと鉢合わせたらなんと言えばいいのかわからない。一週間くらいは向こうに泊っていることにして、そのあいだに手を考えよう。こんな超常的な出来事をどうこうできるはずもないのだけど、今はここから逃げることしか考えられなかった。
デスクに置かれた隼人のスマホを掴み取り、窓を閉めて階段を駆け下りる。靴を履いて立ち上がったとき、玄関の扉が開いた。
「日奈子、どうしたの? 向こうに帰ったんじゃ?」
「あ、えーっと」
やばい、どうする。どうする、どうする、なんて言う。
左手に握りしめた隼人のスマホに視線を落としたとき、極限の緊張の中から画期的な案が生まれた。
「隼人がスマホ忘れたから取りに来たの。馬鹿よね。今朝迎えにきてもらったから私が取りにきてあげたってわけ」
「あの子ったらおっちょこちょいね」
「ホントに。無駄に電車賃使っちゃったわ」
お母さんは財布から五千円を取り出した。
「お釣りはあの子と何か食べなさい」
母心を見せつけた私の憧れの女性は、買い物袋を持ってキッチンに入っていく。お母さん、ありがとう。この恩はいつか返します。ハヤトが。
駅に向かった私は電車には乗らずにファミレスにいた。向こうに帰っても隼人がいるわけじゃないし、今後の方針を考えなければならない。その最たるはお金だが、同時に隼人の存在をどう隠すかも重要だ。
しっかりと補充した水分と糖分に加え、小気味の良いミュージックがリラックスを促進させてくれる。カフェラテのカフェインがほど良い興奮を与えてくれた十八時十八分、私は現状で最高の作戦を打ち立てた。
「もうこれしかない。明日のバイトを二件と明後日二件。これをなんとかしないと」
ファミレスで飲み食いしながら、どうにかバイトを決めた私は、大学のある住まいには帰らずに実家に戻ってきた。明日また来ても良かったけど、電車賃が勿体ない。その分はジュエールにつぎ込ませてもらった。お母さんゴメンね。
「ただいまぁ」
実家に舞い戻った私を、困惑した表情のお母さんが出迎えた。
「どうしたの? また忘れ物? それとも隼人と喧嘩でもした?」
「喧嘩したなら帰ってくるのは隼人でしょ」
胸をドキドキさせながら素知らぬ顔で家に上がった私は、ファミレスのドリンクバーでタプタプの胃袋に、さらに麦茶を流し込みながら演技を始めた。
「隼人がね、いい機会だから自炊しながらひとり暮らしを体験してみたいって言ってさ。最初はあいつに家事をやらせて一緒にって思ったんだけど、それだと口出しされちゃうからって」
「それで戻ってきたっていうの?」
「まぁね。だけど半分は私が実家でゆっくりしたいから。夏休みのあいだくらいはダラダラさせてぇ」
と言ってお母さんに抱きついた。
長男の自立と長女の甘えのコンボ技だ。この攻撃にはお母さんも耐えられまい。心臓をバクバクさせながらホワホワな態度で接するのはかなりきつい。お願い、お母さん。
夏休みでなければ不可能な大作戦にすべてを懸けた女神ヒナコの願いは、大女神ヤヨイに受理された。それもあっさりと。
「なら、三ヶ月で培ったスキルを役立ててよね」
「私の料理が食べたいの?」
「それは私が仕事で家を空けているときに役立てて」
「自炊の味に飽きてるから自分には役立たないスキルなのだけど」
ともかく、これで時間は稼げる。あとはお金を稼ぐだけだ。
次の日は早朝七時に家を出て、都内のカフェのウェイトレスの仕事からスタートし、夕方から夜まで居酒屋のホールをこなした。
仕事のあいだはサポートができないので休憩までハラハラしながら働いた。そのあいだはこれだけ使っておいた。
【女神の鑑定】(手に入るアイテムの性能が高くなる。効果時間:一時間)『千
【女神のお宝】(モンスタードロップや宝箱のアイテムのランクを上げる。効果時間:一時間)『千
異常に高いハヤトの幸運値に期待しよう。でも、隼人のリアルラックはけっこう低いから相殺されるかもと、少しの後悔があった。
二十二時にバイトを終え、久しぶりの満員電車に揺られる私は、立って寝そうになりつつもスマホでの監視は怠らない。その監視対象は現在レベリング&金策中だ。
フロンティアの一日は現実での八時間。なので、ハヤトの睡眠時間はだいたい二時間ちょっとくらい。アクティブタイムは深夜の二時から六時、十時から十四時、十九時から二十三時。その時間が向こうの世界の昼間ということ。
深夜、お昼前後という時間にアクティブなのはバイトをしている私にとっては正直辛い。なのに、女神の御業を使う
現在【女神の恵】という高額の御業を使うかどうかスマホを睨みながら悩んでいた。
レベルアップするとボーナスポイントが必ず2ポイント貰える。どのパラメーターにも入れられるこのポイントでプレイヤーはキャラに個性を出すのだけど、【女神の恵】はそのボーナスがさらにプラスされるのだ。他のプレイヤーにはない凄い恩恵なのだけど、得られる確率は五十パーセント。それでいて高額だから使うかどうか決めきれずにいた。
レベリングをおこなっているハヤトは、もうすぐレベルが四になる。チャンスは一レベルに一度きり。もってけ泥棒!
モンスターを倒したハヤトのレベルが上がった。上昇した各種項目の一覧の最後に表記されたレベルアップボーナスは………『2』。外した。
「金返せ!」
満員電車に私の声が響き、人々の冷たい視線に祝福されて、私の女神レベルも上がった。
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