第8話 事故

部屋の中に、異様な静けさが降りていた。

さっきまで荒れ狂っていた音も、焦げた匂いも、いまは嘘みたいに消えている。

岡戸の能力によって、外の世界からはこの惨状すら認識されていない。


――まるで、この部屋だけ時間が止まったようだ。


床に倒れた君名は、胸元から赤い色を滲ませながら、虫の息だがかすかに息をしている。

血に染まった瞼は閉じられたまま。


「……助かるのか」


かすれた声で問うと、岡戸は壁に背を預けたまま、無表情で答えない。

彼の右手からは、淡く光る波のような“揺らぎ”が漂っている。

それが部屋の境界を包み、現実そのものを覆い隠していた。


「死なせねぇよ。俺の能力があるうちは、な」


いつもの軽口とは違う。

その声には、焦りと決意が入り混じっていた。

額を流れる汗が、青白い光を反射している。

能力――「認識遮断」。

範囲内で起きた出来事を、外の世界から完全に消す。

外の人間は、ここに“何もなかった”と思い込む。

だが、維持するには膨大な精神力を使う。

岡戸の顔色は、限界の色をしていた。


「星咲は逃げた。……いや、“あれ”は星咲じゃねえ」


岡戸の低い声に、私は唇を噛んだ。

あの笑い。

あの血のにおいと、肉を貫く音。

星咲紅葉が、あんな目をするはずがない。

あれは、もう別の何かだった。


「偽物……だな。あいつ、星咲の能力を使ってた」


岡戸は短く頷き、黙り込んだ。

外では風ひとつ吹かない。

この部屋だけ、現実から切り離されたように沈黙している。


私は君名のそばに膝をついた。

彼女の頬は冷たい。

髪の隙間からのぞく首筋には、脈がわずかに打っている。

生きている。――でも、このままでは。


「呼ぶしか無いな」


岡戸さんが短く言って、通信端末を開く。

その動作には焦りは無くただ手慣れた処理があった。


十数秒も経たないうちに、空気が震えた。


何かが――来る。


「転送反応が来た」


岡戸さんの言葉に私は一歩退いた。

次の瞬間、空間の一点が白く歪む。

そこから、淡い石灰色の光が広がった。


「やれやれ、映画見てたんだけどなぁ岡戸くん」

声がした。


そこに立っていたのは、カジュアルな服を着ていた少し爽やかな青年だったが、瞳だけが透き通るように冷かった。


「伊波頼むよ。早く来てくれるのは君だけだから」


「はいはい…状況は?ってええ!これグロっ!なにこれ!」


伊波という人は傍にある死体に目を向けて行った。


「重傷で出血多量。意識が無い。とりあえず全身でよろしく」


岡戸さんが答える。


青年は無言で頷き、指を鳴らした。

わかったという合図なのかもしれない。


「全身だな。ちょっとばかし時間かかるけどっ」


伊波は君名の手を取り、祈るように額をその手に近づけた。すると、伊波の握った手の肌が紫の宝石のようになっていきそれは段々と広がって行った。一分ほどでそれはやがて全身を覆った。それはまるでアメジストの石像のようだった。


「終わりだな、じゃあ、これを医療センターに持って行くよ。上手くセンターの都合があれば明日には元気にやってけると思うけど」


「頼むから、大事に扱ってくれよ?」


「それは大丈夫。扱い慣れてるからさ」

そう言うと伊波はスマホを操作させて、君名に触れた。


「じゃあ、行くね。今度なんか奢ってよね」


すると君名と共に伊波は消えた。


「今の何なんです?」


淡々と作業のように君名は連れて行かれた。医療センターと言っていたが能力で治すってことなのか?


「うちの組織では怪我人が出たらああやって医療センターに連れて行くんだよ。酷い場合は伊波みたいな能力者がテレポして今みたいに応急処置をする」


「じゃあ、君名は助かるんですね?」


「うん、確実にね。でも、問題は残されたままだ。星咲は…」


岡戸さんは食い荒らされた死骸に目を向ける。


「殺されたし、殺した自然覚醒者も逃げてしまった。これからしばらくは奴を探さないといけない」


「……『自然覚醒者』か」


私はその言葉を口に出すたび、胸の奥がざらつく。

自らの意思で覚醒した者ではない。

偶然、あるいは事故のように力を得てしまった存在。

理性も制御も効かず、時に人を殺す。

今日初めてそれを間近に見て、その恐ろしさに気づかされた。

私もああなってたのかな。

……いや、それは無いか。


「……まったく、『自然覚醒者」ってのは、ほんと厄介だ。自分の力を制御できない。なのに、時々、異様に強い能力が出る。今回のも、その一人だ」


岡戸さんの声には、怒りでもなく、諦めでもない、経験した者にしか出せない重さがあった。


「僕たちがやってるのは、後処理だよ。能力が暴走した現場を隠し、記録を消し、一般人を巻き込まないようにする。……でも、抑え込むだけで、根本的には何も変わらない」


「そんなの、終わりがないじゃないですか」


私の言葉に、岡戸さんは苦笑した。


「終わりなんて、最初から無いさ。ただ、守るって決めたやつが、無理やり現実を繋いでるだけだ」


「…はぁ」

その現実に出す言葉が見つからなかった。


「蛇草さんはもう帰っていいよ。僕は今からその後処理をするから」


「え?良いんですか?帰って」


「できるだけ人目の多い場所を選んで帰ってね。最悪、さっきのと遭遇するかもしれないから」


岡戸さんの言葉に頷き、私は廊下に出た。


扉を閉めると、まるでそこにあった惨状が最初から存在しなかったかのように、アパートの廊下は静かで、冷たい。


夜風が頬を撫でた。


街灯がぼんやりと滲んで見える。


人通りの多い通りを選びながら、私はただ歩いた。


靴底に残る血の感触を、どうしても忘れられなかった。


――星咲紅葉の死。

――君名の血。

――そして、あの“何か”。


胸の奥が重く沈む。


けれど、それを誰にも話すわけにはいかない。


話したところで、誰も信じないだろう。


その夜は、結局ほとんど眠れなかった。


朝日が昇る頃、ようやくまぶたが重くなり、短い眠りに落ちた。


翌日。


学校のざわめきが、やけに遠く感じる。


教室では、昨日のことなんて何もなかったかのように時間が流れていた。


君名の席は空のまま。


「風邪だってさ」と誰かが言って笑っている。


私はただ、ぼんやりと黒板を眺めていた。


――本当に、あれは現実だったんだろうか。


放課後、自習室での勉強を終えたあと、鞄を肩にかけ、夕暮れの校門をくぐった。


金色の光が、街路樹の影を長く伸ばしていた。


そのときだった。


「蛇草さんで間違いありませんか?」


唐突に、背後から声をかけられた。

振り返ると、女性が立っていた。

黒いスーツに身を包み、どこか冷たい雰囲気をまとっている。

胸元には、小さなピンクのピンバッジがついていた。


「……どちら様ですか」


女性は一歩私へと近づく。

表情は穏やかだが、その眼差しには隙がない。


「捜査班の者です。昨日の件で、少しだけお話を伺いたいんですよ」

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