第7話 血潮の獣
息をのむような静寂が、一瞬、場に落ちた。
君名が手早く通知を開く。画面に表示された本文を、私たち三人が肩を寄せ合って見つめる。
【発令:D区域内・緊急自然覚醒者発生】
発生地点:D区域、梅雨川アパート周辺
危険度:D
自然覚醒者と確認される個体が出現。
能力は変身系。
※危険度D:一般人への致死性あり。ただし、能力者相手には致命打になりにくい。慎重に対応を。
近隣所属班はただちに現地へ向かい、情報収集および一次対処を願う。
「自然覚醒者……」私は呟いた。
君名が眉を寄せる。
「この区域で発生するのは、今月で三件目だよ。ちょっと多すぎる」
「近所って……これ、完全に私たちの担当区域だな」
岡戸が地図アプリを素早く開き、メールに記載された“梅雨川アパート”の場所を確認する。そこはこのカフェから歩いて5分程度の場所にあった。
「距離的にも行くしかない。幸い、緊急等級はD。大きな戦闘になる可能性は低いけど……」
岡戸は君名を見る。
「でも警戒は必要。たとえDであっても能力は未知数だから」
君名の言葉に、私と岡戸は無言で頷いた。
「これ大丈夫かい?君名ちゃん」
「まあ私なら対処できますね。クリスタルライトがあるなら、行きますが。持ってます?」
「それは大丈夫。それよりも蛇草ちゃんはどうする?見に来るかい?僕たちがどんなことをしているか?」
「はい。行かせてください」
私は色々と知らなければならない。
今私はこの世界について、何も知らない子羊と同じなんかだから。
そして、私たちはカフェを出た。
外の日差しはもう落ちかけていて、町の影が長くなり始めている。
数分後、私たちは梅雨川アパートの前に立っていた。
古びたコンクリートの三階建て。手すりのペンキは剥がれ、階段はさびつき、建物全体がどこかくすんで見える。
「……見た感じは静かだな」
岡戸が周囲を見回す。人の気配はない。だが、空気はどこか張り詰めていた。
「なに、この音?」
「音?何も聞こえないよ」
君名は靴を脱いでその家に入って行った。
「蛇草ちゃん、どこからその音する?」
岡戸さんは何か気づいたことがあるようだ。
私は一度耳を澄まして、周りの音に意識を研ぎ覚ました。
すると、さっきの不快な音がもっと鮮明に入ってきた。
「なに…これ」
くちゃくちゃとした咀嚼音、そして獣のような荒い息。
何が一体、二階にいるんだ?
そして、何を食べているんだ?
「聞こえました。二階に得体の知れない何かが何か食べています」
「人間じゃないのか?」
あの音は人間には聞こえない。
人間の咀嚼音だとは思えない、もっと獣のような音だった。
「いや、なんか獣のような音です。人間だとは思えません」
「変身能力…。まさか獣にもなれる能力なのか?だとしたら、もう意思疎通は測れない。変身能力者は最初、戻り方を知らない」
そして、アパートの2階へと私たちは歩を進めた。
「すると、結構危険ですね。私に任せてください、それなりにできるので。蛇草さん、2階のどの部屋?」
2階に上がった時、君名がそう言った。
「たぶんあそこ、突き当たりの部屋」
君名が先頭で歩き、廊下の突き当たり「20F」とプレートが貼られた部屋の前で立ち止まった。彼女は深呼吸をひとつしてから、何の躊躇もなくそのドアノブを掴んだ。
「やっぱ鍵空いてる。じゃあ開けるよ」
音を立てて開かれる扉の隙間から、さらなる咀嚼音が漏れた。今度は、より近く、より濃く、より“生々しい”。
君名が足を踏み入れたとき、私は思わず目を背けた。いや、目を背けたのではない――身体が反射的に動いたのだ。
視界の端で、赤黒いものが床に広がっていた。原型を留めていない誰かの亡骸。肉が、裂かれ、食いちぎられ、赤い骨が露出している。
その上に“それ”はいた。
口からしたが丸ごと赤黒く染まり、口元にはまだ食べかけの肉片がくっついている。視線をこちらに向けるその目だけが、妙に冷静だった。
「うっ…」
君名はそれを見て口を手で塞いで嗚咽していた。
「星咲……?」
岡戸のその問いに答えず、それは立ち上がった。
血にまみれながらも、しっかりと手足を持ち、表情を作り、言葉を話すことができる――それは、人間だった。
それは、ゆっくりと立ち上がった。
肉の裂け目から滴る血を気にする様子もなく、まるで何事もなかったかのように。
髪は肩まで届くほど長く、艶やかで黒かった。
暗がりの中でも光を反射するような、どこか艶めかしい質感を持っている。
顔の輪郭は丸っこく、唇は小さく色づき、肌は白い。
胸元には明らかに膨らみがあり、華奢な腰回りとの対比が妙に女性的だった。
だけど――
それが着ていたのは、私の学校の男子制服だった。
血に染まった制服は乱れていて、スカートではなく標準のズボンだった。
だが、そのシルエットにまったく合っていない。
細く、長く、少女のような脚線美。それが男子制服の中に詰め込まれている。
“女の身体”に、“男の殻”を無理やり着せているような、そんな異様さ。
「そんな汚い物を見る目で見ないでよ」
「星咲何してるんだ?星咲だよな?」
と動揺している岡戸が言った。
岡戸の声は、どこかで正気を保とうとする意志の震えだった。だが“それ”は無言で彼を見つめ返し――ふ、と口元だけで笑った。
「———じゃあ、誰だと思うの?」
一歩、ゆっくりとこちらに近づく。足音は異常なほど静かで、床板の軋みさえ吸収するような不気味な気配をまとっていた。
「やめろ、近寄るな」
君名が前に出て、それを制止するように片手を広げた。
だが、それは止まらない。
血まみれの裸足が、濡れた畳の上にじゅ、と音を立てて滲んだ。
「来るなッ!!!」
君名の叫びと同時に、空気が揺れた。
バンッ、と床下から突き上げるような衝撃――見えない力の壁が“それ”の身体を吹き飛ばした。
「おいっ!いきなり何を――」
「もうわかってますよね!あれは星咲じゃない!」
吹き飛ばされた“それ”は、壁に叩きつけられたにも関わらず、骨が砕けた様子もなく、むくりと起き上がった。
そして、口元の血を舌でぬぐうようにして言った。
「やっぱり……まだ上手く扱えないんだね。あんまり強くないよ、君名ちゃん」
君名の表情が、ひきつる。
「どうして……」
「だって私はもう星咲紅葉だから」
その瞬間、背筋が凍るような沈黙が場を支配した。
「あなた……本当に……」
「うん、もう“食べちゃった”から。星咲ちゃんのこと。ぜんぶ、舐めて、噛んで、喉を通して。だから今、こうして喋ってる。彼女の声で、彼女の喉で。あの子の喉と声帯、あたしの中でちゃんと鳴ってるよ」
ぞわり、と嫌悪が首筋を這った。
「君名。あたしね、君のことわかってるんだよ。能力を使えば使うほど粗くなるってことをね」
星咲の背後にある死体から赤黒い液体が湧き上がる。死体から流れたはずの血が、自ら意志を持つかのように集まり、星咲の手元へと流れ込んでいく。
そして、それは槍のように形が変わり。
殺意を帯びた魔物のように、脈動していた。
そして、その槍は五本、六本……いや、無数に形成されていく。
「その能力じゃ、防げないよ?」
君名の体が、びくりと反応した。
「逃げて!」
その瞬間。
星咲は手を血の槍を操作するかのように動かした。そして、血の槍が、呼応するように震え、空気を裂いて射出される。
それを君名は両手で能力で防いでいた。君名の前に飛んだ血の槍は液体になり地面に落ちた。まるで、君名の前には見えない壁があるようだった。
そして、私と岡戸さんはドアに目掛けて一直線に走った。ドアに到着するまでおよそ3秒もない。その間、君名から漏れた血の槍が幾度となく襲ってくる。
私たちはドアに体当たりするようにして突っ込んだ。私はその瞬間、冷たい金属の感触が腕に触れ、一瞬、ひやりとした。
そして、その鋼鉄の扉が、きしみ音を上げながら開いていく。
「危ないッ!」
岡戸さんの声が背後から鋭く響いた。
振り返る暇もなかった。空気を裂くような音――血の槍だ。
ドアの向こうへ飛び出しかけたその瞬間、背中を思いきり押された。
「うわっ!」
私は勢いのまま、外廊下に倒れ込み、硬い床を転がった。コンクリートの冷たさが背中に染みる。
「岡戸さん!」
叫ぶと、すぐ背後――まだ開いているドアの内側から、岡戸さんが飛び出してきた。顔をしかめ、眉をひそめながらも、その目は冷静だった。
「間に合ったか……っ!」
肩から血をにじませながら、彼は飛び込むようにドアを抜け、私の横をかすめるようにして、手でドアを力強く押し戻した。
ガンッ――!
重厚な鉄のドアが音を立てて閉まり、その直後、中からさらに一本の槍が飛んできた。だがそれは鋼鉄の扉に弾かれ、乾いた衝突音を響かせただけだった。
「……っ、ふぅ」
岡戸さんはドアのすぐ横、壁に背を預けて肩で荒く息を吐いた。血に染まった腕を押さえながら、それでも私に向かって微かに笑い、安堵の息をつく。
「大丈夫?蛇草ちゃん」
「……うん。でも、岡戸さんが……」
「かすっただけだ。君名の方が……今は、あっちに」
その言葉に、私たちは同時に沈黙した。
しかし、閉じたドアの内側から、何度も何度も重く鈍い衝撃音が響いた。金属がひしゃげるような音、何かが叩きつけられる音――どれもが、まだ終わっていないことを告げていた。
岡戸さんが、歯を食いしばりながらドアに目をやる。その表情に、どこか覚悟めいた影が差していた。
「くそッ!」
岡戸さんがドアノブに手を触れようとした時——-
ドアから血が噴き出した。
まるで高圧の水流のように、赤黒い液体が細い穴から外へ向かって吹き出し、岡戸さんの肩や私の頬にまで飛び散った。
「ッ……!」
私は思わず目を背けた。だが次の瞬間、音が消え、雨のように連続していた音が消える。そして、どろりとした濃い血がスコープの穴から染み出してくる。
まるで内部に溜まった何かが、重力に逆らえずに零れ落ちてきたように――ゆっくりと、ねっとりと、鉄の扉を伝いながら滴り落ちていく。
床に落ちた血は、静かに広がり始めた。あの向こうで、何が起きたのか――もう、言葉にするまでもなかった。
岡戸さんは何も言わず、ドアを見つめたまま、その顔から表情を失っていた。
「……嘘……だろ?」
そこには血潮に染まった君名が倒れていた。
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