『フェンリル』その③
手足の位置がわからず、呼吸する度に脳幹がすり減るような感覚がする。ぼんやりとする頭で原因を考えて、室温がだいぶ低いらしいと思い立つ。
寒い、と口に出してみるとようやく確信が持てて、だいぶ重症らしい。
とりあえず温かい飲み物でも飲んで暖まろうとキッチンへ立ち上がる。
暖房はあまり得意ではなかった。
棚を物色して、いつも飲んでいたココアを取り出す。
「わわっ」
思っていたよりも指先に力が入らず、袋を落としてしまい中身を床にぶちまけてしまう。
結構使い込んでいて、あと一杯分もなかったらしくそれはある意味幸いだったが、だからといってこれが前向きなphenomenonに変わるわけではない。
キッチンは綺麗に使っていたし、憂鬱が漂っている以外に気にする要素はもったいないを超えそうにないのでとりあえず、粉末を集めて袋に戻す。
使う分だけポットに入れて片そうとすると、普段使ってなかった反対側に茶葉っぽいのが置いてあるのが見えた。
見覚えがあるなと思い記憶を回し、引っかかったのは珠火が来た日に飲んだそれだった。
キーマンだったかセイロンだったかもしかしたらダージリンかもしれないが、砂糖を少し多めに入れたのもあるだろうが甘くて美味しく、新生活への期待を誘う感じの味だった記憶がある。
それを思い出して、うさぎの巣のような自己嫌悪に陥りそうな気分を、外的な要因に転嫁してまた少し生き延びる。
「珠火が、珠火が悪いんだ、よ」
なんてことはない八つ当たりで、私はその茶葉をひったくった。
力を入れすぎたかかなり深く破いてしまったものの、どうせ当分珠火は帰ってこないだろうと捨て鉢る。
湯を沸かしてポットに入れて温めて、何杯分かの紅茶を作る。
蓋して蒸らすのを待っている間に集中が途切れて、カウンターに寄りかかって休憩した。
普通に考えて珠火は私のものではないし、私は誰かと添い遂げられるほど丈夫な人間ではないことなんて、初めから分かりきっていたことのはずだ。
私にとっての人間関係とは出会ってからお別れを育てていくだけのもので、それは最愛の妹だろうと代わりはない。
よく知っていることだ。
小さな歪みから始まって、十重二十重に積み重ね積み重ね。どれだけ高く築こうともそれは瓦解し、言葉は通じなくなってしまう。
そんなことは、痛いほど理解していた。
それなら。
「夢見てんじゃねえよ出来損ないが。半端な、こんな半端なっ」
所詮ぐちゃぐちゃの針金の球体が、隘路を転がり落ちるだけの人生だというのなら。
きらきらと光ったナイフやフォークが鬱陶しく見えて、それらを束に鷲掴みにして思いつくままに投げつける。
所詮私の腕力ではたかが知れていて。
宙を舞ったそれはあっさり床に転がり、どうしようもなくなってどうせ自分の家なのだからと、拾って壁に突き刺した。
握り込んだ手のひらの傷は開いて流血し、思い切りぶつけた小指も紫色に変色している。
今更になって、右足の痛みも繰り返す。
親指の爪の薄皮を噛んで剥がして床に倒れ込む。
どうしてかこういう方が、生きている感じがした。
「誰か、殺して」
ひとりごちる。
美しい世界が好きだ。報われる世界が好きだ。愛される世界が好きだ。
そういうのがいい。
これじゃない。
人間以外ならなんでもいい。
こんなことをしなくても生きていける命なんていくらでも合ったのに。
満たされたい注がれたい。
生半可に動く神経なんて、鉄の紐ですべて潰してしまえばいい。
何も考えたくなかった。
簡単な生き物になりたかった。
単純な生き物に、もっと、簡略化して圧縮して潰して混ぜて砕いて飲み干して。その先にあるむざむざな命が、今見える希望だった。
これは私を幸せにしない。
これは私を幸せにはしなかった。
「……その先に星はない」
ぐらぐらに煮えた感情を吐き出す。
喉では足りず腰やら腕やら暴れさせ、肺が圧迫され、呼吸が止まってようやくその衝動は落ち着いた。
半身を起こして唸るように深く息を吐き、最後にもう一度呪って目を瞑る。
今でもこの身体より、犬でもカジキでもノミでもバッタでも。その方がマシくらいには思えてしまうが、何にしてもひとしきり吐き出せてすっきりはした。
情緒の不安定さを結果論で蓋して深呼吸を何度か繰り返すと、肩が上下する度に解毒されるような感覚になる。
その高揚に時間感覚が鈍ったまま身を委ねてしまい、寝転がったまま、何度目かに襲った吐き気を抑えて噎せ起き上がる。
散々暴れまわったがなんとかポットは無事で、それをカップに注いで口に含んだ。
「苦い」
砂糖も入れていなかったが、それよりも放置しすぎていたのだろう。
苦いのは嫌いだ。
カウンターにカップを置く。
それを捨てることもできずに、私は一人嘆息した。
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