4 ふたりの距離

「雪也くんは将来の夢とかあるの?」


 参考書を抱えた若葉とともにエスカレーターに乗ると、不意にこちらを振り返った彼女がそんなことを尋ねてきた。俺は少し考えてから小さく首を振る。


「……特にない」


 俺の答えに彼女は意外そうに目を丸くした後、困ったように眉尻を下げた。その表情に、なぜか思考がざわついて落ち着かなくなる。


「そうなんだ……もったいないな」

「もったいない?」


 若葉の言葉に、喉がちりちりと焼けるような痛みを感じた。目に見えない感情のその形はひどく不透明で、俺自身でさえよくわからなかったけれど、まるで焼け爛れるかのようなじりじりとしたその痛みに息が詰まりそうになる。


「だって、雪也くんなんでもできるから。その気になればなりたいものになれそうじゃん」


 若葉はそう言いながら、俺をまっすぐに見つめてくる。彼女の澄んだ瞳の中に映る自分は、なんだか情けない顔をしているように思えた。若葉の純粋な視線に耐えきれず、俺はふいっと視線を逸らしてしまう。


(そんな風に……見えるのか?)


 自分ではそんなつもりは全くないのだが、彼女の目に俺はそう映っているらしい。俺は若葉と違い、特にやりたいことも将来の夢もなく、なんとなく日々を過ごしているだけだというのに。


「体育の授業だって、バスケもサッカーも超上手かったし。テストはだいたい上位でしょ? だから、雪也くんってちょっと憧れてたんだ」


 そう言いながら、彼女は照れくさそうに笑って見せる。なんだか居心地が悪いというかむず痒いというか複雑な気持ちだった。

 そもそも勉強はそこまで得意ではない。定期試験も、いつも少し上くらいの成績を維持しているだけだ。それは『普通』の境遇でない自分を憐れまれたりしたくなくて、誰にも悟られないようにしていたからだ。本当になんでもできる人間は、自分を必死に取り繕っている俺みたいな人間ではなくて、もっと違う人種なのだと思う。俺はそんなやつらとは、きっと一生わかり合えないという自信があるほどだ。

 けれど、彼女の目にそう映っていたことに少なからず喜びを感じていたのもまた事実だった。こんな風に褒められて、悪い気はしない。


「そんな大層な人間じゃねぇよ、俺は」


 俺は小さく肩を竦めつつ声を返した。俺の言葉を受け取った彼女がどんな表情をしているのかまでは、わからなかった。いや、あえてわからないようにしていた、という方が正しいのかもしれない。

 エスカレーターを降りると、若葉はそのまま一階のセルフレジへと向かっていく。俺はその後をゆっくりと追いかけた。


「え……っと」


 白魚のような指先が宙でふらふらと揺れる。若葉はセルフレジに慣れていないようで、戸惑いながらも必死に画面を見つめていた。その様子がなんだか可愛らしく思えて思わず口元を緩めてしまうが、それを悟られないようすぐに表情を引き締めた。


「会員カードがねぇなら右下の『次へ』でいいぞ」


 俺は一歩足を踏み出して若葉の隣に並びながら、ディスプレイを覗き込んで教えてやる。すると若葉は少し驚いたように目を丸くしながら俺を見上げてくる。


「あ、うん」


 彼女は小さく返事をしてから、『次へ』と書かれたボタンをおずおずと押した。ピッという電子音ののち、バーコードを読み取る画面が表示される。


「あ、あれ……?」


 しかし、若葉が差し出しているそれを読込もうとしない。どうやら機械に認識されていないらしい。その画面を見つめながら戸惑うように眉尻を下げる彼女を見て、俺は小さく嘆息した。


「読み込めねぇときはハンドスキャナーの方が早い」


 俺は若葉が抱えていた本を手に取ると、台の上に置いてあるハンドスキャナに手を伸ばした。それを本の背表紙に当てて、印字されているバーコードを読み取る。ふたたび電子音が鳴り、画面に商品情報が表示された。


「ほら」


 無事に読み込めた本を若葉に手渡すと、彼女はぱちぱちと瞬きを繰り返している。そして自分の両手の中にあるハンドスキャナーと俺を交互に見遣りながら、小さな声で囁いた。


「あ……ありがとう……」


 その様子から察するに、きっと若葉はこういった機械やシステムには弱いのだろう。なんだか少し意外だ。彼女はなんでもそつなくこなすようなタイプだと思っていたのだが、どうやらそうでもないらしい。


「私、セルフレジ苦手なんだよね……なんか、雪也くんすごく手慣れててびっくりしちゃった!」


 若葉が紙幣をセルフレジに投入しながら、感心したような口ぶりでこちらを向いた。俺は小さく肩を竦めてから、その視線を躱すように顔を背ける。


「別にこれは、俺がなんでもできるからじゃねぇからな。バイト先でコツ教えてもらっただけだ」


 俺は彼女が言ったように、何事も手際よくできるわけではない。経験したことをなんとなくできるだけで、若葉が俺を表現したように『なんでもできる』わけではないことを強調したくて、俺はそんな言い訳じみた言葉を吐いた。


「バイト?」


 出力されたレシートを手に取った若葉が驚いたように声を上げる。その反応に少しむず痒いような居心地の悪さを感じながらも俺は小さく頷いた。


「長期休みの時だけ、ドラストでな」

「えっ、すごい! なにやってるの?」

「基本は品出し。あとは掃除とかレジ打ち」

「へぇ~、そうなんだ!」


 若葉は感心したように相槌を打ちながら、なぜか上機嫌そうに微笑んだ。彼女のこのころころと変わる表情を見ていると、心がざわめくような不思議な感覚を覚えてしまう。俺は僅かに視線を逸らしながら、いささか乱暴に言葉を返した。


「……なに笑ってんだよ」

「え? だって嬉しいんだもん! 雪也くんの色んなこと知れて」


 若葉は気にも止めていないような表情で財布をバッグにしまい込んだ。その言葉の意味がいまいち理解できなかった俺は、黙ったまま彼女を見つめることしかできなかった。

 備え付けの紙袋に購入した参考書を詰めた若葉は、嬉しそうにその紙袋を目の前に掲げて見せる。


「雪也くんのおかげで買えたよっ」


 そう言って笑う彼女の横顔を見つめながら、俺は目を細める。彼女が喜んでいる姿を見ると、なんだかこちらまで嬉しくなるような気がするのだ。


「いや、別にそんなふうに言われるようなことは……」


 ただ、そんな風に言われると少し気恥ずかしくなって、そっぽを向きながら素っ気なくそう答えた。だが彼女は特に気にする様子もなく、ただ楽しそうに微笑んでいた。


(なんなんだよ……調子狂うな)


 どことなく面映ゆい感覚を覚えつつも、俺は彼女に悟られないよう、明後日の方向を向きながら静かに目を伏せた。


「ううん、雪也くんがいたからだよ。選ぶのも、買うのも! すっごく助かった」


 若葉は軽やかな声色で嬉しそうに言葉を紡いでいく。その言葉に偽りは感じられなかった。大したことはしていないのに、と思いつつも彼女の言葉に小さく頷いて応える。


「……そ」

「うん!」


 なおも嬉しそうに笑う彼女に、俺は照れ隠しのようにぶっきらぼうに返事をした。少し素っ気なさすぎたかと思ったが、それでも彼女は特に気にしていないようでほっとした。

 書店から駅まではそう離れておらず、あっという間に改札口が見えてくる。駅構内は人で賑わっていて、俺と若葉もまた改札をくぐる人の列に並んだ。


「雪也くんって電車通学なんだ?」

「ん。大田区に住んでる。お前は?」

「あ、えっとね。家は学校の近くなんだけど、通ってる予備校が電車じゃないと行けないとこなんだ~。今日はこれから行くの!」


 若葉はブレザーのポケットからパスケースを取り出し小さく肩を竦めた。彼女が予備校に通っていることは初めて知ったので、少し驚いた。


「意外だな。美大目指してんならずっと絵を描いてんのかと思ってたけど」


 俺が思ったままのことを素直に口にすると、若葉は困ったように笑って見せた。


「ふふ、私もそう思ってたんだけどね。私が通ってるのは美術予備校って言って、実技対策がメインのとこなんだ」

「へえ、そんなんあるんだな」


 俺は素直に感心してそう呟いた。確かに美大受験には実技試験も課されるらしいことはなんとなく知っている。それに特化した対策をする場所があっても不思議ではないのかもしれない。

 そんな会話を続けていると、若葉の行先はどうやら同じホームではあるが反対路線らしいことが分かったので、俺はそのまま若葉と一緒に改札をくぐることにした。階段をのぼりホームに出ると、同じ学校の制服を着た学生の姿も多く見られた。電車を待っている間、俺と若葉は適当な場所で立ち止まりながら電光掲示板で到着時刻を確認する。


「渋谷方面は二分後で……品川方面はあと五分かぁ」


 俺の乗る電車の方が少し遅く到着するようだった。俺はちらりと隣に立つ若葉に視線を向ける。彼女は手に取ったスマホを見つめていて、どうやらメッセージアプリを確認していたらしい。やはり彼女は友人が多く、俺とは違う世界に生きているのだと思う。


「どうしたの?」


 俺の視線に気付いたのか、若葉が顔を上げる。彼女と目が合った瞬間、なぜか居た堪れなさを感じてしまい視線を逸らしてしまう。


「いや……なんでも」


 歯切れ悪く答えると、若葉は不思議そうに首を傾げた。きょとんとした表情を浮かべたまま見つめられると、なにか言わなければという気にさせられる。だが、特に話題があるわけでもなく言葉に詰まった。


「あ……その。俺なんかと帰るより他の奴と帰った方がよかったんじゃねぇかなと……思って」

「……えっ?」


 素っ頓狂な声を上げた若葉は目を見開いて固まってしまった。その表情を見やり、俺は自分の失言に気付き慌てて手を振る。


「いや……だってお前、友達多いだろ。俺なんかと一緒に帰っても面白くねぇだろうし」


 ぽろりとまろびでた本心を取り繕うように早口でまくし立てる。こんなことを言えば、俺が彼女と帰るのを嫌がっているように思われるかもしれない。本当はそんなことが言いたいわけではないのだが、一度放った言葉は取り消すことが出来ない。

 やや間があってから、ぽつりと若葉が言葉を発した。


「……そんなことないよ」


 その声色にはわずかな物悲しさが滲んでいた。もしかしたら不快に思われているのではないかと感じ、咄嗟に身構えてしまう。

 けれど若葉はそのまま続けて言葉を紡ぐと、柔らかく微笑んだ。


「確かに他の子たちと一緒にいることも多いけど……それでも私は雪也くんと帰るの楽しかったよ? それに……」


 そこで一度言葉を切ると、彼女は少し照れたような表情で俺を見上げ、その長い黒髪を耳にかけながら言葉を続けた。


「その……私。雪也くんとも仲良くなりたいなって思ってたから」


 彼女の一言に、一瞬息が詰まるような感覚を覚えた。それは驚きなのか、あるいは動揺だったのか。自分でもよく分からなかったが、とにかく彼女の言葉になにも返せないまま黙り込んでしまった。

 無言の若葉がぎこちなくはにかんだような笑顔を浮かべると、ちょうどその時、タイミングよく電車の到着を告げるアナウンスが流れていく。


「じゃあ、またね」


 若葉はこちらに小さく手を振りながらそう言うと、そのまま車両のドアに向かって駆けていく。俺は呆気にとられたまま、ただその後ろ姿を見送ることしか出来なかった。


『雪也くんとも仲良くなりたいなって思ってたから』


 彼女の言葉が頭の中で何度もリフレインする。


(なん、なんだよ……)


 聴きなれた発車メロディを聴きながら、俺は若葉が窓越しに手を振るのを呆然と眺めていた。じわじわと顔に熱が集まっている気がしてならない。

 心臓の鼓動がうるさい。頭の中でぐるぐると思考だけが回り続けている。

 やがてホームにベルが鳴り響き、反対の乗り場に電車が到着したことを認識する。けれど俺は、その場からしばらく動くことができなかった。

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