3 眩い光

 学校を出てから少し歩いたところで、俺と彼女は同じ方向に足を進める生徒の群れに飲み込まれていく。この道は駅へ向かう生徒たちが必ず通る道だ。駅前にはいろんなビルが立ち並んでいて、その中には雑貨屋や洋服屋、本屋など様々な店舗が軒を連ねている。目当てのものが売っている店に皆各々吸い込まれていくからか、この近辺は特に人口密度が高く感じる。集団生活から開放された空気感が織りなす雑踏は、妙に心を浮き立たせた。

 初夏の生暖かい風が、若葉の長い髪を揺らす。彼女はそれを手櫛で整えて、そのまま耳にかけ直す。その何気ない仕草に、なぜか目が離せなくなった。


「雪也くん、どうかした?」


 俺の視線に気がついたのか、若葉は不思議そうに小首を傾げている。俺は慌てて視線を逸らすと、小さく咳払いをした。


「……別に」


 そんな短い返事にも彼女は気を悪くするでもなく、ただにこにこと笑って隣を歩いている。そんな他愛もないやり取りがどこか心地よくて、つい頬が緩みそうになったのを必死に堪えた。


「駅前の書店で大丈夫か?」

「うん、大丈夫!」


 若葉にそう問いかければ彼女は嬉しそうに頷いたので、俺たちはそのまま駅に向かって歩を進めた。俺の真横を若葉が歩いているからなのか、なんだか今日はいつもよりもずっと心臓がうるさい気がする。


(なんか……変だ)


 そんな自分の心の変化に戸惑いを覚えつつ、ちらりと彼女の方に視線を遣る。すると彼女はそんな俺の視線に気が付いたのか、こちらを見上げて小さく微笑んだ。

 しばらく歩くと、駅前の書店を若葉が指差したので、一緒に自動ドアをくぐった。店内は平日だというのに多くの客で賑わっていた。店内には新刊や話題書のポップが所狭しと並べられていて、今日はどうやら先週発売された書籍のサイン会が開かれているようだった。道理で人が多いのか、と俺は妙に納得してしまう。


「あ、この作家さん知ってる」


 若葉はそう言いながら、新刊コーナーに並べられた一冊を手に取った。それはつい最近発売されたばかりの小説だった。どうやらその作家は若い世代を中心に人気のあるようで、書店で彼の作品を手に取っている人は男女問わず多い印象だ。この作家は独特な世界観と緻密な心理描写が特徴で、読者自身も物語の世界に没頭できることで有名だった。

 彼女がパラパラと手に取った一冊を捲っているその横顔は、なんだかいつもよりも楽しそうに見えた。すると次の瞬間、若葉はハッと我に返ったように顔を上げた。


「って、違う違う! 参考書!」


 若葉はそう言いながら、恥ずかしそうに視線を逸らしつつ手に取った小説を元あった場所へと戻す。そんな彼女の様子に小さく笑いながら、俺は入り口から少し歩いた先のエスカレーターを指さしてみせた。


「参考書なら二階」

「あ。ありがと!」


 俺の言葉に若葉は照れたように笑った。その表情は、普段見ている彼女の笑顔よりも少し幼く見えたのは気のせいだろうか。俺は小さく首を傾げながら、彼女と共にゆっくりと歩き出した。

 この書店は一階から四階まで書籍や雑誌などのジャンルごとにコーナー分けがされていて、品揃えもかなり充実している。そのままエスカレーターの方へと足を運べば、彼女も俺に倣って後ろからついてきた。

 二階の参考書コーナーにはハードカバーから単行本まで様々な種類のものが所狭しと並んでいる。若葉はずらりと並べられた参考書を前に困惑しているようだった。


「うーん、どれがいいと思う?」


 悩む若葉に、俺は自分の基準で世界史の参考書を勧めようと視線を動かしていく。今まで一人で使っているものを人に教える機会なんて無かったから少し緊張したが、別に隠すものでもないと思い素直に答えた。


「あ~……タイトルが出てこねぇけど、『ひと目でわかる~』みたいなタイトルのやつがわかりやすかったしおすすめ」

「あっ、あれかな?」


 書架の一番上に並べられていた参考書を見つけたらしい若葉がそれを手に取ろうと背伸びをして手を伸ばした。思いのほか高い位置にあり、背伸びしてもわずかに指先が触れる程度で、見かねた俺は腕を伸ばしてその参考書を手に取った。


「ありがと」

「ん」


 俺は短く返事をしてから、彼女に見せるようにその参考書のページをパラパラと捲る。すると、そこには図や表とともに分かりやすく要点がまとめられていた。


「あ、これめちゃくちゃわかりやすいかも」


 若葉はそう呟きながら、俺の手元を覗き込んできた。俺と若葉の身長差では自然とその頭の位置は俺の肩より少し下になる。ふわりと甘い花のような香りが鼻腔をくすぐり、心臓がどきりと高鳴った。それを悟られまいと必死に平静を装いながら、そのまま参考書を彼女に手渡してやる。


「じゃあ……これで大丈夫そうか?」

「うん! これ買うよ、ありがとう。雪也くんって、やっぱり背高いね」

「……別に普通だろ」


 俺は少し照れくさくなって視線を逸らしながらそう答えた。と同時に頬に熱が集まるのを感じて、小さく咳払いをする。


(なんか……調子狂う)


 今までこんな風に誰かに対して心を乱されたことなんてなかったはずなのに、どうしてか若葉の言動がいちいち気になって仕方がないのだ。


「えー、そうかな? 雪也くん背高いから一七〇後半くらいあるでしょ?」


 彼女はそう言いながら俺の隣に並んで無邪気に顔を覗き込んでくる。その顔の距離の近さにまた鼓動が早まるのを感じながらも、俺は咄嗟に視線を逸らして返事をした。


「いや……多分一七三とか四とかそれくらいだと思うけど」

「いやいや、もっとあるよ! だって私より頭ひとつ分くらい大きいもん」


 彼女はそう言いながら、俺の隣に並んで自分の頭のてっぺんに手を置く。その仕草がなんだか小動物みたいで可愛らしく感じてしまう。


「……まあ、お前よりは高いかな」

「あはは、だよねぇ~」


 俺がそう返事をすると若葉は嬉しそうに笑って見せた。そのまま俺の少し前を歩き始めた彼女は、まるでスキップでもするように軽やかな足取りで進んでいく。その後ろ姿を見つめながら、俺はなんだか不思議な感覚に陥っていた。


(なんだこれ……なんかすげぇドキドキする)


 胸に手を当ててみても鼓動の速さは変わらないが、この高揚感は一体なんなのだろうか。彼女といるといつもそうだ。彼女の笑顔を見る度に、心がざわめくような不思議な感覚に襲われる。


「雪也くん?」


 不意に名前を呼ばれて、俺はハッと我に返った。いつの間にか若葉が立ち止まっていて、不思議そうに俺の顔を見上げていた。その距離の近さにまた心臓が高鳴るのを感じながらも、俺はなんとか平静を取り繕ってみせる。


「あ……悪い」

「ううん、大丈夫だけど……どうかした?」

「……なんでもない」


 俺はそう言って、彼女から視線を逸らした。彼女はまだ少し不思議そうな顔をしていたけれど、それ以上追及してくることはなかった。誤魔化すように小さく咳払いをしてから、エスカレーターの方向へと歩き出す。


「そっか」


 若葉は納得したように頷いて、俺の後に続いて歩き始めた。彼女の周りだけ、キラキラと輝いているような気がする。一緒にいるとなんだか緊張するけれど、それと同時に心が安らぐような不思議な感覚を覚えるのだ。


(まさか、お前のこと考えてたなんて言えるわけないし)


 そんなことを思いながら、俺はちらりと横目で若葉の様子を伺う。彼女の視線は陳列されている書籍たちに向いていて、その横顔からはなにを考えているのか読み取ることはできなかった。


「……あ」


 不意に、若葉がなにかを見つけたように声を上げたので、俺もつられてそちらを見遣る。そこには『新刊』と書かれたポップと共に、『キリスト教美術の巨匠』というタイトルの書籍が並べられていた。


「これ、前に買おうか悩んでたやつだ」


 若葉はそう言いながらその本を手に取った。どうやらこの作家の画集らしく、表紙には美しい聖母像が描かれている。若葉が表紙を捲ると、そこには様々な宗教画が掲載されていた。聖母マリアや天使の像などが描かれているが、どれも繊細で美しいタッチで描かれているためか、どこか儚げな印象を受ける。


「綺麗だな……」


 ぽつりと呟いた俺の言葉に、若葉は嬉しそうに微笑んでみせる。その笑顔はまるで花が咲いたように華やかで、気を抜けばうっとりと見惚れてしまいそうになるほどだった。


「私ね、将来画家になりたくて……美大に行きたいなって思ってるんだ。小さい頃から絵を描くのが好きで」


 手に持った画集を胸元に抱えながら話す彼女は、どこか恥ずかしそうにも見えた。けれど、その口調には確かな意志が感じられて、俺は素直に感心した。きっとずっと昔から思い描いていた夢なのだろうと思うと、自然と応援したいという気持ちが湧いてくる。


「いいんじゃないか?」


 俺がそう返事をすると、若葉は照れくさそうに頬を赤らめながらも嬉しそうに笑った。その笑顔はまるで太陽のように眩しく煌めいており、俺はなぜだか視線が外せなかった。


「親も応援してくれてるし、精一杯頑張るつもり」


 彼女はそう言いながら、画集を大事そうに棚に戻す。その表情はとても穏やかで、彼女が本当にその夢を大切に思っていることが伝わってきた。そんな横顔を見つめながら、どこか寂しさを感じている自分がいることに気が付かないふりをした。


「そっか……頑張れよ」

「うん!」


 小さく相づちを打った俺の言葉に、彼女は力強く頷いてみせた。その笑顔が、声が、その全てが――夢や目標が見つけられない俺には、眩しく感じられて仕方がなかった。

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