どうしようもないあなたと、堕ちた私

りんごンゴ

シエルという少女

「シエル・ラムドネアを国家反逆の罪で死刑に処す!」


この世界に、神様なんていない。

ならば、私は誰に助けを求めればよいのだろうか。

それとも、すべてを受け入れて諦めるべきだろうか。

もう、生きる意味なんてないのに、生きたところできっと苦しいだけなのに、どうして生きたいなんて思うのだろうか。

死にたくない。


「シエル様、お時間です。」

芯の通った優しい声が言う。

シエルが振り向いた先に、癖っ毛気味の金髪を持った優しい顔のフィンレーがいる。

付き人、護衛、執事……どんな肩書が正解かわからない。

フィンレーは、それだけシエルに尽くしてくれている。

シエルの手を取ったフィンレーは、その細い手首をじっと見つめる。

そして、小さなため息をついて、大きな手でシエルの手首を包むように優しく握った。

「またセオル様ですか。」

シエルは隠すわけにもいかず、目をそらした。

兄のセオルが手首を強くつかんだせいでできた痣だ。

「……私はどこへでもついていきます。たとえ些細な呼び出しでも、シエル様に傷をつけないのが私の役目ですので。」

シエルは静かに笑う。

「いいのよ。お兄様がお父様に何か言って、あなたのことを解雇したりするほうが嫌だから。」

フィンレーは間違いなく、シエルにとって大切な人だ。

誰よりもシエルの傍にいて、守ってくれる。

「本当につらいときは、きちんと呼ぶわ。」

フィンレーはなにか言おうとしたのか、口を開きかけたが、すぐにつぐんだ。

そっと、シエルの手に口づけをするフィンレー。

シエルの表情は一切変わらない。

ただその細い指が、一瞬、かすかに動いただけだった。

「行きましょう。」

静かな声で言った。

「フィンレー。」

シエルはめったに聞かせない優しい声で名前を呼ぶ。

「ありがとう。」

遠慮がちな笑顔に、フィンレーは目を細めて一礼した。


シエルの毎日は、朝、神殿で祈ることから始まる。

国中の娘から選ばれる聖女は、この国で五人しかいない。

身分を問わず、公平に行われる試験を突破し、聖女見習いになると、衣食住と少しの娯楽、つまり、平民にすれば縁遠い充実した生活が保証される。

さらに十年、人によっては数十年の修行を得て、聖女になることができる。

聖女になると、高い給料も支払われるため、娘たちはこぞって三年に一度のこの試験を受けるのだ。

それは貴族の娘も例外ではない。

聖女に選ばれるということは、なことだからだ。

倍率は五十倍を超える聖女見習いの試験を軽々突破したシエルは、異例の速さで聖女になった。その間、五日。

シエルを妬ましく思う者はもちろんいた。

だが、それらを黙らせるほど、神殿の人々のシエルへの崇拝は異常だった。

神殿の人々だけが、人の持つ神の力とやらを見ることができる。

だから彼らは絶大なシエルの力を前に膝を折って屈服するのだ。

神殿の人々から向けられるまなざしが居心地悪くて、朝の祈念を済ませればそそくさと神殿を出る。

しかし、聖女の本職は、神の声を聴くことである。

実際のところ、声が聞こえる者はいない。

シエルは早々に気づいたが、聖女は神の声を偽装している。

神のお告げの内容を作り出し、それを本物として伝える。

その図太さと、賢さ、そして、何時間も祈り続けられる辛抱強さがある者だけが、聖女になることができるのだ。

そんなしたたかな女たちすら心酔してしまうシエル。

当の本人は、それにいづらさを感じていた。


「シエル!」

そんなシエルが安心できる場所があった。

戦士たちが集うドメスニア城と呼ばれる古くからこの国にある城だ。

今は、マルエス公爵家が所有している。

マルエス家は騎士団長を代々輩出する名門家である。

そんなマルエス家の長男で後継、かつ戦士団の長を務めるのがエイダンだ。

彼はいつも、優しさと明るさを兼ね備えた笑みでシエルの名前を呼ぶ。

そんなエイダンを見るたびにシエルは、本当に太陽のような人だと思う。

「こんにちは。」

シエルが一礼すると、困ったように笑う。

「いい加減、そうかしこまるのはやめないか。」

エイダンは年が一つしか変わらないと信じられないほど大人びている。

「そうだよ、シエル!婚約者でしょう!」

彼の温厚さは、この妹あってのことだろう。

愛嬌に満ちたルル。

戦士として日々国のために戦っているとは思えないほど無邪気な少女だ。

「えぇ、まぁ……」

シエルが答えを濁すと、エイダンは真面目な顔をしてルルに言う。

「あまりからかうなよ、ルル。」

「シエルは悪くないよ。」

ルルはシエルに抱き着くと、歯を見せて笑う。

「兄さんがシエルと話すとき、いつも緊張してるからいけないの。」

ルルのころっとしたかわいらしい瞳がルルを見つめる。

「そんなんじゃ、シエルも緊張しちゃうよね。」

別に、緊張してるわけじゃない。

ただ、シエルとは違う、こんな明るい人たちにどんなことを言えばいいか、まだわからないだけだ。

「大丈夫よ。」

私はいつも、日陰のような場所で生きていたから。

「ルルはやさしいのね。」

ルルでさえ、一つしか年が変わらないとは思えない。

うれしい!と笑ういたいけな瞳。

私には、ほど遠い。

エイダンがシエルの背後に向かって声をかける。

「おい、ルーカス遅刻だ。」

シエルが振り向くと、茶髪の顔色の悪い男が背中を丸めて歩いてくる。

普段は、もっと元気がいい。

「しょうがないだろ。昨日はさんざん……」

女子に好かれることだけのために生きているルーカスは、シエルを見るとしゃきんと背中を伸ばした。

「おはよう、シエル。今日も美しいね。」

エイダンに向けた投げやりな口調とは打って変わって、かっこつけた口調。

「ありがとう。ルークは、今日はあまり元気がなさそうね。」

ルーカスは髪をかき上げてため息を吐く。

「二日酔いなんだ。昨日、飲み過ぎてね。」

なにをするにも芝居がかったこの調子が、シエルは嫌いじゃない。

てっきり、仕事で忙しかったのかと思った。

「まーた、夜遊び?」

ルルは不満げというより、興味本位といった感じだ。

「違うよ。人聞きの悪い。」

ルーカスはふっとすかした微笑を浮かべる。

「いろんな女の子の誘いに乗ったらいつのまにか、ね。」

「大して自慢できることじゃないね。」

城の中から、黒髪のポニーテールを揺らして出てきたのは、戦士の中では最年長のシェファだ。

「遊ぶのはいいけど、遅刻はしないこと。それでこそカッコいい男だ。」

シェファの隣には、紫がかった髪をしたアルローが、そして、その後ろでシエルたちを見守るように立っているノルアノスがいた。

「夜遊びも褒められたものじゃない。シェファ、甘やかすな。」

アルローはいつものように不機嫌そうに顔をゆがめた。

無表情で、不愛想なアルローが、ツンデレなことは、皆がよく知っていることだ。

ノルアノスの優し気な目元が、笑みを作る。

彼はいつも静かに笑っている。物静かで、穏やかな人物だ。

「言ったところで聞かないでしょう。」

ルルがぷくりと頬を膨らませて言う。

「次からは気を付けるさ。」

全く反省していないのであろう。

ルーカスはさらりと受け流す。

「そうだね、それより、今日の仕事だけど……」

ノルアノスが軽く優しく言って話題を変える。

各々の顔つきが変わる。

その鮮やかな瞳たちが、使命感に満ちた強い光を持った。


戦士団の仕事は、多岐にわたる。

もともとは、魔物に対抗するために神の力を授かった者で構成されていたが、数百年前に魔物は絶滅した。

今は国防、治安維持という役目を担っているが、その詳細は犯罪の調査から、他国との争い、反対勢力の掃討など、極めて忙しない。

特に、ロムスと呼ばれるこの国最大の反逆軍は、戦士団の存在意義とも言えるほど手強い相手であり、ロムスの全貌を暴き、息の根を止めることは、戦士団の重要な仕事の一つであった。

ロムス関連の事件を戦士団が捜査するたびに、民衆は戦士団をヒーローのように崇めるが、実情は反逆軍のしっぽをつかむどころか、そのしっぽを見つけることすらできていない。

毎日のように起こる不穏分子の小さな反乱を潰す日々。だが、それらはたいてい、ロムスに触発された人々の犯行で、ロムスが関わっているわけではない。

ロムスの反抗は、もっと静かで、そして確実にこの国の中枢を崩そうとしてくる。

今日も――


「シエル、どうだ?」

戦士団におけるシエルの仕事は多岐に渡るが、最近はもっぱらロムスの頭領の気配を追い続けている。

「間違いないでしょう。」

さんざん感じ取ったロムスの頭領の力。

暗くて、重い力だ。

「それで、伯爵の遺体は?」

エイダンは目をそらした。

良くも悪くも正直でわかりやすいエイダンの、なにかごまかすときの癖だ。

「見ない方がいい。」

シエルは素直に従った。

「……わかりました。私は、残滓をたどってきますね。」

「あぁ……いや、俺も行くよ。」

城の中には、血のにおいが充満している。

犯行現場となった公爵の私室では、いたるところに血しぶきが飛んでいる。

シエルの気分が悪いことに、エイダンは気づいていたのだった。

「ありがとうございます。」

顔色の悪いシエルを部屋の外に連れ出す。

「なかなか、むごたらしい現場だったな。」

廊下は、まだ少し血の匂いは漂っているが、部屋の中よりはずっとましだ。

シエルは深く息を吸った。

「えぇ……けれど、マルド公爵までこんなことになるとは……」

公爵という地位のある人間が殺されたと言うだけではない。

マルド家は有名な武家家系だ。

戦場で多くの功績を残したように、かなり剣術や体術にたけている。

殺された公爵も、騎士を引退した身とはいえ、昨日まで騎士の養成校で講師として、登壇していた。

そんな人物が殺されたとなると、貴族たちの不安はますます大きくなるだろう。

「うまく説明するよ。心配はしなくていい。」

「……ありがとうございます。」

うん、というエイダンの声の頼もしさにシエルは人知れず小さく微笑んだ。

「外に出よう。その方が空気もきれいだろう。」

「えぇ。」

緑の豊かな城だ。城壁に沿うように木々が生い茂っている。

ふと、エイダンは少しためらいながら口を開く。

「今度、舞踏会があるだろう。」

二週間後に開催される王室主催の舞踏会だ。

国賓も多く招く、年一度の貴族にとっての祭りだ。

大きな舞踏会に戦士団が呼ばれるとき、それは警備のためでなく、客としてだ。

戦士団は華がある。国内外問わず、人々は戦士団を一目見たがっている。

「俺の、パートナーとして、出てくれないか?」

シエルの瞳に憂いの色が浮かぶ。

うれしいです、そんな言葉が素直に出てこない。

「お父様に、許可を頂けたら、ですが、そのときは、喜んで。」

明るすぎるまなざしで笑うエイダン。

シエルはそっと目をそらす。

きっと、許可は下りない。

シエルは今まで、舞踏会に出たことはない。

箱入り娘といえば聞こえはいい。

「やっぱり、ここで消えてます。」

シエルは話の傍ら、しっかりと残滓を追っていた。

しかし城を出る前に、それは消えていた。


もともと神の力を持つものは、その力を常にオーラのようにうっすらと纏っている。

そしてそれはその場所にいた痕跡として残ってしまう。

特に力を使った直後は強く残り、どんな実力者でもそれを避けることはできない。

普通の戦士はその残滓を感じ取ることはできない。

だが、シエルのような聖職者ならそれができる。

特にシエルはその探知にたけていた。

このシエルの目を掻い潜るには、ほぼ完全に神の力を消さなければならない。

溢れ出る力をコントロールすると言うのは難しいことで、歴代の戦士にも、力を消すなんてことをできた人はいないはずだ。

何よりも恐ろしいことは、そんな相手がシエルたちの敵であるということだ。


「強い力を持っているようなのに、力を消すのまで上手いとはな。恐ろしい相手だ。」

エイダンは小さく笑いながら言う。

「やはり彼は、戦士――」


シエルが追うのは神の力――その神の力を持つというのは限られた人間だけに許されている。

たとえば、その選ばれた人間は国を救うヒーローとなり、敵から国民を守る。

そう、戦士団とは、神の力を授かった特別な人間の集まりなのだ。

聖女のように神に仕えるのとはまた違う、神そのものと同じ存在。

そんな彼が、なぜ人を苦しめる側に立ったのか、シエルにはわからない。

たった一つ言えることは、戦士が悪に回ることなど、いまだかつてない、異例の事態だということだ。


「いや、悪の道に走ったんだ。もう戦士とは呼べない。」

戦士とは、確固たる正義を持つ者。

頷いたシエルが息を吸った瞬間、かすかな血の香りがした。

「エド、少し……」

シエルが珍しく名前を呼ぶので、エイダンは少しうれしくなる。

素直に喜んでシエルについていくエイダンを見たら、ルルは間違いなくからかってくるだろう。

そんなエイダンの気持ちも知らず、シエルは恐る恐るといった様子で、茂みの中へ入っていく。

「シエル、服が汚れ……」

言い終わらないうちに、エイダンは言葉を失う。

シエルが息をのんで見つめる先に、野犬に食い荒らされたような凄惨な遺体があった。

強い血の匂いが充満している。

浅く息を吸った後、力が抜けたように、シエルは倒れこんだ。


暮れかけた太陽が、窓から差し込んでいる。

シエルはゆっくりと体を起こした。

「あぁ、起きたんだ。」

ノルアノスの優しい声が言う。

「ご迷惑をおかけしました。」

遺体を見て、倒れてしまったのだろう。

それにしてもずいぶん眠っていた。

「いいや、辛い人はつらいだろう。あれは……アルローも耐えきれなかったみたいだし。」

「そうだったんですか。」

「もう少し、ゆっくりしていくといいよ。疲れているみたいだから。」

どうして、気づいたんだろう。ノルアノスは、人のことをよく見ている。

シエルは自分でも、感情が外に出にくいと思うのに。

「君の元気がないと、僕も悲しくなるんだ。」

「ノアは、優しいですね。」

「そんなことないよ。」

ノアはやさしく笑う。

「そういえば、フィンレーがここに来ませんでしたか?」

普通なら、もう迎えに来ているかもしれない。

「城に帰るよりはここにいたほうがいいと思ってね。」

シエルは驚いたように目を見開く。

「どうして……」

珍しいシエルの様子にノアはいつもより口角を上げて笑う。

「問い詰めたりはしないけど、なにかあったらきちんと相談するんだよ。誰でもいいからね。」

シエルは小さく頭を下げる。

「ありがとうございます。」

それから、ベッドから出る。

「もう大丈夫かい?」

「えぇ、少し向こうを見てきます。」

ノアは何かを考えるそぶりを見せた。

「もうみんな帰ってしまったけれど、研究室にならアルローがいるかもしれない。」

シエルは一礼して部屋を出た。


「あぁ、やっぱりいた。」

シエルの声に、アルローは肩をびくりと震わせた。

「シエルか……体調はどうだ。」

「もう平気よ。アルローは?」

顔をしかめるアルローは、そのことに触れられたくなかったようだ。

「誰から聞いた?」

「ノア、だけど。」

「少し、気分が悪くなっただけだ。お前ほどじゃない。」

「そう、よかった。」

シエルはそっとアルローの隣に腰掛ける。

「何を見てたの?」

アルローがのぞいていた顕微鏡を見ながらシエルは聞いた。

「今日の現場にあったものだ。ルルとルーカスが手当たり次第にとってきたんだ。ったく、それを調べる大変さをあいつらは知らない。」

ぶつぶつと愚痴をつぶやくアルローにシエルは小さく笑う。

「そういいながら、きちんとやるのね。」

アルローが顔をそむける。

「放っておくわけにもいかないだろ。」

「そうね。アルは、私よりずっとみんなの役に立ってる。」

シエルの言葉に、アルローは再びシエルのほうを向く。

「急にどうしたんだ……今日のこと、少し気にしてるのか。」

相変わらず、アルローは不愛想なままだった。でも、その声色はいつもより少し優しい気がした。

「少し、ね。」

誰かの役に立ちたい。

この私では到底無理な夢だ。


「ねぇ、シエル。」

姉のスフィアが不機嫌な声で言う。

「あなた、倒れたんですって。」

シエルは答えない。

「情けない。ラムドネア家の恥よ、まったく。戦士としての仕事も全うできないで。」

外の世界とは違って、家の中では敵だらけだ。

「辞めたら?」

姉は、シエルに嫉妬している。

「お気遣いありがとうございます。」

天井に吊るされた豪奢なシャンデリアが二人の頬をまばゆい光を落とす。

シエルの返事にスフィアは顔をゆがめた。

大きく舌打ちをすると、ためらうことなく、水がめに入った水を、シエルに浴びせる。

卓上の蝋燭がじゅう、と音を立てて消えた。

「いつになったら、その生意気さは治るのかしら。」

こうなってしまったら、ここにいることはできない。

シエルは食事を半分以上残して席を立つ。

「あら、お姉さま、そんなに残してしまって、お口に合わなかったかしら。」

シエルは妹のシアを見て顔をしかめる。

シアはそれが面白いかと言うようにケラケラと笑った。

「お姉さまってば、わがままね。」

いつものように食事に毒をもったのは、妹のシアだ。

命に係わるほどの強い毒は使わないが、シエルが確実に苦しむ毒を使ってくる。

姉のスフィアは直接的な嫌がらせをするが、シアはもっと陰湿だ。

シエルはなにも返さず、部屋を出ようとする。

「あぁ、そうだシエル。」

だが、シエルにとって最も邪悪なのは、兄、セオルだ。

「俺の部屋に来なさい。」

気色の悪い笑みがその顔に浮かんだ。

「話がある。」


「こんなにして、まったくスフィアはいじわるだな。」

二人きりになったセオルの自室。

シエルの濡れた髪を触りながら言う。

シエルは肩をこわばらせながら、耐えている。

「今日、マルエス家の息子が訪ねてきたよ。」

エイダンが……どうして。

セオルを見ないようにしていたシエルは思わずその顔を見てしまう。

兄の顔に不気味な笑みが浮かんだ。

「妹さんを舞踏会のパートナーとして連れて行ってもいいか、と。」

セオルの冷たい手がシエルの首に触れる。

「なぁ、あいつが勝手にそう言っているだけだよな。」

ぐ、と力のこもった手がシエルの首を絞める。

「お前が戦士、聖女として人の目に触れるのも反吐がでそうになるんだ。」

息ができない。苦しい。頭が痛い。

シエルの顔が苦痛にゆがむ。

思わず、シエルは兄の手をつかんだ。

「なんだよ、その目は。」

シエルは悲痛な色を帯びた瞳でセオルをにらんでいた。

だがそれは恨みというよりも、もっと必死で、切実さに満ちている。

シエルの手から力が抜ける。意識が、遠のきかける。

突然、部屋のドアがノックされた。

その拍子にセオルの手に入った力が緩んだ。

「失礼します。」

入ってきたのはフィンレーだ。

「セオル様、今日はこのあたりで……」

フィンレーは顔色一つ変えずに言う。

セオルは大きく舌打ちをすると、シエルから手を離した。

倒れこみそうになるシエルを、フィンレーは慌てて抱きとめる。

激しくせき込むシエルを見ながら、セオルは吐き捨てる。

「行くわけないよな。お前はずっと、この家からは出られない。わかったな。」

「えぇ、お兄様。」

シエルはかすれた声で返す。


この家で、たった一人の味方と言えば、それはフィンレーだけだろう。

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