第二章 第三話
「あっ、鍵が掛かって……」
「開いたわよ」
「…………」
商館の探索は順調に進んだ。大魔王の前に、ただの鍵など無価値である。大魔王が扉を指でとん、と叩くと、鍵が壊れて扉が開く。壊れるのはあくまで鍵だけで、扉には傷一つない。日常生活を送っているかのごとく、自然に扉が開いてしまうのだ。
まるで自分の家を進んでいるかのような錯覚すら抱いたフアナだったが、アデライーダに投擲されたオークが開けた穴に出会って思い直した。
ともあれアデライーダが各所の鍵を開けること数度。様々な部屋や設備を通り抜けた後、無事に調理場兼食堂と思しき広間にたどり着いた。
「す、すごいパンだ!?」
フアナは思わず、歓声を上げてしまった。棚には中身が白いパンが大量に、しかも無造作に置かれていたのである。
中身が白いパンは小麦だけで作られた混ぜ物のない品である証。フアナの立場では手の届かない高級品だ。それが当然のように、しかも保存を考慮しない形で配備されている……つまり、この商館の住人はこのパンが頻繁に、なおかつ新品で届けられる立場だったことを意味する。
香りだけで夢中になってしまったフアナは、だから気付かない。露骨に目を泳がせ始めているアデライーダの様子に。
しばらくしてようやく落ち着いたフアナは、他の棚を漁ってみる。多く見つかったのはやはりというか、肉。保存の効く干し肉や塩漬け肉から、血が滴る新鮮な肉まで。しかも見たことのない骨の付き方をしている肉もあり、パンで舞い上がっていたフアナの頭は一気に冷えた。何の肉かわからない以上、絶対に人間がこの肉に手を出してはいけないと肝に銘じることにした。
次に調べたのは瓶。血とかが出てきたら嫌だなぁ、と思いながら順番に開けていったフアナは、実際見たこともない液体の香りに鼻を押さえたこともあったが、五番目でついに当たりを引いた。黄色く半透明で、どろりとした粘り気を持つ甘い香りの液体……蜂蜜である。それが瓶を満たすほど大量に。この瞬間、フアナのメニューは決まった。
机の上に金属製の敷皿を取り出して、白いパンを乗せて蜂蜜をかける。当然ながらこんな皿を使ったのは人生で初のことで、今までは木皿を使うかパンそのものを皿にするかだ。ましてや、白いパンと蜂蜜を組み合わせるなんて今まで考えたこともない。
何もかも初めて尽くしの光景は、フアナの目には輝いてさえ見える。思わず震えながらパンを手に取り、口に入れて。
「おいしい……ほんとにおいしい……すごくおいしい……」
人生初の美味に、語彙力を失うフアナ。ここが魔物の館だとか、どうやってここにやってきたのかだとか、そういった事は全て吹き飛んだ。
信じられないほどふわふわなパンに、甘い蜂蜜をいくら乗せても怒られない。なんて幸せなことなんだろう……
フアナは夢中になったままパンを何切れも食い荒らし、はぁ、と満足げに一息ついて……ふと、視線に気付いた。
アデライーダは未だに食事に手を付けず、立ったままだ。興味がないのかと言うと、そうでもない。むしろ前のめりになった姿勢は、明らかに蜂蜜を乗せた白いパンへの興味……というか食欲を丸出しにしていた。
「え、えっと、アデライーダさんも食べませんか?」
「! た、食べない。食べられないの、私」
フアナの言葉に、アデライーダは慌てて姿勢を正して――言われるまで、自分が前のめりになっているのを自覚していなかったらしい――首をぶんぶんと振っていた……いや、首を振るどころではない。むしろ逆にパンと蜂蜜が気になって仕方ないのがわかってしまうくらい、全身で大げさなジェスチャーをして拒否している。
「き、気遣わなくても……まだまだありますから、食べたいなら一緒に」
「食べたいけど、いや本当に食べたいけど、そうじゃなく!」
「えぇっと……? もしかして、魔物が食べたらいけないものが混じってるとか……?」
アデライーダの反応に、フアナは首を傾げた。
食欲を隠せなくなるくらい、アデライーダが欲しがっているのは明らかだ。にも関わらず食べようとしないのは、食性の違いくらいしか思いつかない。事実、この商館に置かれた食べ物も、人間には手を出せそうにないものがあったのだから。
しかし、返ってきた答えは予想外のものであった。
「今日は、七代前の命日だから。
この日が来たら毎年食を断って、眠る時は土の上で眠らないといけないの。
その蜂蜜をかけたパン、すっごく、すっっっごく食べたいけど、明日になって日が出てから食べるわ」
アデライーダは心底残念そうに、自分の事情を明かした。
これもまた、彼女が担う祭祀の一つ。アデライーダにとっての大好物で、待ち焦がれた甘味が目の前にあったとしても、命日である以上は食を断たねばならない。
その表情があまりにも辛そうに見えたのか、フアナは別の解釈をしてしまった。
「だ、大丈夫なんですか、そんなことをして……」
「? なんで?」
「だ……だって、私と出会ってからアデライーダさんが何か食べるところ、見てないです。
ただでさえアデライーダさんには迷惑ばっかり……」
フアナには、アデライーダが飢餓の中で耐えているように見えたのだ。
この商館でこうして食事ができているのは、アデライーダの力によるものに他ならない。にも関わらずアデライーダ本人は何も食べられない事実は、フアナに罪悪感を抱かせるには十分だった。そもそもここに来るまで、ずっと助けられてきたというのに。
しかし、アデライーダはそんなフアナを見ても、なにか勘違いさせてしまった以上の感想は出てこない。
「あぁ……そういうこと。
私は餓えで死んだりなんてしない。甘いものを食べたいのはただの趣味ね。
眠るのもたまにでいいから大したことじゃないわよ。
昔はもっと色んなことをしていたらしいんだけど、『死後に子孫の戦いを邪魔するのは好ましくない、形だけにせよ』と言い残した代からこうなったの」
「えぇ……?」
特に自慢げな様子もなく言うアデライーダに、フアナは呆けたような声を漏らすしかなかった。
餓えもない、眠りもほぼいらない、生物としての規格が違いすぎる。
パンと蜂蜜に惹かれていた時の顔は人間と同じようにしか見えなかったのに、少し会話をすればまた人間とは別の生き物であることを教えられる。
やっぱり魔物は違うんだな、と気付かされたフアナは、思わず聞いてしまった。
「ま、魔物って、みんなアデライーダさんみたいなことしてるんですか……?」
だがこの言葉を聞いた瞬間、アデライーダの表情は変わっていて。
「別に魔物だって、みんな食べなくても平気ってわけじゃない。
トロールみたいにむしろ人間よりも食べ物が必要な種族もいて、そういう種族には断食を強制したことなんてないわ。
そもそも……七代前の命日に付き合ってくれるなんて、魔物でももういない。
そんなに古くて大昔のことなんか、誰も興味ないって」
説明する彼女の顔は、今までの残念そうなものとはまた違う……どこか寂しそうなものだった。
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