第25話

 九月一日。


 学校が始まった。


 まだまだ日差しの強い炎天下の中、蓮はいつもと同じように人通りの多い道を避けながら学校へ向かっていた。


 学校へ着くと、特に誰かとあいさつするわけでもなく教室へとたどり着く。


「おはよ、小岩井。」

「ん、おはよー。って顔色悪いやん?どしたん?」

「んや、今日から学校かと思うと眠れなくってさ……。」


 それを聞いた彼女は高笑いする。


 いつものようににぎわう教室。意外と着いてみれば、一学期の時のように『全員が僕の事を笑っている……。』なんて思うことは無く、普通に過ごすことが出来た。


 今学期が始まったばかりでまだいじめられていないからだろうか。


「まぁ怯えて損したよ……。」


 蓮はほっと胸をなでおろす。


 始業式終わりのチャイムが鳴り、担任の大空先生が教室へと入って来た。


「えー二学期の時間割表を配ります。あと今月末にある体育大会の選手決めの期限が近いので今決めてしまおうと思います。」


 先生は何かが書いてあるプリントを片手に黒板へ種目の一覧を書き記す。


 着々とクラスメイトの競技が決まっていく中、蓮はまだ決まらずにいた。


 目立たず、一瞬で終わるようなものを選びたかった。


 人に見つかってまたいじられるのは面倒臭い。


 そう思って出来るだけ誰とも目が合わないように俯く蓮。


 その様子を横目に見ていた江川が、大きく手を挙げる。


「せんせー。」

「ん?なんだ江川?」


 さっきまでざわついていたクラス中の視線が江川へと注がれる。


 きっと江川の発言力があっての現象なのだろう。


「千五百メートルは蓮に走ってもらいたい……。」


 その発言にクラス中の人間がさっきまでの和気あいあいとしたざわつきからは一辺して、事故でも起きたかのように騒ぎ出す。


 千五百メートル。


 この高校ではどうなのかなんて知らないが、中学までなら他の競技と並行して行う目立たない種目だった。


 けれどクラスのこの騒ぎ方から察するに、きっと目立つ種目なのだろう。


「まぁ植田が良いって言うなら良いぞ?」


 その大空先生の一言をきっかけにクラス中が自分を見つめる。


 どこを見ればいいのか分からなくなって、汗が滴る。


 すぐに小岩井の方を見ようとしてしまったが、見たところで何か変わるわけでもなければ、彼女にこの状況を一緒に背負ってもらうわけにもいかないと感じ、挙動不審になってしまう蓮。


 先生と目があった。


 目が合うと先生は口角を少し上げて頷いて見せる。


 蓮は思わず立ち上がってしまった。


 椅子が勢いに押し負けてガタンと音を鳴らして倒れかけた。


 どんなに辛くても、どんなに寂しくても、どんなに逃げ出したくても、心の中にあった大切な理由。


 ――小岩井を喜ばせたい……。


「僕、やります!やりたいです!」


 場は一瞬静まり返った。


 そんな中先生と江川、小岩井をきっかけに波紋が広がるようにして拍手が起きた。


 午後二時。小岩井と二人で並ぶ帰り道。


「あー、柄にもなく恥ずかしいことした……!もうすでに後悔してるや……!」


 ヘラヘラとした笑顔でそう話す蓮を見て、意地悪に「んじゃやらなきゃよかった?」と尋ねる。


「ううん!大丈夫!どうせきっと後悔をした!」


 少し前まで忘れていた。


 どうせ後悔をするのだ。


 江川がきっかけをくれた。先生が理由をくれた。小岩井が勇気をくれた。


「よし!今日からまた頑張るぞー……!」

「それ付き合うの私なんやからな……?」


 当たり前のように手伝うつもりでいる小岩井に感謝して、蓮はその日からまた練習を再開することに決めた。


「一旦家帰るのも面倒だし普通に部活入った方が速い気がしてきた。」

「いや!?普通体育祭のために部活入る奴なんておらへんからな!?」

「た、確かに、熱量低い奴が入ったら迷惑だもんな~。」


 さて、どうしたものだろうか……?


 通常授業が終わって一度自宅に帰ったら、おおよそ16時くらいだろう。


 小岩井はいつも父のために夕飯を作っているらしいため、遅くても18時には帰らなければならない。


 一度家に帰ってけら小岩井の家に向かうと……。


 頭の中でスケジュールを組み立てる蓮。


「なんか難しいこと考えとるけど、普通に学校で走ればええやん?」

「はぁ!?なんかそれって恥ずかしいじゃんか!僕だけガチって感じしてさ!?」

「いや、ちゃんと練習してガチやんか……!体育祭なんて普通練習せーへんもんやねんからな!?」

「だから余計恥ずかしいんだよ!却下だ却下!」


 小岩井は何が可笑しいのか「なんやそれ。」と言ってクスクスと笑う。


「なーにわらってんだよ。これでも真剣に考えてんだぜ?」

「ごめんやん。」


 彼女はヘラヘラとそう答えた。


 今は冗談のようにこうやって話のタネにはしているが、実際に悩んでいるのは事実だ。


 両腕を組み、頭をひねりながら呻く蓮の様子を見て、小岩井は右足のつま先で左足を突っつきながら提案をした。


「うち、来る?親夜まで帰ってこーへんし、荷物置きにしていつもみたいに竜田川沿いで走ろうや?」

「お!いいの!?」


 小岩井は家へ招き入れる前に自宅の片づけをしたいということで、その日は一度帰ってから再集合することとなった。


 小岩井と別れて、電車で一人になった蓮。


「人の家とか行くの初めてだなー。なんか手土産とか必要かな……?」


 スマホのホーム画面にある検索エンジンを利用して「家 手土産 マナー」で検索をしてみる。


 何度かスクロールをしてみてようやく蓮は自覚をした。


 ――あれ?この展開知ってるぞ?「今日、親、いないんだ。」って恋愛アニメの王道パターンじゃないか!?


 そう思った瞬間同様のあまり、蓮はスマホを落としてしまった。


 蓮は何も考えずに返事をしたことをひどく後悔した。


 午後三時半ごろ。


 蓮は夏休みのころと同じ川までやってきていた。


 いつもこの川はじっとりとした夏の暑さを緩和してくれていたが、今日に限っては違う。


 鳴りやまない心臓の鼓動が、暑さを増大させていく。


 脳みそが煙を出して故障してしまいそうなほどに熱暴走している。


「小岩井になんて顔して合えばいいんだろ……。」


 一瞬何も考えずに返事をしたことに後悔したが、今となっては「もしかしたらファインプレーなのでは?」なんて思っていたりする。


 ――いいや!堂々としてたらいいんだ!別に悪いことをしたわけじゃない……!


 蓮はあえて腕を組み、仁王立ちで小岩井を待つことにする。


 これは決して悪いことはしていないという心のあらわれを示していた。


 意を決したタイミングを見計らったかのように、小岩井は大きく手を振ってこちらへ駆け寄ってくる。


 遠くから小走りでやってくる彼女は人懐っこい小動物のように見えて愛おしい。


「ごめんなさいお義父さん……!僕悪いことしちゃいそうです……!」


 まだあったこともない小岩井の父に思わず謝罪をしてしまう。


 彼女の家に行って自分は理性を保っていられるのだろうか?


 振り払っていたはずの脳内妄想映像がつい、再生されてしまう。


 映像の中。


 舞台は小岩井の家の前。


 小岩井の家は住宅街の中にある一件家。


 自宅への扉までには、少しの階段とその手前に小さな門扉がある。


 小岩井は自宅が近くになると、一度蓮が門扉の先に逝こうとするのを止めて恥ずかし気に頬を赤らめる。


「今日……、家族……、夜まで誰もいない……。」


 彼女はそっぽを向くように、駆け足で家の扉へと向かうのだった。


「……ん?……ーい!……うえだー!」


 遠くから彼女の声が聞こえ、蓮はようやく元の世界に帰ってこれた。


「植田どないしたん……?」


 目の前の彼女は妄想と同じように頬を赤らめながら蓮に尋ねる。


「んや、ちょっと今夢の国について考えていた。」

「ユニバ?」

「あそこは夢の国なのか?」


 いたずらに笑う彼女がとても可憐で、これも夏の魔法なのかと思うとくらくらする。


 ――いいや!だめだ!これじゃ真剣に手伝いに来てくれていた彼女の親切心を無碍にしてしまうことになるじゃないか!


 蓮は決意を固め、その日はからしっかりと走ることにした。

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