カブトムシ(雌)の恩返し

よし ひろし

カブトムシ(雌)の恩返し

 初夏を思わせるような暖かな四月の日曜日、久しぶりにベランダ周りの掃除でもしようと思い立ち、ベランダの隅に置いた物置を開いた。そこから滅多に使わない掃除道具を出そうとして、ふとあるものに目が留まる。

 使いかけの昆虫の袋だ。10Lの大袋を買ったが、結局三分の一ほどしか使わず、そのまましまっておいたのを思い出す。横には余った昆虫ゼリーの袋も置いてあった。

「今年も飛んでくるかな、カブトムシ」

 去年の夏、このベランダへと迷い込んできた一匹のメスのカブトムシのことを思い出す――……



 このマンションがあるのは都会のど真ん中。コンクリートジャングル、ビルは林立しているが、本物の木々はほとんど見当たらない。五年程ここに住んでいるが、カブトムシが飛んできたのは去年の夏が初めてだった。朝、ベランダの隅にいる黒い虫を見て、でかいゴキブリが出た、と最初は思ったほど、カブトムシやクワガタなどはここら辺では見ることはない。

 そんな物珍しさもあって、俺はそのカブトムシのメスを捕まえて、飼うことにした。


 とりあえず部屋にあった通販のダンボールを虫カゴ代わりにして中に入れ、近所のホームセンターへと必要な物を買いに出る。

 カブトムシ一匹だけなので中くらい程の飼育ケースを買い、更に必要そうな諸々、昆虫マット、昆虫ゼリーにエサ入れ、止まり木なども買い揃え、家に帰ってきた。


 部屋に戻り、カゴ代わりのダンボールを開けると、カブトムシがいない。角に穴をあけ、逃走していた。カブトムシのメスの掘る能力を甘く見ていたようだ。

 慌てて辺りを探すと、テーブルの脚にしがみついてるのを発見。そこで落ち着いているようなので、買ってきた飼育セットを手早く用意し、無事、ケースの中へとカブトムシを納めることができた。


 虫を飼うなど小学生以来だ。正直少しウキウキした気分になっていたが、カブトムシのメスはほとんど土の中に潜っていて、面白味はなかった。オスならよかったな――などと少し思ってはみたが、それでも自分以外に生き物が部屋にいるのいうのは、悪くはなかった。気づくと話しかけたりして、楽しんではいたのだと思う。


 そのメスのカブトムシは、左の翅が少し抉れるように傷つき、左の後ろ脚の動きも鈍く、引きずるように動いていた。もしかしたらここに来る前に鳥にでも襲われたのかもしれない。

 それにしても、どこからやって来たのだろう。


 近所で飼われていたのが逃げ出したのか?

 それとも、少し離れた公園か、神社の鎮守の森から飛んできたのだろうか?


 などなど様々な背景を考えつつ、夜中、エサを食べに来る時だけ姿を見せるメスのカブトムシをぼーっと眺めるのが、その夏の日課となっていた。


 そうして、一月ひとつきほどの時が流れた。


 あの不思議な出来事が起きたのは、夜中になっても三十度近くもある超蒸し暑い日の事だった。

 その夜は、いつもエサを食べに出てくるカブトムシが姿を見せなかった。数日前からエサの減る量が少なくなってきており、とうとう死んでしまったのではないか――そんなことを考えたが、とりあえず一日様子を見ようと、その日はそのまま眠りについた。

 エアコンをつけたままベッドに入ったのにもかかわらず、その日は妙に蒸し暑く、なかなか寝付けなかった。うとうととはするものの、完全な眠りには入れずに、気づくと深夜二時を過ぎていた。


「はぁ…、エアコンの温度、下げるか」

 そう思い、ベッドから起き上がった時、足元の方に人影が立っているのに気づいた。


「――!?」

 泥棒か――驚き、身構える。が、違った。


 そこに立っていたのは、茶色いカットの髪をした女性だった。それも、全裸で日焼けしたような小麦色の肌をした、なかなかスタイルのいい若い子だ。

 いや、おかしい。部屋に明かりはついていない。本来ならそんなにはっきりと、姿が見えるはずないのだ。


「……」

 頭が真っ白になり、無言のままその女性を見つめていた。すると、


「私は、あなたに助けられたカブトムシです」


「へ?」

 言葉の意味が解らなかった。


「元の飼い主は酷い方で、メスなんかいらない、などと言いながら乱暴に扱われ、ご存じの通り、翅と脚を痛めてしまいました。そのままでは殺されてしまうと思い、隙を見て逃げ出したのです」

 彼女はこちらが混乱しているのもかまわずに淡々と話を続けた。

「どうにか外に飛び立ったものの、翅の怪我は予想以上に酷く、緑のある所まではたどり着けませんでした。そうして力尽き、飛び込んだのがあなたの部屋のベランダだったのです」

 そこまで話したところで、女性がゆっくりとこちらに近づいてくる。


「私の寿命は間もなく尽きます。ですので、最後にあなたに恩返しがしたいと――このような姿になってまいりました」

「恩返し…?」

「はい。日々私に話を聞かせてくれた中で、彼女が欲しいという話が何度か出ましたね。ですので、せめて今晩一晩だけでも、私をあなたの彼女だと思って、好きにしてください」

「え……」

 思ってもいなかった展開に、頭が更に真っ白になる。

 言葉も失い、ただ呆然とする俺に彼女は静かに抱き着き、唇を重ねてきた。


「うっ…」

 押し付けられる唇の感触は人と変わらない。抱き着く裸身も若い女性そのものだ。


 幻ではない――


 蜜のように甘い香りが鼻腔をくすぐる。その香りに頭が痺れてきた。


「ねぇ、抱いて……」

 耳元で囁く切ない声にオスの本能が呼び覚まされた。


「――――」

 無言のまま女をベッドへと押し倒し、その裸身をむさぼる。


 彼女の肉体は人間のそれと全く変わらなかった。実は何らかのドッキリ企画で、その辺りに隠しカメラがあり、ネットで生中継されているのではないか――そんなことも頭によぎった。

 が、気になることが二つあった。

 一つめが足。女の中に己のモノをより深く打ち込むために両足を抱え思いっきり広げた時に、彼女が僅かに顔をしかめたのだ。左足の股関節が痛むらしい。それはまさに飼っていたカブトムシと同じ症状。

 そして、もう一つ。流れの中で後背位の態勢に移った時、彼女の背中、左腰のやや上に、肉が抉れたような傷跡があったのだ。それも足と同様、飼っていたカブトムシの特徴そのままだ。


 まさか、本当にあのカブトムシの化身なのか――


 そんな思いが強く浮かんだが、それも昂まる欲情の中に埋もれていき、そんなことはどうでもよくなった。

 性欲に任せ、乱暴に、自分勝手に女を蹂躙しつくす。

 その体内に何度も何度も、欲望の塊を吐き出した。


 かつてないほどの激しい性交――


 どれほどの時間が経ったのか、俺はいつの間にか眠りに落ちていた。

 そして、気づいた時には朝になっており――女の姿はどこにもなかった。


 すべて夢だったのか――


 そう思ったが、ベッドは乱れ、激しい運動後の倦怠感が確かに残っていた。


 では、現実だったのか?


 俺はハッとなり、リビングに置いてある虫かごへと走った。

 蓋を開け、中を確認する。

 土を掘り、カブトムシの姿を探すが、どこにもいなかった。


「バカな、逃げられるはずはない……」

 蓋はしっかり閉まっていた。プラスティックケースに穴も開いてない。


 どこに消えたというんだ……


 わからない。そう、わからないんだ。

 今考えても、なにがなんだかわからない。

 ただ一つ確かなのは、飼っていたメスのカブトムシが忽然と消えてしまったということだけ――……



「やっぱり、夢だったんだろうな、あの女性との一夜は……」

 物置の中の昆虫マットの袋を見ながら、そう思い返した。

「捨てちまうか…」

 その袋を見るたびに妙な一夜のことを思い出してしまうだろう。少しもったいない気もしたが、いい機会だ。思い出と共に処分すべく昆虫マットの袋を手に取った。

 と――


「ん?」

 何か感触がおかしい。

 中に何やらゴロゴロとした塊がいくつもあるのを感じた。

「何だ――?」

 口を縛っていたビニール紐をほどき、中を確認する。


「――!?」


 息を呑み、驚きのあまり袋から手を放してしまった。

 下に落ちた袋は横倒しになり、中味がこぼれ出る。

 腐葉土のような昆虫マットではなく、コーヒー豆のような粒状ものが、ザザーっと流れ出て、それと共に白い物体が這い出して来る。うねうねと動く白い芋虫――カブトムシの幼虫だ。


 次から次へと這い出てくる幼虫たち――


 十匹、いや二十匹以上いる。

 残っていた昆虫マットを食い尽くし、丸々と育った白い幼虫たちが重なるように這って来る。コーヒー豆のような粒はどうやら幼虫の糞のようだ。


「な、な、何だこりゃ!」

 思わず叫ぶ。その耳元で、


「あなたと私の子供たちよ」

 彼女の声がした。


 反射的にを振り返る。と、そこに、あの晩と同じ姿の女性が立っていた。


 そう茶髪でショートカット、こんがり焼けた小麦色の肌をした全裸の若い女の子…


「――!」

 言葉が出ない。ただ目を見開き、愕然の彼女の姿を見つめるだけ。


「可愛いでしょ、私たちの赤ちゃん。でも、私には育てられないから、後のこと、頼みますね」

 にこやかに微笑みながらそう言った後、ぐっとこちらに顔を寄せ、

「きちんと育ててくださいね、私たちの子供たち。いいですね、あ・な・た」

 真剣な少し怖い表情で言い残し、彼女の姿は虚空へと消え去った。


「……」

 無言のまま呆然と立ち尽くす俺。その足元に、白く蠢く幼虫たちが集まってくる。


 腹減ったよ、ご飯をくれよ、父ちゃん――


 そんなセリフが聞こえてきそう


「俺の子――バカな、そんなのありえない……」

 当然否定する。が、そこで蘇ってくる彼女の声。


『あなたと私の子供たちよ』


 その言葉が脳内で幾度もリフレインする。


 現実と夢の境界が崩れ落ちていく。正気と狂気が織り交ざり、混沌が俺の心を支配する。


 今俺は何を見ているのか……


「は、はは、はははは……」


 蠢くカブトムシの幼虫の姿を見ながら、自然と乾いた笑いが漏れていた……

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