第5話
木曜のランチタイムを過ぎた後、昼休憩を終えた美弥子が店内へ戻ると、店長がバックヤードへ籠って作業しているらしく店にいなかった。ただいま、と彩矢に声をかけるとホッとしたように笑顔になり、美弥子はつられて微笑む。ついで何事もなさそうかな、とすぅっと店内を見まわしたタイミングで、ふと思い立って彩矢に質問してみた。
「ねぇ、最近店長がトイをしまっちゃうの何だと思う?」
「え?なんですか?それ」
「なにって……最近店長、よくトイをトックスにいれちゃうじゃない?」
「そう、でしたっけ?ああ、でもそうですね確かにいれてる時が多い、かも?でもさっきまでは普通にトイちゃん座ってましたよ」
「え?」
そこに、と言いながら彩矢は店長のトイの定位置であるカウンターの端を指さした。
さっきまで?
どういうことだろう、美弥子がバックヤードのロッカーで休んでいた間はここに居たという事なのか。
「確かにいない時があって寂しいですよね。でもその分、そこに座ってるとホッとしてニコニコしちゃいます」
「そう、……うん、そう、ね」
ここ数日、なんてものじゃなく、もう二週間位、美弥子は店長のトイが座っているのを見ていなかった。たまに連れているのを見た時も、店長のエプロンのポケットの中にいれられているか、手の中に抱き上げられていて、それらは彩矢がいう状態とは大分違っている。
……どういう事なのだろう。
もしかして、避けられてる?
なぜ、どうして、と美弥子がぐるぐる考えている間に、やはり今日もまたトックスにトイを入れてきたらしい店長がバックヤードから帰ってきたことで、この話はそこまでとなってしまったのだった。
それからも、美弥子がふとしたタイミングでカウンターを見ると、座っているのは自分のトイだけという状態が何度もあった。これまではずっと、カウンターの端の定位置に小さな店長そっくりの可愛い子が座っていたのに、その姿が無いだけでどこか寂しく感じてしまうのはどうしてだろう。
店長の胸ポケットの中にしまわれてしまっているトイは頭のてっぺんしか見えていない。
彩矢に聞くと座ってるのを見るという。
以前聞いたトックスに入れていた理由は寝不足だって話だった。じゃあ、ポケットにしまわれている理由はなんなのだろう。
けれど、トイに関する事はかなり繊細だ。おいそれと他人のトイについて口を出すことは失礼にあたる。自分のトイが他の人のトイとじゃれるのは構わないけれど、それだって親しい友人や見知った顔でないと、どことなくザワついて、嫌な気持ちになってしまう。それくらい、心の内に近い存在なのだ。
店長にとって美弥子がどの位の距離感の相手なのかは……正直にいってわからない。美弥子としては彼が好きだけれど、何度かほのめかしても袖にされたし、冗談めいて口にした私はどう?という言葉には、はっきりとこんなおっさんはやめておけと言われてしまった。
こんな状態では、とてもではないけれど、トイをしまってしまう理由を聞けるわけがなかった。
美弥子はもやもやとした胸の内を抱えながらも、表面上はいつもと変わらずに業務に精を出すしかないのだった。
◇ ◇ ◇
カランカラン、と来客を知らせるベルが鳴り、美弥子は入口へ顔を向けいつものご挨拶を口にする。
「いらっしゃいませー」
「こんにちは、こちらに阿部さんという……ああ、お久しぶりです」
ドアを開けて店に入りながらきょろきょろと申し訳なさそうな顔で店内を見まわした女性客は、カウンターの中の店長を認めて、あからさまにホッとした様子を見せた。
「あれっ……あぁそっか、不破ですね?お久しぶりです立花さん。あれ、でも時間が……」
「今日は休みなんです、丁度いいなって思って」
「なるほど、それなら時間を気にせずにゆっくりしてってもらえますね」
どうやら、二人は知り合いらしい。先日、やはり店長の知り合いの不破という男性客がひといきを訪れたのは三日前だ。店長の口ぶりからするに、この女性客はその不破さんとも知り合い、要はきっと同じ会社の同僚であり、店長とも元同僚というところなのだろう。
「お席はこちらでよろしいですか?」
美弥子が店長が立っている前にあたるカウンター席を手で示すと、女性客は微笑んで頷いた。
「ええ、ありがとうございます」
柔らかく微笑む女性はとても優しそうで、包み込むような雰囲気を持っている。私とは大分タイプが違うなぁ、なんてついつい比べてしまったりして。
美弥子がついその女性、立花と呼ばれていた、を気にしてしまったのも無理はない。
店長のトイが、立花さんのトイを見つけてぱぁっと顔を輝かせたのが見えてしまったのだ。
もともと、店長のトイは大人しくてそこまで動き回る子ではない。美弥子が知る限り、この5年の間、だけれど。それでも5年もみていればなんとなく解ってくる部分はあって。
その、美弥子が知る限りの店長のトイは、常にニコニコしてはいるけれど、あからさまに満面の笑みを見せた事はほとんど無い、はず。
つまりはそれだけ、店長と立花さんというこの女性客は親しい間柄なのだと、知りたくなかったけれど解ってしまった。
「いつぶりですかね……俺がやめる時にご挨拶しましたっけ?」
「ちゃんと来てくださいましたよ、覚えてないんですか?阿部さんそういうところ律儀だから、それまでのお礼って言ってお菓子の詰め合わせまで持ってこられちゃって。すっごく慌てたんですよこっちは」
「あはは、そんな事しましたねそういえば。いやぁだってお世話になったのは本当だし、ちゃんとお礼しとかなきゃなって」
にこやかに笑いながら会話する店長は、その手元に自分のトイを引き寄せて、小さなその子の頭を撫でながら言っている。
あんな風に、トイに触れながら話をする事なんて見た事がなかった。その事実に驚いた美弥子は、普段ならあり得ない事に、他のお客がいるにもかかわらずぽかんとした顔をして暫く固まってしまった。
この女性は一体店長にとってどんな人なんだろう。随分、親しそうだけど、でも微妙な一線もありそうな……ああ、やめやめ。変に勘ぐるのは駄目。接客の基本として、お客様の事情を探るのは良くない事。
好みやクセを察知してオススメしたりするのはアリだけれど、個人的な事情を知ろうとするのはタブーだ。
良からぬ思いを振り払うようにぐっと手を握り締めた美弥子は、その女性客を店長に任せて奥のテーブル席の片付けへ行くことにした。
それに……ひといきの店内は、さほど広くない。離れた席で作業をしていたとしても、カウンターで話す二人の会話は、聞き耳をたてていなくても、聞こえてしまうに違いないから。
我ながらよくない考えだな、と思いつつも、二人の事が気になって仕方がない。向こうだって、こんな他の人がいる場所で話す事なら、別に誰に聞こえても大丈夫な内容なのだろう、きっと。
何にします?うーん、なににしようかな、オススメは?そんなやりとりが美弥子の耳に届く。ほら、聞こえてくる。だから、こっちにいても平気。違うの、駄目だって。
そんな風に思いながら、片付ける手を動かしていた美弥子だけれど、美弥子ちゃん、と店長から声がかかった。なんだろうと顔だけ向けると少し困り顔の店長がいた。
「ごめん、あと2・3皿でベーコン終わるっぽい。ちょっといつものとこ行って買ってきてくれる?着く前に電話しとくから」
「珍しいですね……在庫チェックしなかったんですか?」
店長が食材を切らす事は滅多にない。朝、まだ早いうちに彼自らチェックしていて、美弥子が来る前に買出しのメモが用意してあるのが常だ。そのメモを手に、美弥子が店内の清掃をしている間に買出しへ行ってくるのが毎朝の恒例となっている。
「今朝どうも数え間違えたっぽいんだよね、ほんっとごめん」
今日は想定よりもBLTが出たという事だろうか、でもそれなら野菜は?とも思ったけれど、言われたのはベーコンだけ。
まぁ、そんな事もあるか、と美弥子は無理矢理自分を納得させる。
「いいですよ別に、気にしないでください。渡辺精肉店さんですよね?」
渡辺精肉店は金糸雀駅前商店街の中にある。どのお肉を食べても美味しいと評判の店だ。肉も惣菜もお安くてボリュームたっぷり。ファンが多いのも頷ける。たまに美弥子自身も夕飯のおかずにしようと揚げ物を買いに行くくらいだ。
ただ、その金糸雀駅前商店街は、金糸雀駅の向こう側だ。買い物して往復するとなると20分はかかるだろうか。
「そ、あそこのじゃないと美味しくない。ごめんよ、お願い」
「わかりました。3番テーブル片付け終わってます、5番はゆっくりされてますし、他は空きですので。店長一人で平気ですよね?」
「ひどいな、流石に出来るって。俺を誰だと思ってるの?」
「はいはい、有能でイケメンな店長様でーす。それじゃ、行ってきます」
エプロンを外して、店長から店用の財布を預かった美弥子は軽やかに告げてドアを開けた。開けた隙間から、むわり、と蒸し暑い空気が美弥子に纏わりついてくる。そうだった外は灼熱の真夏。涼しい空気が逃げないようにと、美弥子は背後からかけられたいってらっしゃいという声が聞こえるどうかというタイミングで素早くドアを閉じて、足早に駅向こうの商店街へと歩き出した。
日影を選んで歩きつつも、こめかみを汗が伝い始める頃、やっと金糸雀商店街に入った。ガードに日が遮られるだけでかなり違うなと息をつきながら目指す渡辺精肉店に着くと、夕飯の材料を買いに来たおば様方がショーケースに並んだ鮮やかな色の肉を見て悩んでいるのが見えた。牛肉も豚肉も国産の美味しそうなお肉からお安めの細切れまで沢山あって目移りするのも頷ける。左側の仕切られた向こうには揚げ物が並んでいて、それもまた揚げたてサクサクとくれば、そそられるのも仕方ない。
一緒に今日の夕飯分を買っちゃおうかしらと思いつつも、買うべきものと店へ戻ってからしばらく時間がかかる事を思い出して、買うにしても後にしようと思い直す。それと共に店内に残してきた店長と彼と仲良さげな女性客を思い出してしまい、知らず美弥子の顔は曇ってしまった。
晴れない心のまま、それでも気を取り直して、二人並ぶおば様の横から奥で作業をしている店員さんへ声をかけた。
「こんにちは、ひといきです」
美弥子の声に気が付いたのか、奥で肉の塊を切っている白衣に身を包んだ男性がこちらを見て頷いた。
「いらっしゃい関さん。阿部さんから電話もらってます」
「お世話になります」
「いやいや、こちらこそいつもありがとうございます。えーっとこれですね、ベーコンスライス1キロ、こちらでお願いします」
笑顔で対応してくれたのは渡辺精肉店の二代目だ。愛想もよく声が通るので接客業はかなり向いている気がする。マスクをしていてもにっこりと笑った笑顔がチャーミングなのはよくわかる。彼の周りをふわふわと飛んでいるトイもニコニコで、揃ってこの店のマスコットの様な存在だ。
いつもなら朝の早い時間帯に店長がやってくるからいいのだろうけれど、今は他のお客もいる時間である。一般のお客の手前、仕入価格はあまり口にしたくないのだろう、彼は包装済のベーコンに貼られた値札を指さしていた。
「ああ、はい。……それじゃ、これで、お願いします」
一キロ、スライスする手間もあるだろうに2500円はここのお味を知ると格安だ。ありがたいなと思いながら丁度よい額を財布から出して支払いをすませた。
「うん、ちょうどです。ありがとうございます。あれ……関さん、どうかしました?」
「えっ……と、何か、おかしかったです?」
「んー、気のせいかな、いつもより元気がない気がしたんですけど、俺の気のせいですかね。すみません、手を止めさせちゃって」
ドキ、と一瞬止まってしまったけど、すぐに誤魔化せた、と思いたい。
「や、やだなぁ、別にいつも通りですよ。あー、あれかな、今日も暑いじゃないですか。店で冷房に慣れてたのに、この暑い中歩いてきたから。そりゃ元気も無くなりますって」
「あはは、確かに。今年はまた暑いですしねぇ。うちも店ン中は涼しくしてますし、気温差でしんどかったりしてません?大丈夫です?」
「大丈夫ですよ、帰ったら店長にお使い賃としてアイスを要求しますから」
「そりゃいいですね。俺もまた今度お邪魔します」
二代目は結構珈琲が好きらしく、ひといきの常連でもあった。週一で通ってくれる、いいお客だ。
「是非、それじゃまた」
互いに軽く会釈をして、カウンターを離れ店を後にする。
商店街の端までそのまま笑顔をキープして来てから、はぁっ、とひとつ大きく息をついて立ち止まった。
美弥子の心臓は渡辺精肉店を出る前からひどく早い。挙動不審になっていなかっただろうかと心配になるけれど、頭を振って忘れる事にした。少しくらいの可笑しさは、この暑さのせいで参っているとでも思ってくれるといいなと思いながら。
もう夕方の4時になろうというのに暑さはひどく、袋の中のベーコンも早く冷蔵庫へいれないと悪くなってしまう。
もっとも、美弥子の足がついつい早くなるのはそれだけではないと自分でも良く分かっていた。
店長と立花と呼ばれた女性が、どんな会話をしているのか気になって仕方がなかったのだ。
早く帰ろう、と気が急いて、じっとりと汗ばむのも構わず帰り道を急いで進む。
結局美弥子がひといきのある通りまで帰ってきたのは、店を出発してから30分程あとだった。そんなに長い時間出ていたつもりはないけれど、それでも駅の向こうへ行って帰ってきたらそれなりにはかかってしまうということだろう。
「只今戻りました……と」
やっと帰ってきた、と急いだせいで余計に体力を消耗してしまったしんどさから疲れがにじんだため息をつきながらドアを開けると、立花という女性はカウンターの椅子に手をかけて立っているところだった。ちょうど彼女が帰ろうとしたところのようだ。
「ああ、おかえり。暑かっただろ、ちょうど立花が帰るところだから、その後すぐ冷たいもの出すよ」
「お帰りなさい。私はいいから彼女に先に出してあげて、外すっごい暑いわよ」
「ああ、いえ、お構いなく……先にこれだけしまっちゃうので」
美弥子は気を使われることのないようにと、手に持っていたベーコンを見せて二人に返事をした。
そうだね、それじゃそのあとで、と店長が頷いた事で立花さんも納得がいったらしい。カウンターの中の冷蔵庫へ向かう背後で、それじゃあ、と店長へ向けて別れの挨拶をしたのが
聞こえた。のだけれど。
「ああそうだ阿部君」
もう会計も済んでいたらしく、カランという音をたてて少しだけドアを揺らしたところで、女性は声をあげて立ち止まった。
「ここのこと、不破くんから聞いたんだけど、その時瀬川さんもいたの。多分そんなに遠くないうちに来るんじゃないかな」
「そう、ですか……わかりました。ありがとうございます」
女性の口からは新しい名前が聞こえた。それと共に告げられた声音は、少し歓迎されない雰囲気を醸し出している気がする。聞いていた店長の声も不自然に止まり、強張った、気がした。
何があるんだろう、この女性もそうだけど、瀬川さん、とは一体どんな人なのだろう。
美弥子の疑問は膨れ上がるばかりだけれど、二人はお互いに解っているようで、聞ける雰囲気は微塵もない。
聞き耳をたてていた事がバレぬように、そっと冷蔵庫を閉じて振り向いた美弥子の視界には、店長のトイが彼女のトイとぎゅうとハグしている光景が飛び込んできた。
今日の美弥子は、一体何度驚きと困惑を繰り返すのだろう。
店長が笑顔と共にトイを撫でながら彼女に相対したことで十分驚いたとおもったけれど、それだけでなくトイがハグをするなんて。
それはつまり、家族や本当に親しい友人の一人という事だ。
中にはそれほど親しいというわけではなくてもハグのできるトイもいるけれど、店長はまずそういう人ではない。
「それじゃあ。ありがとうございました、今日は久しぶりにお喋りできて楽しかったです」
「こちらこそ、今日はありがとうございました」
「また来ますね」
カランカランと、今度こそ軽やかな音をたててドアを開けた彼女は、外の暑さを物ともせずに颯爽と歩き出して、ドアの向こうへ去っていく。
「おし、美弥子ちゃんにお駄賃あげなきゃな、アイスコーヒーとアイスどっちがいい?」
「え、ええー、どっちかなんですか?頑張った店員にくれるご褒美はフロートでしょう」
「強く出たな?いいよ、今日は俺の気分がいいから、フロートにしてあげよう。ちょっと待っててな」
やった、と美弥子は胸の前でパチンと手を合わせながら、ちょっと待ってろといった店長がどこへ行くのか目で追いかける。すると彼はバックヤードへ行き、少ししてすぐに帰ってきた。
けれど、その彼の胸ポケットには、ついさっき立花という女性が帰った時に入れていたトイの姿が無くなっていた。
なんで?どうして?
ついさっき、彼のトイはとても笑顔でいたし、疲れている風でも、眠そうな雰囲気でも無かったはず。
それなのに、またトックスにしまわれてしまった。
戻ってきた店長はそそくさとカウンターの中へ入り、翳りを見せた美弥子の表情には気付かないまま美弥子のためのコーヒーフロートを作り始めたのだった。
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