半径二百メートルの宇宙 道明寺安須樹と小倉華乃子

葱と落花生

第1話 殺人事件から遡る事の非日常体験

 首吊りというのは実に不気味なものだ。

 部屋は荒らされ照明が壊れている。

 暗闇の中、一周回って灯台の明かりに照らされる遺体。

 割れたガラス窓の向こうから吹き込んでくる潮風と、時折打ち寄せる大波に傾く船内でユラーリ揺れている。

 落ち着けと必死で自分に言い聞かせても、鼓動は速度を増し息遣いは荒くなるばかり。

 この死体がどんな経緯でこの姿になったかを知ろうとすればするほど、高ぶる気持ちを抑えられない。

 誰も好き好んでぶらぶらする仏さんの前に立っているのではない。

 僕の場合、幼少期まで遡った経験が少なからず影響している。


 右へ曲がって池にポチャ。

 左に行ったら崖からドン。

 真っ直ぐ進んで迷い道。

 どっちに行っても先がない。

 過去に拘る気はなくとも、今まで後ろばかりを見続ける人生だった。

 未来が見えない以上、これから何年生き延びられるかは不明だが、決して長くはないだろうと自分に問いかける毎日を過ごしていた。


 始めて幽体離脱なる現象に出くわしたのは、五つになった年の五月五日。

 隣に広がる豪邸に住む幼馴染の為だろう鯉のぼりが、生きているかの如く皐月晴れの空に舞っていて不思議だった。

 はて、去年の今頃はどんな状況であったか、振り返ってみたその時、この身に異変が生じた。

 何事が起きたかの記憶はないが、周囲にいた人間の証言を元に状況を再現すれば、突然倒れ込んで一時間ばかり仮死状態だったらしい。

 その間僕はどうしていたかというと、去年の自分が隣家の庭で遊んでいるのを上空から眺めていた。

 まだ知識というものが微かな年頃で、このような現象が幽体離脱だと知る由もない。

 加えて妙なのは、この離脱が体の時間と同時進行ではなく、脱して浮遊する霊体は過去に行っている事だ。

 もっとも、時を超越していたのだと理解したのは、ずっと後になってからだが。


 ポッポ屋の父と桶屋の祖父・母と叔母に兄、それに足す事の自分で総勢六人。

 当時としては平均的な家族構成だったものの、現金収入といえば父が勤務していた日本国有鉄道からの月給と、年に数か月ばかり有るか無いかといった東京努めで得る叔母の薄給のみ。

 祖父が営む桶屋は早桶が出ると喜ぶ始末で、あてにできるものではなかった。

 こんな状態だから我が家は、現代から見れば貧しい世帯に見えなくもないが、社会全体がこんな状況だった昭和の時代。

 当家にはカラーテレビなる機械まであった。

 あの頃にしては、いたって平凡な生活水準だったと家計簿に記録されている。

 ところが近隣を見渡すと、どれほどの悪行に手を染めていたのか、極めて裕福な家庭が数件あった。


 五歳になったばかりの頃、僕にとって一番劇的な出来事は前期にある幽体離脱であるが、その他にも記憶に鮮烈な事件がいくつかあった。

 今でこそ木白市となって栄華を極める地域だが、僕が幼少の頃は田畑野山の中に、ポツポツあばら家がある程度の人口密度で、周囲に住まう子供は殆どが鼻たらしの年上だった。

 こんな状況で同年代の男子が少ない中で、一緒になって遊べたのは女子が圧倒的に多かった。

 見かけはまだ男の子とも女の子ともつかない年頃であったためか、一緒に遊んでいた女共の悪戯で、普段からの衣装が女物だった事も多々あった。


 これを見かけ、僕が戯れる姿の美しさに魅了されたか、色気づいた近所の悪ガキが、何やかんやとちょっかいを出して来ていた。

 今も昔も毛嫌いされている、性犯罪の加害者と被害者の関係が成立する状況へと進展するのに、たいして時間はかからなかった。

 もっとも、あの頃は一緒に遊んでいた御姉さん達との似たり寄ったり夢見心地が手伝って、あんな事こんな事を忌まわしい犯罪行為だなどとは感じなかった。


 他に印象深かった出来事は、居宅裏手にある谷状の田を隔てた先に建つ工場火災だ。

 深夜に消防が鳴らすサイレンの音で起きて、騒ぐ親達の目先を見れば、空一面に黒い煙が広り、直下で炎が舞っている。

 強い北風に煽られ烈火は朱雀へと変化し、一瞬で黒い煙を飲み込む。

 これまで犬猫豚と鶏の他に、野鳥や野兎といった動物としか対面のない僕にとって、未知の生物がそこにあった。

 ついぞ近くに寄って対談などしたく思い、ふらりゝ夜道に出てみた。

 谷の田圃を挟み二百メートルばかり離れているとはいえ、火災現場から南側にある我が家へ火の粉がふんだんと降り注いでいる状況下、子供一人が深夜に出かけようとも気づく者は一人もいなかった。


 いざ現場へ到着してみれば、どこにこれだけの人が住んでいるのかと思う程の野次馬がいた。

 大人に混じって火勢を観察してやる。

 すると、現在この場所が非常に危険な状況である事に気づいた。

 プロパンガスのボンベを、燃え盛る炎が舐めまわしているのである。

 五歳の子供にも分かる近未来が、天空へと燃え上がる炎にばかり気を取られている野次馬や消防隊員には見えていない。

 あくせく動きまわる隊員の裾を引き、ちょいとガスボンベを指さしてやる。

 慌てふためく隊員と群衆。

 隊員が繰り広げる決死の撤去作業により、ボンベの爆発は免れた。


 やれやれ一安心。

 自慢げに家へ帰ったとたん、親父の拳固が降ってきた。

「どこへ行ってやがった、火の粉降ってんだぞ、消すの手伝え」

 子供の消息を心配した結果の拳固ではない。

 人手不足のイライラから、自分の感情をストレートに表出したにすぎない。

 日頃から鬱積している不平不満の捌け口に、僕や兄の頭を利用するのは日常茶飯事だ。 

 それなりの理由があるから、家族はこの家庭内暴力を止めようとはしない。

 それどころか、一緒になって小言を言うのは決まって母親だ。

 こんな事情から、親父とはろくでもない生物だと思うようになっていた。


 季節が変わって暖かくなった頃、またもやこの身に災難が訪れた。

 近所の兄ちゃん達と実兄に混じって、家から数百メートル離れた用水池へ釣りに行った時の事である。

 先に池へ着いた兄達は、水面に漂う物体を釣り竿でつついて騒いでいる。

「亀だ、亀」

 どうやら大きな亀がいるらしい。

 遠目にも分かる巨大さで、それはちょうど大人の背中程もある。

 喜び勇んで大亀捕獲に協力すべく、遅ればせながら走り出した。

 すると、兄達が此方に向かって激走してくるではないか。

 出迎えにしては形相が尋常ではない。

 そのまま僕には見向きもせず、元来た道を逆走して行く。

 実に不可解な連中だ。


 なにはともあれ、亀を一目だけでも見なければとしか考えの及ばない僕は、兄達を無視して先へと進む。

 到着したそこには、釣り竿が放置されてあった。

 はて、どれほどでかい亀なんだと竿の先に目をやったその時「どざえもんだー! 逃げろー!」

 五歳の子供にどざえもんの意味は分からなかったが「逃げろ!」と言われて、次に起こすべき行動が何であるかは知っていた。

 一目散に走り出したのは記憶にあるが、どざえもんを憶えていない。

 人間はあまりの恐怖に出くわすと、記憶の一部が飛んで消えるらしい。


 そんなこんなと色々あった因果かどうか、現代科学では証明できないから何とも言えないが、波乱に満ちた一年で幽体離脱と時空の超越を同時経験したまではよくある話だろう。

 特別に困った風でもないので、人にこの事を話す機会もないままの翌年、たいして忙しくもない家庭であるにも関わらず、近所の子も皆して行くからと、僕は無理やり幼稚園に通わされた。

 何が嫌と言って、よく知らない子供連中と一緒にされ、他人である大人によって生活の一部を管理されるのが我慢ならなかったのを覚えている。

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