欲望の石城

葱と落花生

血の池に沈みし醜き者達

 幾筋もの血流が、深く掘られた穴中に赤黒い網目を作って行く。

 穴を囲む原生林の樹上に据えられたカメラを通し、一人の男が立ち尽くす姿は、壁に埋め込まれた液晶画面に映し出されている。

 暖炉の灯だけに薄暗い部屋で、移り変わる映像の色を白く長いドレスに滲ませ、穴の持ち主であろう姉妹が嬉しいばかりの表情でシャンパンの栓を飛ばす。

 穴の淵で血の滴る日本刀を握った男は、自分が仕出かした所業が理解できぬままである。

 こわばって刀を握りしめた右手の指を、少しばかりなら己の意思をもって動かせる左手で一本二本と開いてゆく。

 俄かに振り出した雨と、辺り一帯に響き渡る雷鳴に慄いているのではない。

 ただ眼界にある景色が恐ろしいばかりで、ブルブル震える左の手が硬く握った右の人差し指を、ボキッ! と折っても男はなんら痛みを感じない。


 全ての指が解ける。

 激しさを増した雨にで血のりを洗われた刀が手から滑り落ちると、雨水を吸い込んでドロドロになった掘り返し土に飲まれていく。

 切っ先が天を向いたと同時に、激しい稲光が男の大罪を戒めるかの如く、穴底で泥水に体半分沈んだ女の顔を一瞬浮かび上がらせる。

 絶命しているとしか思われない姿だが、なます切りの挙句放り込まれたであろう裸体からは、まだ血が流れ出ている。

「ひゃー。俺じゃねえ。俺じゃねえよー」

 悲鳴にも似た声が、急変した豪雨にかき消される。

 男は手に持ったスコップで、刀を包み込んだ盛り土を穴の中に落とす。


 底に横たわる女の体が泥水に浸かり、すっかり見えなくなると、男はようやく冷静を取り戻してきた。

「俺じゃねえ、俺じゃねえ、俺じゃねえ」

 嵐が過ぎ、何度も繰り返す自分への言い聞かせが、深夜の闇に染み入る。

 強い雨脚に掘り返した土が流されたせいで、埋め戻した穴は周りの更地より低く、枝葉で陽の射さない森林にあっては、いつまでも底なし沼のように膿んだままである。

 いずれ埋められた死体は体内より腐敗し、溜まったガスによって膿んだ泥を押し退け、地表に悍ましい姿を晒すに違いない。

 一度でも雨の日に砂地でない穴を埋め戻した経験のある者なら、容易に予想できた事だが、この時の男にはそこまで考えを及ばすだけの余裕はなかった。


 激しく降った雨が、犯罪の証拠全てを綺麗に洗い流してくれると自分なりの自信を持って、スコップと刀を駐車場に向かう途中のダム湖に捨てた。

 嵐の夜に繰り広げられた殺人及び死体遺棄の一部始終は、ダム湖の畔に住まう姉妹が設置した暗視カメラによって録画されていた。

 しかし、この事件を姉妹が警察に通報する事はなかった。


 宿に着いた男は慌てて中に入り「途中で大雨に出くわして酷い目に遭った」とロビーで一騒ぎして、酷く泥に塗れているのは嵐のせいだと宿の者に印象付けた。

 それからロビーでタオルと浴衣を借り、部屋に戻る前に温泉へと向かった。

 脱衣所で着ていた衣服を全て大きなビニール袋に詰め込むとようやく安心したらしく、折った指の痛みに気づいた。

 風呂で温まった事も手伝って、ともすれば屈強な兵士でも気絶する程の痛みが指先から全身に伝わる。


「どうもいかん、転んだ時に指を折っていたらしい。ここらに医者はいないかね」

 風呂から上がると、男は痛みに青ざめた顔で女将に尋ねた。

「お医者さんは峠を超えた町まで行かないと、それに生憎の大雨で一本限りの道が通れなくなってしまって。明日の朝には復旧すると言うてましたが………ああ、丁度良い具合に姪っ子が来ています。二人とも医者ですから応急処置くらいならできますわ。あまり酷いようでしたらヘリ呼びますけど、大丈夫でしょうね。御酒飲みながら痛いって言ってられるようでは」

「ああ、ああ、良いね。とりあえず痛みさえなくなってくれれば僕は良いから。頼みますよ」

 痛いが一瞬、遺体と聞こえた男はおどおど答える。


 男の了解を得て応急処置をする二人の姪とは、犯罪の全てを録画していた姉妹である。

「どこで、こんな怪我しちゃったのー。おじさん、歳なんだから変な所で無理しちゃいけないわよー」

 姉妹の一人、瞳が添え木をあて、知っている事を意地悪く聞く。

「いっやー、ここへ来る途中に田んぼで転んだから。その時に折ったと思うんだけど、大雨と凄い雷だったろう。慌てていて、何が何だか良く覚えていないんだよ」

 男が、宿より先のダム湖までは言っていない風に言い訳をする。

「甘いわねー。そんなんじゃどこの病院へ行っても、ただの御間抜けと思われちゃうわよー」

 姉妹の片割れ文恵が、暗にアリバイ工作の不備を突く。

 しかしこれは、二人が事件現場に居た事を知らない男には、たんなる病院に行く時のアドバイス程度にしか聞こえていない。 


 手当が終ると外でゴウーと轟音が響き渡り、宿から谷川を隔てた断崖が大きく崩れた。

「あーらあら、ここまで被害が広がっちゃって、どうしましょう」

 激しい雨風は収まったものの、目前に岩肌が荒々しく崩れ落ちて行くのを見ては、女将でも落ち着いてはいられない。

「釣り堀がダム湖みたいになっちゃってー、大変な思いしてここまで来たのに、いよいよ自衛隊の御世話にならないといけないのかしらー」

 瞳が美絵と女将に向かって、客の不安を掻き立てるような言葉を大きな声で発する。

「こーらー、御客さんが怖がるから余計な事言わないの」

 女将が、男に向かってすまなそうに頭を下げる。

「釣り堀がダム湖みたいになっちゃってとか言ってたが、何事が起きてるんだい」

 ダム湖と思って刀を捨てたのが、釣り堀だったら後々困るのは自分である。

 湖には行っていない事にしている手前、あれがどうこうと聞き出せないのをもどかしく感じ乍ら、野次馬根性で聞いている風に振る舞う男。

「そうでしたわね。御客さんはまだここから先には行っていないから知らないのね。文恵さん、教えてあげなさいな。貴方達の方が詳しいでしょう」

 女将に言われ、文恵がニコッとして男に語り始める。

「この先はね、沢の大崩れがあって、谷川が堰き止められちゃったの。あたし達の御婆ちゃんが、そこで釣り堀をやっているのだけれども、生け簀も埋まっちゃってね。すつかりダム湖みたいなの。お婆ちゃんの所へ遊びに来ていたんだけど、急遽この御宿に避難して来たって言うのが私達の事情。お客さん、宿から先に行っていなくて良かったわよ。間違って沢崩れに巻き込まれたかもしれないもの」

「ほー、そりゃ大変だったじゃないか。で、埋まっちゃった生け簀だのダム湖になっちゃった谷川はどうなるんだい」

「そのうち元に戻すんでしょうけど、一年二年の話じゃないわね」瞳が横から復旧の予想を出す。

「あの辺りで被害に遭ってる人がいるかもしれないからって、今も山の中を捜索しているみたい」

 文恵が壁に張られた地図で、男が大穴に女の遺体を埋めた場所を指して言う。

「被害に遭ってるって、捜索願いでも出ているのかい」

「入山したままで連絡が取れないんですって。遭難したんじゃないかって消防の兄ちゃんが言ってたわ」

 瞳が地図にある登山口の駐車場をツンツンしながら、男の顔色が青ざめて行くのを見て楽しんでいる。

 今更捨てた刀を探すのは不可能と思える。

 あの時一緒に穴の中に放り込めば良かったのに、混乱し乍らも金になると銭の虫がうずいてくれた。

 一旦は持って車まで行ったのが、我に返ると怖くなってうっかり慌て直してしまったのだ。

 そのまま深い考えもなく、目前のダム湖に捨てた自分の愚かさを今になって反省しても、もう遅い。

 何とか回収したいが、いつになったら復旧するかも分からないとなると困ったの二乗である。

 川底が見えるまで、毎日この村まで通うと言うのは無理な話だ。


「そう言えば、連れが来る筈になっているんだが、まだ来ていないよな」

 男が山の大穴に埋めた女について、知らぬ素振りで女将に聞く。

「連れ? ですか。御客様は御一人の御部屋になっていますので、どなたの事か」

「ああ、分からないか。有羽愛って女性だ。俺が世話になってる会社の社長なんだけど」

「えーと………その方なら一昨日から御宿泊していただいてます。でも、朝から出かけてますわよ。途中の道路が通行止めになってますから、ひよっとしたら今日はもうこちらには戻られないかもしれません」

「困ったなー。なんだか良い仕事の話があるからって呼ばれたんだけど、何も分からんものなー」

 仕事の話云々以前に、男は元請会社の社長を殺しておいてその理由や経緯の記憶が全くない。

 気付いた時には穴の前で刀を握っていたのだ。あの事件の方が困ったである。

 誰がどれ程斜めに見ても、殺人の現行犯ですと言った状況では、できる限りの証拠隠滅と速やかなる逃走が通常の精神構造を持った人間の取る行動であろう。

 間違って「私ではありませんが、あの人を切り刻んだ刀を握っていて、穴を掘ったスコップには自分の指紋がべたべたついています。さらに驚けるのは、返り血をたんまり浴びている上に、手には穴掘りでできた豆までありました」と警察に通報する者もいないとは言い切れないが、この場合、検察はそんな先の読めない人間に対して、自首してきたと調書に書く程度で決して無罪にしてはくれない。

「その社長さんて、電気屋さんの事かしら」

 ロビーでくつろぐ瞳が男に聞く。

「ああ、流山から出張ってきてるんだ」

「その仕事って、たぶん御婆ちゃんの釣り堀の事だと思うわ。昨日の朝からあちこち見ていたから」

「なんだー。あんた、社長と行き会ってるのか」

「そうみたいね」

 文恵が二人の間に入って答える。

「生け簀が埋まっちゃったから、しばらくは復旧作業の仕事くらいしかなわよ。残念ね。急に暇になっちゃって」

 瞳がソファーで体を崩し男に擦り寄る。

「良いさ。復旧でもなんでも仕事があるならここに残るだけだ」


 決して見栄えの悪い容姿ではない。

 それより、誰が見ても界隈では別嬪の部類となるだろう瞳と文恵が両脇に座ると、今いるのが宿のロビーではなく、そこそこ御高めの高級なサービスを受けられる風俗店と勘違いする男。

「今夜は暇でしょ」瞳が男の心情を読み取り、これ以上ない艶っぽい声と一緒に吹き出す吐息。

 殺人事件の事など忘れて、助平丸出しオヤジに成り下がっている奴の耳たぶをくすぐる。 

「あー、暇々。社長が来ないんじゃ、話始まらないし」

「その社長さんだけど、遭難している人と名前が同じみたいよ」

 二人のイチャイチャを邪魔するように、文恵がテレビに映し出されている捜索隊の様子を指して音を大きくする。

「遭難したとみられる女性は有羽愛さんで、下山予定時刻を過ぎてもまだ連絡がとれていません………」

 アナウンサーの声に男はソファーから腰を落とし、床にドンと尻もちをく。

 テレビに二歩三歩と這って近付く。

 遭難者が社長であるのを、この場で始めて知った風に大げさな動きで驚いて見せる。

「社長ー!」

 この叫びを瞳と文恵は男の後ろにあって聞き、指で作った両手の拳銃で撃ちながら声を出さずに笑っいる。

 これを見た女将が何某かの因縁を感じ取り、二人を自分の部屋へと呼び込む。

「あんたら何したん。人様の不幸をあんな風に見て笑う人がありますか!」

 事情を知らない女将の顔は、怒り沸騰といった風に紅潮している。

「だってー。社長さんの事を殺して穴掘って埋めたの自分のくせに、あれやられたら笑っちゃうでしょう」

 瞳が幾分不服気に告げる。

「大根過ぎますー」

 丁度、女将の部屋にやってきた中居が話しに割り込んで意見する。

「そうそう。あの演技じゃ幼稚園児も騙せないわ」

 文恵がロビーの方に向かって弓を射る格好をする。

「遭難じゃなくて殺人事件なんですよ。犯人は、今ロビーで必死にテレビに目ん玉食い込ませているあの男。牧保真二郎君でーす」

 少し開いていた部屋の戸から中を覗き込むようにして、文恵の亭主、真行寺霊が女将に教える。

「あの人が犯人て、どうして誰も警察に教えてあげませんの? 殺人ですよ。事件ですよ」

「文恵、後はよろしくな。俺、山城さんの仕事で急遽アメリカ行き決定だから」

 霊が文恵に一言告げ、音もなく戸を閉める。

「これからアメリカて、こんな時にどうやって行きますの」

「御婆さんが連れていきますわ」

 瞳が両手を小さく広げ羽ばたく素振りをして見せる。

「あらまあ、御苦労様な事で。ひょっとして、あの殺人犯がどうのこうのってのも山城さん絡みなのかしら」

「そう言う事」

「だったら私にも教えておいてほしかったわぁ」

 女将が赤い顔のままプッと頬を膨らませて見せる。

「だってー。女将さんは笑い上戸だから、事情を知っていたらあの人の顔を見た途端に笑い出しちゃうでしょ」

「確かにそうですわ。今でも堪えるのが大変」

 女将の膨らませた頬が緩み「それで、どうしたいの。どうなってるの?」興味津々の顔つきに変わる。


「もう十五年くらいになるかしら、温泉と囲炉裏焼きが気に入ったって、一ヶ月ばかり逗留していた作家の先生を覚えているかしら?」こう切り出したのは文恵である。

「ええ『売れない三流ネット作家です』って自己紹介していた。何だったかなー。えーと………。思い出すから言わないでよ。んー………」

「あの人がね。山城さんの所で五年くらい運転手をやっていた事があって、そんな関係でこの宿を知っていたのだけれども、最近になって癌が悪くなったとかで、ヤブ先生が始めた病院のホスピスに入ったんです」

「あら、ホスピスって、あれでしょ。もう………」

 女将は作家の名を思い出すのをあっさり諦め、先の話を知ろうとする。

「そう。そう言う事で、山城さんがこの世に思い残す事なく成仏できるようにって、余計な御節介をしているの」

「なる程ねー。何となく分かってきたわ。良いでしょう。あの人達には色々な事でお世話になってますから、こんな時でもなければ恩返しができないものね」

 傍から聞いたのでは何の事やら分からないのでも、女将には納得のいく話であったらしい。


 ロビーに戻ると牧保に「社長さん、早く見つかるといいですねー」心配そうな顔をして心にもない声をかける女将。

 なかなかの役者である。

「女将さん、この辺に安い借家はないですか」

 唐突な話に女将がしばし考え込む。

「道が開通すれば、私達が入っているマンションがここに一番近いかもね」

 瞳が牧保に生ビールのジョッキを手渡す。

「これは?」

「私達からのおごり」

 自分に関わる重大な策略が蠢いているのは、目前の連中が裏で画策しているからだなどと疑いもしない牧保は、美人に囲まれ上機嫌である。

「こんなに良い思いができるなら、大雨も満更捨てたものじゃないなー」

 自分がやらかしたかもしれない殺人事件の事を忘れたいからか、それともすっかり忘れた能天気だからか、酒が進んで前後不覚のまま夜が更けて行く。


 部屋に戻る牧保に瞳と文恵が付き添って行く。

 いかに正体がなくなっているとは言え、そこはまだまだ使える物を持った男である。

 部屋に招き入れた二人を、ふらつきながらも布団の方へと引っ張って悪ふざけをする。

「良いじゃないの、お互い大人なんだから。こんな夜は楽しんで全部忘れた方が、精神衛生上良いに決まってるんだよ。ねー」

 正直に土下座でもして「お願いします。一度だけで良いですから何を何の中で前後左右上下奥手前にと激しく動かさせてください」と嘆願するならまだしも、さも自分の理論が正論であるかの如く二人を誘うあたりは、事件が無かったものに記憶を書き換えるには十分な才能を有した脳の持ち主である。

「やっだー! そんな所ー触っちゃダメ。こっちにしなさーい」

 瞳が牧保とじゃれ合っている姿を、文恵がビデオで撮っている。

 録画されている二人の内男は牧保であるが、ビデオカメラの小窓に写し出されるべき瞳である筈の女は有羽愛になっている。

 万華鏡のように目前で繰り広げられる艶やかな秘め事は、カメラの目を通し記録として残すと、陰湿な地下室で拷問にも似た悪癖をもって牧保が有羽愛を玩具として扱う姿になった。

 日付けに至っては、愛が入山した時から数時間後として画像に記されている。


 カメラを固定すると、既に全裸となってベットで戯れる二人に文恵が寄って行く。

 妄りがましく妖艶なライブショーを愛で乍ら、文恵も衣服を脱ぎ捨てるとベットの横に立ったまま自分でその身を慰め始めた。

 この仕草を見ていた瞳は、慰めている手を取りベットに呼び入れ、文恵の手を自分の秘部へと招く。

 そうしてから、自分の手で文恵の情欲を満たしてやる。

 二人の唇が重なり、時折大きく開かれた口の中では、愛欲に任せたままのものが荒々しく絡まり合う。

 牧保は二人が淫慾に浸り喜びの絶頂にあっても、酔っているのに加え既に瞳の手練手管に翻弄されて吾を失っていた。



 翌朝、牧保は一人の部屋で痛い頭を抱えている。

「あー飲み過ぎだなー。それにしても昨日の事は全部本当だったんだろうか」

 気づいたら死体を大穴に埋めていたのだから、その後の良い思いも夢現と思いたい気持ちは分からないでもない。

 しかし、痛いのは頭ばかりではなかった。

 激しく使い過ぎたのか、股間に行儀よくしている奴まで随分と疲れた風に痛く感じる。

 やはり何から何まで現実だったのか。

 パンツを広げて痛がっているのを見てやると、小さくなった先っちょに薄桃色のルージュを練りたくってある。

「なんだかなー。子供じみた大人の悪戯しやがってー」

 独り言を言うも満更悪い気もしないで、そのままタオルを持って二日酔い覚ましの朝風呂へと向かう。


 途中、ロビーを抜ける時に瞳と文恵がソファーでボーっとしている。

 なんとなく夕べの今朝で気まずい雰囲気はあったが、何も言わないで過ぎるのも悪いと思った牧保。

「おはようございます」

 他人行儀に並みの挨拶をした。

「あーら、随分と肩っ苦しい事」瞳が牧保の浴衣の上から、股間をむんずと掴む。

「そうねー。あんな事とかこんな事とか、色々しちやってくれてその挨拶はないでしょう」これまた文恵が牧保に抱き付く。

「いやー。あれは夢だったんじゃないかなって、いくら嵐の晩だからって美人姉妹が俺みたいなのに、あれもこれもだからねー。照れるなー」

 人一人殺した翌日に、鼻の下を伸ばし切っていられるとは平和が過ぎる男である。

「照れなくても良いのよ。あれは社長さんが大変な事になっちゃって気落ちしていると思ってねー。二人で相談して貴方を励ましてあげる為の儀式だったんだから」

 淫乱の極みをもって儀式とするのは太古より無かった考えではないが、その具合が度を越している。

 それは話の途中と言う事でさて置くとしても、あれがこの姉妹には単なる儀式だったのだと言われると、妙に納得しながらも不思議な気分になってくる。

「じゃ、昨夕の濡れ場は全くの親切心だけからなんですか」握られ抱き付かれたまま際どい所を立て直す。

「あら、あれだけ頑張ったのに朝から、まだまだ行けるって感じね」

 姉妹が笑う。

「誰にでもしてあげるって訳じゃないのよ。何となく貴方が気に入ったから。文恵ちゃんも同じ気持ちよ」

 見境なく、握っている物と同じ部品を持った生物と関わる女でない事を瞳が強調する。


 二人が牧保から引き離れ、今度は両の手を引いて風呂に向かう。

「変な気使わせちゃって、どうもすいません。どうやって御礼をすれば良いのか、考えちゃうなー」

 考える前に、御返しの方法は体が示している事を姉妹は気付いているが、本人はしらばっくれている。



 やがて、宿の最上階に作られた温泉に着く。

 男湯女湯と分かれてはいるが、姉妹がおかまいなしに牧保を女湯に引き込む。

「おーい、これはいかんでしょう」

 嬉しいのが顔から溢れて全身に漲っているのに、いかにも困ったと言った素振りをする。ものの、引かれるまま女湯に入り、素早く自分で浴衣からパンツまで脱ぐ。

「宿に居る女は私達と女将に中居だけだから関係ないの。なんだったら、他の女も全部呼んであげましょうか」

 突如ハーレム宣言をされては、いかに助兵衛球菌に毒された慢性変態の牧保でもうろたえる。

「客がいるだろ」

「他のお客さんは全員避難して、宿は関係者しか残っていないのー」

「やりたい放題なのー」

 姉妹がにんまりして、牧保の両側から股間にぶら下がった袋物を半々にしてつまみ上げる。

「仕事があるなら残っても良いって言ってたわよね」

 文恵が状況にそぐわない無粋な質問をする。

 瞳は会話に参加する気が無いらしく、石鹸を泡立てじっくり牧保の育ち始めた息子を洗う。

「ああ。災害の復旧ならやる気はあるんだ。ダム湖みたいになっちやった釣り堀の仕事関係で来たようなものだからね。あそこで仕事できるなら半分ボランティアでも良いと思っている」

「まあ、随分と御親切です事。こちらこそ恩返しの先払いをしないといけませんね」

 それならば既に瞳が手付けを払う段取りに入っている。

「出来れば格安の宿を紹介してくれないかな。怪我と顎足手前持ちってのがボランティアの基本だろ。半分給金をもらってもここに長くは泊まり続けられないものなー」

「それなら良い所がありますわ」

 こう言い終わった文恵の唇は、瞳が洗い終わった物をスルッと含み、口の中で円を描く舌が牧保の先を刺激しゆっくり前後に動く。

「私達が以前使っていた別荘が近くにありますの。良かったら格安で御貸ししますわ。勿論、契約書は交わしますけど、家賃は入れなくて良いわ。体で払ってもらうからー」

 口の塞がっている文恵に代わり瞳がこのように告げるやいなや、借りる借りないの返事を聞く前に牧保の唇に自分の唇を押し当て、突き刺し入れた舌先を相方となるものに絡める。

 客が無い事もあって循環ポンプを止めた風呂の中は、三人の会話だけが響く空間になっている。

 やがて会話は途絶え、昨夜にも増して激しい営みに歓喜のよがり声が充満すると、幾重にも折り重なるように絡まり逢う裸体は湯殿へ移動し、次には洗い場で泡だらけになり、終いには上りで三人ともぐったり横になった。


 牧保が一人で部屋に戻りテレビをつけたまま、姉妹が貸してくれると言う別荘へ移動する支度をしていると、聞きなれた名前がニュースの画面から流れ出てくる。

「有羽愛さんの物とみられる大量の血が付いたザックや衣服が山中から発見された事から、警察は事件として捜査を開始すると発表しました」

 忘れかけていた悪夢が鮮やかに蘇ってくる。

 牧保はとっさにテレビを消すと、ベットに飛びのけ布団に全身包まった。

「俺じゃねえよー」

 誰かに訴えているのではない、正体が自信でも信じられなくなっている自分に言い聞かせている。


 ニュースはロビーに置かれたテレビからも流れていた。

「ありゃ早かったわねー。あれを探し出すのにはもっと時間がかかると思ったのにー」

「良いじゃないの、見つけてもらわなきゃ話が始まらないんだから」

 姉妹は相羽愛の衣服を、宝探しゲームのように山中へ点々と分けて隠していた。

 最後には死体を埋めた穴の近くに到達するようになっているのである。

 この仕込みとは別に、後に発見されるであろう別の遺体に関わる証拠の隠し場所を一つ一つの点とし、それを全て線で結ぶと巨大なペンタグラムになるようにもしていた。

 これはサタニズムのもので、五芒星の中心に牧保が有羽愛を埋めた穴があるのだが、あの時すでに穴の中には十体以上の遺体が埋められていた。

「自分で殺ったんじゃないけど、あれだけの数になるとちよっと嫌な感じが残るわね」

「気にしないの、久蔵が殺ったんだから。呪い祟りの類は全部まとめてあいつに被ってもらうわよ」

 久蔵とは姉妹と血縁関係にある者で、大方の親類からは久と呼ばれている。

 一族の中で、危なっかしい仕事ばかりを請け負っている男である。

 今回の一件も久蔵が姉妹に手伝いを申し入れ、暇を持て余していた二人が承諾して始まったものである。

「しっかし、悪魔教の信者が暴走したって筋書き、久もいい加減よね。サタニズムだったら引きこもりが基本でしょう。人に迷惑かけるような事しないわよね。まして大量殺人なんて」

「中には勘違いしてー、頭の中身だけ別世界に行っちゃってるのもいるでしょ。そっちの方向に持って行く気でしょ」

 この会話に女将が口を挟む。

「あなた達、いくらお客さんがいないからって、そんな事をロビーで話さないの。あいつに聞かれちゃうでしょ」

 これから牧保をどうするつもりか、女将の興味はそんなところには無かった。

「それに、久の仕事って言うだけなら関係ないけど、山城さんも関わっているとなったらこの宿にも色々と絡みが出てくるでしょう。仕掛けを聞いていると何だか猟奇殺人みたいな事になっているし。せっかく作った長閑な観光地のイメージ壊れるわ。その似非悪魔教徒の連続殺人て言う筋書き、何とかなりませんの?」

 既に十数人が近くの山林に埋けられていると聞いても、たいして驚く風でもない女将。

 姉妹や久蔵の一族ではないものの、近所に住まう姉妹の祖母で釣り堀の主でもある者と宿を共同経営者している。 

 天地がひっくり返る騒ぎが起きても、寝坊できるほどに肝が据わっている。

 おまけに山城と呼ばれている爺さんは、千葉にあって随分と名の知れたヤクザの組長である。

 この辺りを仕切る組と深い付き合いが有って、地回り組の寄り合いによく使われている宿の女将であるから、切った張った殺したなどの言葉には脳が完全に慣れっこになっている。

「それから、あの牧保とか言う男、何をやらかしたの。十人からの連続殺人犯に仕立て上げられるなんて、相当の事をやっちゃったんでしょう。そんな人に近くでうろうろされたのでは安心して夜も寝られしません」

「大丈夫。あいつは小物だから生きていられるの。本当に強い恨みの相手はもう穴の中だって久が笑ってた」

「久が言う小物って………あの人に言わせたらヒットラーやスターリンまで行っても小物でしょう。毛沢東あたりでようやく同等の扱いになるようでしょう」

「そりゃそうだけど依頼が有ったら断らない主義だから、久の良い所であり悪い所ね。善と悪は表裏一体って口癖でしょ」

「それがいけないの! なんでもかんでも簡単に請け負って、やって良い事といけない事の区別をつけないのでは、ただの快楽殺人鬼と同じでしょ」

 女将に言われ瞳と文恵は言葉を返せない。


 山城ゆかりの病院で緩和ケアを受けている患者が、久蔵に晴らせぬ恨みを告げて、その先の非人道的措置を望んだのなら女将でも事件の全容を容易に紐解く事ができる。

 依頼人の余命が僅かとなれば、請負人の殺り方が些か荒っぽくなってくるのはどんな仕事であっても共通するところであろう。

「ところで、肝心の久蔵さんは何処へ行っちゃったのかしら。今から地獄の閻魔さんに送られ人の予約でもないでしょう」

「久なら別荘の隠し部屋で録画した映像の編集してるわ。すんごく残酷なのー。B級ホラー真っ青ー!」

 文恵がわくわくの表情をして、今から完成を待ちわびる映画ファンの心情でいる。

「あなた達、趣味悪過ぎですわよ。よく自分達があれしてる時の録画を人に見せられるわねー」

 二人が牧保との情事を録画していた事を、信じられないといった顔で女将は確認する。

「だってー。映し出したら私達と違う人間になってるしー。自分が映っていても、そんなに恥ずかしいものでもないわよ」

「そうそう、皆やってる事でしょ。隠すから恥ずかしいのよ」

 この件に関しては、二人して勢い良く答を揃えて返した。


 少しすると、宿を引き払い別荘へ行く支度を済ませた牧保がロビーに現れる。

 まだ復旧途中の道路を通って三人が別荘へと向かう。

 これと入れ替わりに久蔵が宿に顔を出した。

「行ったかい。奴にはこれからしっかり働いてもらわなけりゃならないんでよ」

 聞かれてもいないのに、久蔵が女将に計画の一部を話す。

「別荘の隠し部屋に籠っていたんじゃないんですか? 途中で三人が乗った車に会いませんでしたか」

「いや、見かけなかったな。行き違いかなー」

「隣街まで一本道の峠で行違えるものですか。どこへ行っていたんです」

「いや、ちょいと釣り堀の方を回ってきたんだ」

「だったら会わないかもしれませんわね」

「あいつが捨てた刀とスコップを底から引き上げて来たんだ、預かっておいてくれよ。しかし、釣り堀が埋まって出来上がったダム湖な。ありゃ、入水自殺するにゃ丁度おあつらえ向きの雰囲気になっちまったなー。早く水を抜いてやらねえといけねえや。下手打って自殺でもされたんじゃ元も子もねえからな」

「そんなになっちゃったんですか」

「ああ、駐車場の松の根本まで水が張ってらー。あの松もぶら下がりには手ごろだからなー。思い切ってぶったぎっちまうか」

 親戚とは言え、婆さんが大事にしている樹を簡単に切ってやると言うように、この男は人間の命も軽く見ている。

 久蔵よりもっと狂暴なのが釣り堀屋の婆さんと知っている女将は、この発言に驚く。

「冗談でもそんな事言ったら、御婆さんに貴方が殺されますよ」

「大丈夫だよ。婆はよ『生け簀が沈んじゃって、気分まで沈んじゃったー。ゴニョ』とか言ってよ、瞳と一緒に明日から絵画列島でバケーションだってよ。良い気なもんだぜ。元を辿れば今回の仕事はよ、婆が山城の爺から請け負ったんだぜ。それをほったらかして俺にまかせっきりだー。松の樹の一本二本切ったって罰はあたらねえだろ」

「あら、じゃあ明日から文恵さんだけがこちらに残るんですか?」

「いや、文恵は霊の野郎の仕事を手伝うとかで、なんだか忙しく準備していたから近々飛んで行っちまうだろ」

 一族で危なっかしい仕事を一手に引き受けている久蔵だが、この時期になって誰も手伝いがなく、自分一人で片付けなければならない事が山積みだとぼやき始める。



 一方、別荘に着いた牧保は二人に家の設備機器の使い方やら部屋の割り振りをあらまし教わる。

 瞳は婆さんとずっと遠くのリゾートへ行って、生け簀が元どおりになるまでは帰らないと伝えて出て行く。

 文恵もまた、先に行った亭主である霊の仕事を手伝う為、アメリカへと旅立った。

 広大な敷地の別荘を自由に使って下さいとされ、借りたまではいいが地の利はまったくない。

 手元には釣り堀を復旧する仕事をもらい、その手付にと受け取った五十万ばかりの金がある。

 どこかで食料品を買ってと考え、開通した釣り堀から先の道を使い山麓の町まで降りてみた。

 町と言っても小さなスーパーマーケットが一件と居酒屋が一件きりの無人駅前で、少し離れた旧道に行くと床屋と食堂が何件か並んでいる。

 もはや過去の栄華は消え失せ、銀座商店街の残骸にしか思われない街並みである。


 車で来ているのだから尋常な良心の持ち主ならば、居酒屋で一杯などと考えもしないだろうが、根っからの呑み助である。

 昨日の嵐から一夜明けたら宇宙の向こうまで見えそうな青空が広がって、懐まで暖かければ気分は上々。

 おまけに、都合の良い御屋敷にただ同然で住まえる身となってくれば、完全に心のタガが外れている。

 素面でいたのでは嵐の夜の殺人現場が脳裏に浮かんでいたたまれなくなるのが後押しして、法律の概念が吹き飛んでしまった。


 外はまだ明るく、赤い提灯に灯が入っているのかいないのか見定められない。

 昨日の嵐で見る影もない荒れようだが、左横の壁伝いに花壇が作られてある。

 普段なら手入れが行き届いているだろう事は、雑草の一本もないので分かる。

 古くて所々が解れているのれんだが、汚れている風ではない。

 ただ、昨日の大風を受けて壊れたのだろう、片方が上手く釣り手にかからないままで、斜めになってぶら下っている。

 入口はサッシの引き戸になっていて、こいつを半分ばかり開け中で仕込みをしている店主に声をかける。

「やってるかい」

「いらっしゃい。分かり辛くてすいません。昨日の嵐でここらあたりはみんなやられちまいましたから。やってるようなやってないようなです」

「なんでもいいや食って飲めれば。適当に見繕ってくれるかな」

「はい。ありがとうございます」

 戸を半分開けたままここまで話が進むと、牧保がのっそり薄暗い奥の座敷に座って「とりあえずビールをくれよ。生あるかい」

「生憎、道が塞がってたもんで。夜にならないと届かないんです。ビンでいいですか」

 答を聞く前に店主が大瓶の栓を抜くと、コップと一緒にしてテーブルの上に置いた。

 壁には木札に書かれた品書きが、端から端まで二段になって下げてある。

 長い歴史のありそうなカウンターはヒノキの一枚板で、派手さはないが落ち着いて飲める静かな作りになっている。

 店の雰囲気を大事にし、丁寧な仕事をしてくれそうな居酒屋である。

 桜に紅葉と温泉でしか客の呼べない観光地では、なかなかここまで洒落た店には御目に掛かれない。

 カウンターの奥には店主が休むのに使っているだろう小部屋があって、ここに防犯カメラのモニターが置かれてある。

 カメラは外の店前に一台と駐車場に一台、店内に二台設置されていて、大方店に関わる視界の全てを録画している。

 この画面に映っている牧保の隣には、そこにはいない筈の有羽愛が座っているように録画されている。

 日付は一昨日である。

 

 良い気分になって峠のくねくね道で落ちてもつまらないと悟った牧保は、酔い覚ましにスーパーで数日分の食料と酒を買い込む。

 車を駐車場に停めたまま、歩いて十五分ほどの所にできた元釣り堀。現ダム湖へと向う。

 大きな松の樹を横目に進むと、少しは水が退いたのか谷底に有った生け簀まで行く為の石階段が三段ばかり出ている。

 ゆっくり段を降りて下を見ると、土砂と言っても石しかない清流にできた湖は、濁していた細かい砂が湖底まで沈んで随分と深い所まで見えている。

 牧保が昨夜、刀とスコップを放り込んだのは対岸の駐車場からで、あちら側には階段がなくて谷底に降りるどころか切り立った断崖絶壁が見える限りに広がっている。

 生け簀を復旧するのに、ある程度の情報は姉妹から聞いていた。

 この階段はおよそ三百段あって、牧保が立っている側に有る茶屋の床から谷底までは五十米以上ある。

 この様子では、順調に水が退いても二三カ月後にならなければ底にある生け簀の修繕作業には入れないと予想できる。

 それまでなら湖底の様子を見ているのだと言って、捨てた刀とスコップを探していても何とか言い訳がたつだろうと考えた。

 ただ、恐ろしく傾斜のきつい絶壁が迫っている上に昨日崩れたばかりとあっては、これから一週間ばかりは手を出さない方が無難だとの判断もできる。


 牧保は足元にあった小石を拾うと、ダム湖の真ん中に向けて放り投げた。

 これを対岸で一匹の狐が見ていた。

「おや、こんな所に狐かよ。珍しいなー」

 狐に向って軽く手を振ると、振り返って松の樹に向い歩き出す。

 すると、今度は茶店の軒下に狸が一匹座って牧保をじっと見ている。

「狸まで出やがったよ。田舎だなー」

 人懐こそうな顔を見て腰を下ろし、手を出したが狸はプイッとやってから走り去ってしまった。

「付き合いの悪い奴だなー」


 元来た道を戻って別荘に付いたのは、外が薄暗くなってからだった。

 台所を使って調理をするような男ではない。

 暖炉に火を入れるとソーセージを串刺しにし、太めの薪に立て掛けて焼く。

 これを眺めながら、まずは缶ビールを一本開けて一気に飲み干す。

「はー、美味い!」

 まだ半焼けのソーゼージを一口ガブリとやって、買い物袋の中からワイルドターキーを取り出すと、コップには注がず直に飲む。

「カアッー! 効くー」

 喉をジリジリと通過していく五十度を追い掛けるように、二本目のビールを流し込む。そうしてはもう一口ソーセーゾを食う。

 何度かやっているうちに、すっかり心持がよくなってきた。


 コツコツ………コツコツ。

 骸骨の頭を大腿骨で叩くようになっているドアノッカーを叩く者がある。

 来客など有ろう筈のない山中の一軒家。早い時間とは言え既に辺り一帯は、家から漏れ出す灯りに浮かび上がる場所以外は何も見えない。

「誰ー」

 酔った勢いの薄ら寝ぼけ声で訪問者の氏素性を問う。

 コツコツ………コツコツ。

 返事は帰ってこない。

 ステンドグラスで飾られた扉横の窓から外を覗くと、リードでつながれた二匹の猫が行儀良く座っている。

 リードを辿って上に目線を上げれば、女らしき人影が色ガラスの女神と重なっている。

「誰ー」

 今度はさっきより少し気合が入った誰ー、である。

 コツコツ………コツコツ。

 またもや返事がない。

「誰だよ!」

 昨夜から今朝にかけてゲップが出るほどいたしているから、色気より苛立ちが先走ってくる。

 すると、鍵を開けていきなり外の女が入ってきた。

「あんたこそ誰?」


 猫を連れた女が牧保に短銃身のショットガンを向けて問うが、その顔は怒った風ではない。

「おい、それで銃砲所持許可が出るのかよ」

「出るわけないでしょ。借金のかたにヤクザから取り上げたの。改造だからいつ暴発しても苦情の持っていき場がないわよ。早くー。正直に空き巣泥棒の現行犯で捕まっちゃいなさい」

 片手に銃を持ち、もう一方の手でチャイナ服の裾を広げて太もものガンサックから拳銃を抜く。

「警察呼んじゃって良いのかよ。御前の方が重罪で捕まるだろ」

「あんたを半殺しにしてから通報して、私はさっさと逃げるから大丈夫」


 ゆっくりと拳銃を牧保に向けるとショットガンをテーブルに置き、ソファーに深く座って足を組む女。

 二匹の猫がリードを外されると、二間ほど離れていた牧保の足元に擦り寄ってから、暖炉の前に行ってゴロンと横になった。

「これが私の身分証」

 女が旅行鞄の中から一冊の身分証明書を出してチラリ表を見せると、慣れた手つきで広げて自分の顔写真を確認させる。

 目前の女は熟し度合いが誰でも満足させられる風である。

 しかし、スッピンの写真は似ても似つかない幼顔だった。

 ただ、牧保は銃を構えた奴にこれは間違いなく私だと言い張られて、それは絶対に他人だと主張する命知らずではない。

「証明写真があんただと認めても良いけど、そのNCISって何?」

 手帳を見て尚更、正体不明になる身分証も珍しい。

「めんどくさい奴には、話すだけ無駄だから教えない」

 結局、相手が何者かも分からないまま牧保は命の危機に晒される結果となった。


「瞳と文恵はどこに行っちゃったの。まさか、あんたが殺したんじゃないでしようね」

 殺したの言葉に焦りはしたが、瞳と文恵の殺害には心当たりがない。

「瞳と文恵って、その二人に仕事を頼まれて、ここにしばらく住んで良いからって言われてんだよ」

 二人の名前が出てくると、この女も関係者だと気づいて少し安心した様子で聞く。

「あんたが? 仕事の人って………じゃ、仕事頼んであるけど、仕事の相手って………人相悪!」

 構えていた拳銃を収める女。

「何だよ、聞いていたのにこれかよ。おっかねえ女だなー」

「それよりも、二人から聞いてなかったの。美絵が後からここに来るからって」

「何も聞いてないよ。何しに来たの」

「あんたの面倒見てやってくれって頼まれちゃったの。もっと良い男だと思ってたのに残念だわ!」

「だわ! って。そこ強調するなよ」

「とりあえず自己紹介は終わったから、仕事始めるわよ。それにしても貧しい食事ね」

 美絵がソーセージ焼きを抜いて猫に分けてやる。

「魚肉だしー」

「それが好きなんだよ」

 食の指向を非難された牧保は気分を害した。

「ほら、猫マタギよ」

 魚肉ソーセージに見向きもしない二匹の猫を指して、美絵が自分の味覚適正を主張する。

「熱いままやるからだよ。猫舌だろ」

 猫科哺乳類の遺伝学的特性を蔑ろにして、根拠の希薄な味への悪評を非難する。

 これに答えるようにして、二匹の猫が冷めたソーセージを食し始めた。

「あら、意外と行ける味出してるみたいね」

「だろー。美味いんだよ」

 自分が製造販売しているのでもないのに、己の味覚が高評価に値するものと言われ急に気分をよくする牧保。

「でも、それじゃ足りないでしょ。これからディナーを作ってあげるから待っていなさい」

 単に夕飯と言えない女である。 


 美絵が暖炉上に置かれたブロンズタヌキの玉袋を強く押す。

 ゆっくり暖炉が九十度回転すると、奥に通じる通路が出てきた。

「なんだ! 秘密の通路か?」

「いいえ、キッチンへの近道です」

「無駄に金のかかった家だな。ついて行って良いか」

「勿論。しばらくここの住人になるんでしょう。と言うか、あの二人に教わらなかったの、家の使い方」

「こんなのは聞いてないな」


 話しながら真っすぐの通路を行くと、地下に通じる階段が目に入る。

「地下室があるのか?」

「ええ、拷問部屋。趣味があるなら一緒してあげても良いわよ」

「趣味って………おいおい。そんな趣味はねえから。遠慮しとくよ」

 どうやら牧保はSМプレーと勘違いしているようだが、美絵の言う趣味とは本当の拷問を指している。

 蝋燭に似せた通路の灯りに、美絵の影が床から対側の壁へと写される。

 その影姿は首の長い鳥のようである。

 後ろからその様子を見て、こいつは妖女に違い無いと感じた牧保。

「鶴の恩返しか?」

「あなた、鶴を助けた事が御有り?」

「ない」

「助けられてもいない鶴が恩返ししたら、ただの御節介かストーカーでしょう」

 素面ならば驚く所だろうが、妙な酔いが回って恐怖心が消え失せている牧保。それもそうだと納得する。

「だったら、その影どうしちゃったの」

「あー、これは御遊びで映し出している影よ。その人の身長とか体重で、実際と違う動物になるような仕掛けにしてあるの」

「まったく。恐ろしく金余りの御殿だな」

 石造りの西洋城に似せた百年近く前の建物である。

 いかに当時の最先端技術を駆使しても、そんな投影は不可能だと分からない牧保が、鶴の影を踏んでしきりに感心する。

 そして、踏んでいる自分の影は、何処にも映っていない事に気付いていない。

 近道をしないとどれだけかかるのか、迷路のような隧道を歩く事十五分。

 都内の地下鉄なら一駅や二駅先まで行ける。

 ただ、一目見たいばかりについてきたが、帰りの道順すら分からなくなってきた。


 辿り着いた先は、キッチン等と言った質素な作りではない。

 幾十人、ひょっとしたら百人からの宴会にも十二分答えられそうな厨房の真ん中に出た。

 一般的には厨房に入る手前に更衣室なる部屋を設置するのだが、ここでは厨房の真ん中にガラス張りの衣裳部屋がある。

 美絵が衣装部屋らしき一角に入ると、あれこれ選らんだ結果として手に取ったのは、やはりそう来たかと感じるであろうメイド服である。

 恥じらいもなく、着ていた豪華絢爛背中バックリ胸元危ない程出しーのパーティー用チャイナドレスをスルリ床に落とすと、あっけにとられて動けなくなっている牧保に目線を送りながら、ゆっくりとメイド服を身に着つけていく。

 この一部始終を見ているうち、金縛りから覚醒した牧保のすぐ前に、ポタリ赤い滴が落ちた。

 静かな厨房で、音を出したのはこの一滴だけである。

 少しすると、また一滴。ポタッと落ちてくる。

 厨房であるからには、何某かの肉から滴り落ちても不思議ではないが、入って直ぐの所へ天井からと言うのはいかにも怪しい。

 恐るゝ見上げると、真上に子牛の半身がぶら下がっている。

「何でここなんだよ」

 ほっとすると思わず口から独り言が出てきた。

「その御肉、こっちに持ってきてー」

 美絵が包丁を棒ヤスリでシャキゝとやる。

「どうやって降ろすんだよ」

 この言葉を聞くか聞かぬ前に、美絵が子牛をぶらさげるのに括り付けてあったロープめがけ包丁を投げる。

 見事吊りロープをスッパリ切ると、半身の肉と一緒になって包丁も落ちる。

 驚いた牧保が塊を受け止めると、肉を抱えた顔前のアバラにブスリ刺さって止まった。

「あっぶねー。殺されちまう」

 人様を殺したと思っている奴でも、殺されるのは嫌らしい。

 包丁が刺さったまま、半身を抱えて調理台の方に歩き始めた。

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