ただ、10分間同じ空気を吸いたくて

碧月 葉

ただ、10分間同じ空気を吸いたくて

 僕の初恋は君だった。

 大学1年の春。

 笑っちゃうくらい遅いだろ。


 だってそれまでは、勉強が忙しすぎて恋する余裕なんてなかったんだ。



 あれはドイツ語の授業で、開始ギリギリに教室に入った君は、空いている席をキョロキョロと探した末、僕の隣に座った。

 ふんわりと優しいハチミツのような香りが漂ってきて、女性に免疫の無い僕は妙に落ち着かない気分になった。


「それじゃ、隣の人とペアになって発音を確認しましょう」


 マイヤー先生のあれは、なんの気まぐれだったんだろう。


 動揺しながら挨拶をして、僕は初めて君を正面からみた。

 艶やかな黒髪に、子猫のようなクリンとした瞳。

 めちゃくちゃ可愛い女の子だった。


 「R」の発音? そんなの知ったこちゃない。

 僕の目の前に天使が降臨しているのだから。


「うーん、もっと巻き舌っぽくした方が良いかもしれません」


 君は少し首を傾げた。うう、その仕草も良い。


「ありがとうございます。……む、難しいですね」


「じゃあ交代ですね、聞いてください」


 君の発音を聞かなきゃ、口元に注目する。

 ぷっくりとした瑞々しい唇……。綺麗なピンク色の舌……。


「どうでした?」


「……っ、完璧です」


「もう、お世辞なしでいいですよ。酷かったでしょう。『R』って、ほんと難しいですね」


 恥ずかしそうに君は笑った。

 そのくしゃっとした笑顔を見たその瞬間、僕の胸の奥がキュンと甘く痛んだ。

 

 免疫のまるで無かった僕は「恋」に罹った。


 この日を境に僕は、会えば軽く言葉を交わす「顔見知り」という地位を手に入れた。

 もしも、あの時僕に、もう少しだけ勇気があったなら、連絡先を手に入れたり、一緒にご飯を食べる機会を得られたのだろうか。

 そしてひょっとしたらその先も……。 

 

 第二外国語の履修は1年次のみ。

 2年生になると、学部が違う君との縁は切れたかに思えた。


 しかし、もう一度奇跡が起きた。

 夕方、駅前の大型スーパーの惣菜売り場で、薄いグリーンのエプロンに三角巾姿に君に遭遇したんだ。


「驚いた、こんな所でバイトしてたの?」


「ふふふ、余ったおかずが格安で手に入るから一石二鳥なの」


 この時、僕の買い物カゴは、お菓子とジュース、そして茶色のおかずで一杯だった。


「あれれ、大丈夫? 糖分採りすぎは体に悪いよ」


「う、じゃあ無糖のにする」


「その方が良いよ、それにほら野菜も大事」


 君は、まだ並び立ての「ほうれん草のお浸し」に半額シールを貼って僕に渡した。

 僕のことを気遣ってくれて、嬉しかった。


 あのスーパーに行けば君に会える。

 でも、惣菜売り場に頻繁に現れては、値引き目的のせこい奴と思われかねない……僕は考えた。

 そうだ、出勤時間帯の電車を狙えば良いと。



 ゴトンゴトン……ゴトンゴトン……


 15時16分からの10分間。

 単調な揺れの中、僕は並んで座る君を、斜め向かいに座る君を、後ろ姿の君を、ガラス窓に映る君を。

 僕は度々と盗み見ては、同じ空間にいる幸せを噛み締めた。

 僕の吸った空気のどこかには、きっと君が吐いた息が交じっている。

 その頃の僕は、日々そんな変態じみた甘い喜びに浸っていたんだ。




 F市の駅前の大型スーパーが5月に閉店するらしい。


 そんなニュースが耳に入って僕は十数年前の恋を思い出した。

 ただ、10分間同じ空気を吸いたくて電車に揺られた日々を。

 

 僕は今三十代後半だけれど、結婚はしていない、恋人もいない。

 言い訳のようだけれど、モテない訳じゃない。と思う。

 学生時代から君に振り向いて欲しくて目一杯努力をしたから、見た目だってそれなりで……女の子から告白された事だって一度や二度じゃない。

 

 ただ良い人に出逢えなかった。

 それに僕は初恋の病を完治できずにいた。

 いつかまた、会えるのかも知れない。

 「君は僕を待っている永遠の乙女」という幻想に捕らわれていた。

 

 この15年、色々な事があった。君の実家は浜の方と聞いたことがある。

 だからひょっとしてもう、君はこの世界にいないんじゃないかって、極端な諦めも心の中にあった。



 

 でも良かった。君はこの世にいた。


「びっくりした。15年ぶりくらい? そうか、教育学部だったものね。ちゃんと先生になったんだ」


 僕が勤める中学校の入学式で君に再会した。


「まあね、真面目だけが取り柄だったから。なんとかやっているよ」


 酷く驚いたけれど僕は落ち着いて答えた。


「ふふふ、縁って不思議ね。中学校ってどんなかしらと緊張していたけれど、知っている顔が見れてホッとした。先生、娘をよろしくお願いします」


「はい、お任せください」


 僕は、この上なく爽やかに応対したつもりだけれど、心の中は荒れていた。

 君と一緒に会釈した男は、気の弱そうな、パッとしない奴だった。

 一瞬、だったら僕でもいけたんじゃないか?

 なんて事が脳裏を過ぎり、今更ながら自分の意気地なしを呪った。


 初恋は、漸く終わった。





 僕の生徒となった少女は、冴えない父親の面影などどこにもなくて、君にそっくりだった。


 艶やかな黒髪に、子猫のようなクリンとした瞳で……。

 

 

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